都内の神社をめぐりました。7回ほどの掲載になります、
「明治神宮」表参道、大鳥居を潜り、石橋左に一本の「樅の大木」が、ここは代々「樅の木」が生えている。平安時代か、鎌倉時代からか
誰も知らないが、旅人は、その巨木を目印にしていたようである。
この辺を、自然に「代々木」と呼ばれている。
江戸時代に入り、この地は、「加藤清正」の下屋敷で庭園内であった。内苑に「清正の井」がある。
後に、井伊掃部頭の下屋敷、樅の木中心に一里余りの大邸宅であったと云う。現在でも樅の木は残って居る。
若者の人気の「竹下通り」は、この原宿駅を下車
JR「原宿」は、明治39年で、恵比寿駅と同時、最初の頃は、代々木駅寄りで、大正に入り、9年神宮が出来、表参道の駅としてイギリス
田舎駅を模して出来、神宮駅としてマッチした駅となっている。
当初乗降は少なく、代々木連兵場の軍人が主であったと云う。
ショッピング通りと朝の明治通り
練兵場は、青山練兵場が博物館建設でここに移動してきている。明治時代は、茶畑・桑畑で、人家は20軒の寒村で寂しい所であったと云う。
代々木森林公園南門に「日本航空発始の記念碑」が建てられている。森林公園は、日比谷公園の3.5倍ある。
表参道大鳥居二の鳥居は、高さ12m、柱直径1.2m、木造日本一。
神宮は、南参道「原宿」・北参道「代々木」。内苑面積72万3千ha(21万坪)、明治天皇崩御後、全国民の協力で造営された。
外苑には、献納樹木が、また台湾・樺太・朝鮮などで12万本以上、樹木の種類365種。
全国青年団が勤労奉仕で、現在の様に立派な森林になっている。
神宮橋を渡ると神社第一大鳥居、参道途中に楼門が、正面拝殿
戦災に遭っている。昭和33年に再建、野鳥の楽園にもなっている。武蔵野雑木林の中に、桜、山つつじ、山吹、藤、花菖蒲、睡蓮、花菖蒲は有名、150種。
宝物殿には、明治天皇遺品など(有料)。
献上酒はウイスキーの樽が
「世阿弥」1363-1443 能役者・能作家、能を舞台芸術に高めた「能」の大成者。
父の「観阿弥」と共に今熊野で演じた「猿楽」を足利義満に認められて京都へ進出し、名声を高めた。
地方的芸能とさげすまれてきた猿楽を洗練して、新しい芸風を作り出し、それを理論的に裏付けて、「風姿花伝」の伝書群に書き留めて伝えた。足利義満の生存中、世阿弥は、目覚ましい活動をしたが、足利義持は、田楽の増阿弥を愛好したので活動は衰えていく、次の足利義教
になると、甥の音阿弥をひいきし、世阿弥は、仙洞御所への出入り差止めなどの圧迫を受けたあげく、ついに永享6年には、佐渡島へ流された。「風姿花伝」は、明治12年になって刊行されている。
能は日本の伝統芸能の一つで、狂言とともに南北朝時代から現代に演じ継がれ、世界でもっとも長い演劇生命と伝統をもっている。
独自の様式をもつ能舞台に、能面を用い、世阿弥が「舞歌二道」と指示したように、舞に高められ抽象化された演技と、謡と囃子による音楽要素の融合された演劇である。
明治以降は「能楽」という呼び方が一般化したが、「猿楽」または「猿楽の能」とよばれ、世阿弥は申楽の字をあてている。
「能」とは歌舞を伴い、劇的展開をもつ芸能の意味であり、田楽の能、延年の能も行われていたが、猿楽の能のような発達を遂げなかった。「謡曲」は能の声楽部分をさし、またその脚本をいう。
世阿弥は能の脚本を「能本」とよんでいる。
能楽堂正面玄関
国立能楽堂は、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場で、1983年8月竣工。設計は大江宏氏。
所在地、渋谷区千駄ヶ谷。
第15代名人大山康晴書の碑がJR千駄ヶ谷駅ホームにある
原宿~千駄ヶ谷と歩く
