「隅田川七福神」は、「向島百花園」福禄寿・言問橋東詰の「三囲神社」恵比寿、大黒天・長命寺の弁財天・弘福寺の布袋尊
白鬚神社の寿老人・多聞寺の毘沙門天。
隅田の七福神周りは、「吉原通いの時間つぶし」として利用したもいう。
浅草から吾妻橋を登ると北十間川に沿て東武伊勢崎線、隅田公園、牛嶋神社、常泉寺・圓通寺、その間に言問橋、三囲神社、桜橋、に出ると
弘福寺・長命寺・桜餅、言問団子、王貞治が少年野球で練習していた球場、永井荷風の墨東奇談の玉ノ井、向島百花園、白髭橋と進んだ。
「三囲神社」は、鍵番通りにある神社、1596-1615年に移築した神社。
昔、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して、神社を建てる時、土の中から壷が出てきたので中を開けてみると、老翁の神像が入っていた。
その時狐が現れて、像の周りを三度回ったので、三囲神社となっといわれている。
隅田七福神 恵比寿神。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。
理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。
社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。
閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されたもの。
祭神ー宇迦之御魂之命、宇迦御魂之命。丹後神社の祭神も、宇迦御魂之命である。
三囲神社の三つ穴灯篭、神社の境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られ、木嶋神社と同様の石造りの三柱鳥居がある。
三井高利1622-94三井財閥の始祖、越後屋呉服店開業豪商、薄利多売・現銀掛け値なし・正札販売で常識を覆す。
境内には、花柳界(三業)の地である向島にふさわしく、江戸時代から現代に至るまでの文人、役者やの句碑や歌碑が数多くあります
「和らかくかたく持ちたし人心」、向島という土地柄か料理関連の包丁塚もあります。 三角鳥居を対には、三本足の柱を持つ屋根ついた手水鉢が置かれていた。
「雨乞いの碑」、1693年の夏、「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句を詠むとあくる日雨が降ったという逸話。
江戸中期、付近に隅田川御殿という徳川将軍の休憩所があり、その北西にかつて隅田川に向かって流れていた内川(古隅田川)が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだことに由来するといわれる。
しかし、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在しており、西岸地域に住む庶民がこれらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも考えられと云う。
「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891年(明治24年)に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった町名が成立してから、花柳界、「向島 (花街)」は、現在、芸妓数は100名以上で、伝統文化を守り積極的に活躍していると云う。
「弘福寺」は、山号ー牛頭山・宗派ー黄檗宗・本尊ー釈迦如来。札所ー隅田川七福神(布袋尊)
1673年、黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。
江戸時代には、鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年に再建。
黄檗宗は、禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置された。
布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は盡きることがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭したうと有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われた。
本堂
「淡島寒月」、日本橋馬喰町生まれ、淡島家の家業は、軽焼きの名店淡島屋、裕福であった。
父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始め、1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。
1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介、このことが明治における西鶴再評価に繋がった。
1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。
1923年9月、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。1926年2月、66歳で死去。駒込の染井霊園に葬られた。
「長命寺」は、天台宗の寺、山号ー宝寿山、開基創建不詳。
三代将軍徳川家光鷹狩りのおりに腹痛を起こし、長命寺に駆け込み「般若水」で薬を服用し快癒したと云う。
長命寺と芭蕉の句碑
「いざさらば 雪見にころぶところまで」、と刻まれたこの「雪見の句碑」は,最も優れた一つといわれている。
松尾芭蕉の門人、祗空は、この地に庵をつくり、その後、祗空の門人「自在庵祗徳」は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂とした。
三世自在庵祗徳が、1858年に庵を再興し、句碑建立。
「日本のレガッタ」は隅田川から。
日本でのボート競争は、1883年、明治16年に隅田川の枕橋~言間間で開催された。
海軍競漕大会には明治天皇も隅田川べりへ、、東京中か沸きかえったと云う。
当時のスポーツといえば柔道、馬術、相撲などか主なものであり、外国から直輸入された近代的なスポーツとして、物珍しさもありレガッタは大変人気。
特に大学対抗レースは応援合戦も自熟し、あの文豪、夏目漱石も学生の頃レガッタの練習に熟を上げすぎて、進級できなかったというエピソードかある。
長命寺の土手側に「野口雨情」の文学碑が。
立札「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」。
都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆者、「野口雨情」氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたもの。
昭和63年、隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、区が記念碑に刻し、永遠に保存。
創業江戸末期の老舗「長命寺さくら餅」と「言問団子」が知られている。
「大倉 喜八郎」1837年 -1928年は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。
渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。
従三位男爵。号は鶴彦。90歳没
箱田道中の向島墨堤に、喜八郎の別邸跡がある。現在倉庫跡(案内板のみ)
道を挟んで向かい側が、永井荷風、墨東奇談の鳩ノ巣・玉ノ井になる。
「向島子育地蔵尊」
植木屋平作の雇用人某夫婦が堤外の田地にて殺害されし時、地蔵尊この中の児童によりて犯人を御告げありければ、尊崇やむことなく御尊体を当所に安置し朝夕供養し奉りけり。
その後平作の家運に繁盛におもむきしが天保三年四月時の十二代将軍徳川家斎公当地に御鷹狩ありし時、平作の家に御少憩あり庭内に唐楓を御手継ぎあり。「この樹は今堂畔の邸内にあり、大正四年東京府より天然記念物にされた」その折地蔵尊の由来を聞召され御帰城の時参拝遊ばせけり。平作は之を記念せん為始めて御堂を建立せしかば、郷人等も皆競いて敬仰信奉し、毎月四の日には念仏供養をなし、おのが子女をば必ず地蔵尊の御弟子となすこととはなせり。その後、霊験いよいよあらたかにで川に溺れし者を堂前にかつぎ来れば蘇生し出産眼病その他諸病の平癒又は開運を祈れば霊験たちどころに現れければ、遠近伝え聞いて来り拝するもの日に多く。尊前には香華盛塩の絶ゆる間なかりけり。さらば当時俗間に子育地蔵戒いは塩地蔵又は平作地蔵とも称え奉るに至りぬ。
始め御堂は堤の坂の中腹にありしが明治四十四年堤防修築際土盛修繕して縁日を始め、その頃よりこの坂も地蔵坂とは、、、。とある。
次回は、向島幸田露伴旧宅跡方面へ。