syuの日記・気まま旅

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富士吉田~大月岩殿山 猿橋

2013-11-16 | 富士山麓日記
道の駅富士吉田に 隣接する「富士山レーダードーム館」がある。
かつて 富士山測候所で使用されていた気象レーダードームが移設・展示。ここから観た富士山。

 

レーダードーム館は有料
 

「岩殿山・城」標高 634m

大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。
小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、1509年武田氏の傘下に入った。
その後は軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たしたようだ。

東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。
東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。
周囲には集落や武家館が点在していたとも考えられている。

山頂から富士山が望め山梨百名山・秀麗富嶽12景に選定
 

武田家の敗色が濃くなり「小山田信茂」は、
武田家を見限り、織田方へ寝返るため、新府城を失った信玄の跡を継いだ勝頼を岩殿山城へ呼び寄せます。

信茂は、笹子峠で勝頼を攻撃し、敗北を悟った勝頼は田野(天目山)で自刃します。そのとき流れた家臣たちの血は川を三日三晩赤く染め、
三日血川と呼ばれ現在の日川の由来となっている。
裏切りが成功したかに見えた信茂ですが、織田信長に攻められ死、信長は過去に何人もの家臣に裏切られているので、忠義に反する
信茂のやり方が我慢できなかったとも云う。
その信長も、わずか3ヵ月後の天正10年「本能寺の変」で命を落としている。

中央自動車道からも望める
   

「甲州・猿橋」
日本三奇橋のひとつに数えられる猿橋がある。断崖せまる渓谷美の 桂川 にかけられており、古くから名勝・奇勝の地として知られ、往来の旅人はもとより数々の文人・墨客・才人達がこの橋を訪れて、さまざまな足跡と作品等に残している。

猿橋の歴史は古く、江戸期の甲州街道時代をはるかにさかのぼり、初めて架けられたのは、七世紀(推古天皇の時代)頃ではないかといわれ、渡来した百済の工人が、川岸の梢から猿たちが群れをなして川を渡る姿をヒントに、橋脚を用いず棟木と横桁を何段も重ねて中央で結合するという独自の構造を考案し、この橋を架けたという伝承が語り継がれている。

猿橋の全長は31m。桂川の川面までは30mあり、現在の猿橋は、昭和59年に架け替えられたもので、国の名勝文化財指定に。

 

野口雨情は、やさしい眼差しでこの猿橋を眺め、安藤広重は、猿橋の景勝を「甲陽猿橋之図」に残した。

 

「松尾芭蕉と猿橋」芭蕉は、 
               猿橋や蠅も居直る笠の上。ー芭蕉の甲州への道中吟)
昔から、猿橋の地点は橋づくし、渓谷が深い割りには川幅が狭いので架橋には都合が良かったようだ。
道中の重要な拠点であったのは間違いない、歴史遺産の「猿橋」・旧道の「猿橋」、更に水路の「猿橋」と景観である。

   

最後の山発ちをした「国定忠治」は、 中山道から甲州街道へ追手に逃れ、そして、 ここ猿橋、当時の旅館だった大黒屋にしばらく逗留したという。お店に「忠次そば」がある。

 

今回で富士山一周を終了します。