次回は、靖国神社方面へ。
「明治神宮」表参道、大鳥居を潜り、石橋左に一本の「樅の大木」が、ここは代々「樅の木」が生えている。平安時代か、鎌倉時代からか
誰も知らないが、旅人は、その巨木を目印にしていたようである。
この辺を、自然に「代々木」と呼ばれている。
江戸時代に入り、この地は、「加藤清正」の下屋敷で庭園内であった。内苑に「清正の井」がある。
後に、井伊掃部頭の下屋敷、樅の木中心に一里余りの大邸宅であったと云う。現在でも樅の木は残って居る。
若者の人気の「竹下通り」は、この原宿駅を下車
JR「原宿」は、明治39年で、恵比寿駅と同時、最初の頃は、代々木駅寄りで、大正に入り、9年神宮が出来、表参道の駅としてイギリス
田舎駅を模して出来、神宮駅としてマッチした駅となっている。
当初乗降は少なく、代々木連兵場の軍人が主であったと云う。
ショッピング通りと朝の明治通り
練兵場は、青山練兵場が博物館建設でここに移動してきている。明治時代は、茶畑・桑畑で、人家は20軒の寒村で寂しい所であったと云う。
代々木森林公園南門に「日本航空発始の記念碑」が建てられている。森林公園は、日比谷公園の3.5倍ある。
表参道大鳥居二の鳥居は、高さ12m、柱直径1.2m、木造日本一。
神宮は、南参道「原宿」・北参道「代々木」。内苑面積72万3千ha(21万坪)、明治天皇崩御後、全国民の協力で造営された。
外苑には、献納樹木が、また台湾・樺太・朝鮮などで12万本以上、樹木の種類365種。
全国青年団が勤労奉仕で、現在の様に立派な森林になっている。
神宮橋を渡ると神社第一大鳥居、参道途中に楼門が、正面拝殿
戦災に遭っている。昭和33年に再建、野鳥の楽園にもなっている。武蔵野雑木林の中に、桜、山つつじ、山吹、藤、花菖蒲、睡蓮、花菖蒲は有名、150種。
宝物殿には、明治天皇遺品など(有料)。
献上酒はウイスキーの樽が
「世阿弥」1363-1443 能役者・能作家、能を舞台芸術に高めた「能」の大成者。
父の「観阿弥」と共に今熊野で演じた「猿楽」を足利義満に認められて京都へ進出し、名声を高めた。
地方的芸能とさげすまれてきた猿楽を洗練して、新しい芸風を作り出し、それを理論的に裏付けて、「風姿花伝」の伝書群に書き留めて伝えた。足利義満の生存中、世阿弥は、目覚ましい活動をしたが、足利義持は、田楽の増阿弥を愛好したので活動は衰えていく、次の足利義教
になると、甥の音阿弥をひいきし、世阿弥は、仙洞御所への出入り差止めなどの圧迫を受けたあげく、ついに永享6年には、佐渡島へ流された。「風姿花伝」は、明治12年になって刊行されている。
能は日本の伝統芸能の一つで、狂言とともに南北朝時代から現代に演じ継がれ、世界でもっとも長い演劇生命と伝統をもっている。
独自の様式をもつ能舞台に、能面を用い、世阿弥が「舞歌二道」と指示したように、舞に高められ抽象化された演技と、謡と囃子による音楽要素の融合された演劇である。
明治以降は「能楽」という呼び方が一般化したが、「猿楽」または「猿楽の能」とよばれ、世阿弥は申楽の字をあてている。
「能」とは歌舞を伴い、劇的展開をもつ芸能の意味であり、田楽の能、延年の能も行われていたが、猿楽の能のような発達を遂げなかった。「謡曲」は能の声楽部分をさし、またその脚本をいう。
世阿弥は能の脚本を「能本」とよんでいる。
能楽堂正面玄関
国立能楽堂は、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場で、1983年8月竣工。設計は大江宏氏。
所在地、渋谷区千駄ヶ谷。
第15代名人大山康晴書の碑がJR千駄ヶ谷駅ホームにある
原宿~千駄ヶ谷と歩く
次回は、靖国神社方面へ。