三代将軍家光公が、1642年に浅草に建立した三十三間堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先に当たっていたので「矢先稲荷」と名付けられたといわれている。
拝殿の格天井には、神武天皇の御世からの「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されて、馬にまつわる歴史が理解できると云う。
矢先神社

祭神は倉稲魂命で浅草七福神のひとつ、「福禄寿」を祀っている。
福禄寿は、道教で強く希求される3種の願い、幸福(血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。
宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。



台東区松が谷「本覚寺」は、日蓮宗、龍嶋山と号し、京都本圀寺末で1591年の起立。
江戸十祖師の一つ日限祖師として知られている。
本覚寺山門

天正19年に円了院成身日満が開基、上行院日覚が開山となり創建したと伝えられ、「明暦3年の大火」の後、
馬喰町より当地へ移転しいる。
本堂、祖師堂、福徳稲荷大明神、鬼子母神堂等が



昔、「菊水会館」(菊水道場)という生モツ専門店で結婚式場もあったが今は無い、
浄土真宗・本山 東本願寺の裏通りで、周りには小さな居酒屋、お好み焼が並ぶ。
戦後の食糧難時「モツ肉」を求めて菊水に



「浄土真宗東本願寺」は、宗祖、親鸞聖人/見真大師・開基、東本願寺 教如上人(第十二世)、本尊 阿弥陀如来。
教典、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経。
1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。
江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。
東本願寺裏通り


「雷門」、風雷神門といい、左右に風神・雷神安置、潜ると仁王門、歌川広重は、五重塔を右の描いている、太平洋戦争で焼失し左に
仁王門までを仲見世と云っているが、昔は、20軒茶屋で、必ず、看板娘の茶汲み娘がいた。
1765年頃の「蔦屋」の三人美人で中でも「お芳」はもてはやされたという。
錦絵モデルになったのが、谷中「鍵屋」笠森お仙・観音裏の「柳屋」お藤と20軒茶屋のお芳が選ばれていると云う。
「吾妻鏡」にも寺の名が出てくる。源頼朝・足利尊氏帰依している。(坂東33観音札所の13番寺)
上野寛永寺開祖「天海僧正」進言で、徳川家の祈願所にもなっている。
本堂右手に「三社権現・浅草神社」三社様がある。氏子18か町から山車・神輿三基が出される。神輿は船で駒形で陸に上げまた本堂まで戻るコースになっている。
参拝客は、神社裏から馬車通り、待乳山聖天、山谷堀通り、吉原大門、のコースで賑わったという。
浅草寺に参拝し、隣の浅草神社へ



新門辰五郎と徳川慶喜、最後の将軍の関係、
「徳川慶喜」1837-1913 徳川幕府最後の将軍 15代将軍 水戸藩主徳川斉昭の七男、一橋家相続、幕政改革促進した。大政奉還。
謹慎後公爵・貴族院議員、長い晩年を送っている。
浅草神社 末社浅間神社



「新門辰五郎」1800-1875 徳川慶喜を助けた江戸町火消で侠客、下谷山崎町生まれ、江戸町火消「を」組頭取、娘が慶喜の妾となり
慶喜の配下として働く、文久3年上洛には、200人随行している。
慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ大阪城に「家康の金扇の馬印」を置き忘れ、辰五郎は、江戸まで届けている。
慶喜謹慎時、御用金2万両を護送している、明治8年自宅で没した。
浅草神社内「被官稲荷神社」は、 安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城・伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快。
同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請し、小社を創建「被官稲荷神社」と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られている。
名称の由来は不明ですが、被官とは官を被る、ということで、就職・出世の神社。
被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されもの。
新門辰五郎、被官稲荷神社



次回は、新吉原・向島牛嶋神社方面へ。