syuの日記・気まま旅

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靖国神社と戦没者墓苑

2013-11-19 | syu散歩
「九段坂・牛ヶ淵」、宝永年間 1704~1709年に、この急坂に沿って段違いになった九軒の長屋を造り、江戸城の吹上庭園に勤める役人を置いたのが九段坂名の起こりである。
この坂上左の土橋を渡ると北ノ丸田安門である。
麹町台の番町を水源とする局沢川の流れを半蔵門と田安門の高土橋で堰き止めて千鳥ヶ淵を造り、田安門下の牛ヶ淵は、清水門前の土橋で水位を保ち、江戸初期の飲料水の水源地であった。
このように堰き止めてできた自然な大池は、人工の濠割と異なり「淵」と名付けている。

1700年頃の九段坂


「日本橋川」、水道橋駅の西、神田川の小石川橋のたもとから南下し、大手町の北縁から呉服橋北、日本橋を経由し、永代橋付近で隅田川に注ぐ水路である。
この川の西半部は外濠の一部を構成している。
この部分は、「平川」と呼ばれ、小石川沼から江戸湾へと注ぐ主要な川筋だった。
江戸の都市整備で上流を神田川に奪われ、その後は小さな水路に過ぎなかったが、明治になって再度神田川に接続された。
現在は首都高速池袋線に蓋をされた形になっている。
現在の一ツ橋、神田橋、常磐橋のたもとには、それぞれ一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門があった。
また雉子橋のやや南には雉子橋門があった。現在、常盤橋門周辺は、「常盤公園」になり、門の遺構を見ることができる。

JR市ヶ谷駅下車し千鳥ヶ淵・靖国神社へ


「千鳥ヶ淵公園・無名戦士戦没者墓苑」
北の丸公園の西側の皇居の堀が千鳥ヶ淵、千鳥のような形をしていてその名があり、両岸に桜並木で桜が咲き乱れて都心でも人気。

米の国務、国防両長官が千鳥ケ淵に献花、私は、桜の時期には欠かさず参拝する


靖国神社から多少は慣れて「無名戦士の墓、戦没者墓苑がある。我が国唯一の国立無名戦士の墓になっている。
満州、中国、南方諸島で収集された第二次世界大戦の身元不明の戦死者8700体の遺骨がつめられている。



若者たちを「花と散れ」と命じ、果ては「草むすかばね……かえり見はせず」と何百万の兵が南や北に放置された。
「千鳥ヶ渕墓苑」は、重い腰を押されて政府が建てた「草むす屍」の納骨所だ。
皇居の北側、靖国神社脇の田安門から内堀にそって南に歩く、堀は広く深い緑の静閑な地が千鳥ヶ淵。小さな六角堂が建っている。
戦友や遺族の努力でやっと収集受領の約三十五万体が納まると云う。



桜並木が見事な所


地図の中央部と敷地は広い


靖国神社へ


「靖国神社」
東京招魂社という名称であったが、後に現社名「靖國神社」に改称された。
創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。(陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。

蔵前通りから神社に
    

                        拝殿


幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年現在で計246万6532柱にも及ぶ。
当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになる。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。
従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座であると云う。

神社境内
    

戦後、日本を占領したGHQは、1945年、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。
そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン 神父に意見を求めることになる。
ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。

                   九段坂から大鳥居を潜ると楼門


靖国神社の組織は、神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。
神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はないとされている。
例えば第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではない。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になると云う。

                   境内で青空骨董市が


                   九段坂を登り切ると「常燈、品川沖灯台と大鳥居」


「東京女子医大発祥地」
1900年ー 東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。 1903年、 東京女医学校は麹町区飯田町の東京至誠医院内から牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転。 1908年、河田町に東京女医学校附属病院を設置。 1910年、 同窓会として「校友会」を設立。後の至誠会の前身となった。 1912年、 東京女子医学専門学校に昇格(通称「東京女子医専」)、、、、、。

縄文時代の頃、このあたりは入江。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となる。 徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷に、九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として賑わい、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、さびれた地に、学校など、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に、日本大学開校の地、東京府立第四中学校発祥の地
國學院大学開校の地、甲武鉄道 飯田町駅、台所町跡、東京農業大学開校の地、日本赤十字社跡、新微組屯所跡、徽章業発祥の地。

「北辰社牧場跡」
幕府が破れ明治の時代になると、荒廃が進み廃墟と化している、そこで、その地を農業の場として利用し、職を失った武士たちの失業対策として活用されるようになる。
北辰社牧場もその一つで、最盛期にはこの飯田橋に乳牛が50頭ほどいて、当時は新しい飲み物であった牛乳を提供していたと言われている。
北辰社牧場、実は戊辰戦争で有名な榎本武揚が設立者。
幕臣であった榎本がその才能を買われ、新政府で通信大臣、文部大臣、外務大臣を歴任したという活躍は広く知られている、
農商務大臣は3年務め、(歴代農相で最長と云う)榎本が農業に目を向けるようになったのは、明治新政府によって北海道開拓使として派遣されていた際に、「日本の力を高めるためには、国内農業の発展が不可欠」であることを強く認識したからだと言われている。
榎本は、1862年、幕府にオランダ留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、科学技術等広く習得し、牧場開設という発想は、野菜や乳製品で有名なオランダに影響されていると云う。

    

次回は、飯田橋から神田明神方面へ。