syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

十和田市を訪ねて

2011-10-24 | 気まま旅
急用ができ七戸十和田まで出かけました。新幹線のこの駅は昨年出来たばかりで、広ーい駅前に何もなく、
唯一道の駅があり、地元の野菜などが売られていました。



  

今回の所用は「十和田市駅」十和田観光電鉄終点(三沢~十和田市)の駅、90年の歴史のある鉄道です。
昔から十和田湖へ行く時の1ルートで、この駅から車で1時間半ほどで十和田湖です。

電車は大正11年9月の開通、軌道幅762ミリの狭軌で、機関車2両・客車3両・貨車6両、一日5往復でした。
昭和26年電化を機に、軌道幅を1067ミリに拡張し、現在は十和田市~三沢間を一日17往復(土日祝は12往復)しています。
しかし時代に合わず90年の歴史を閉じ今年末で鉄道を廃止し、バスに切り替えるそうです。

この駅はビジネスホテルもあり、割と大きな町です。

十和田市稲荷神社


稲荷神社 三本木周辺は1855から盛岡藩士新渡戸傳によって開発が行われ1859に上水工事が完成、新たに三本木集落を開村に辺り
元集落の産土神だった千歳森稲荷大明神を現在地に勧請したのが始まり。
稲荷神社も五穀豊穣の守護神として崇敬され明治6年には郷社に列しらっれています。現在の社殿は昭和29年に再建されたものです。

朱色が美しい神社   




十和田市駅から約10分ほど歩くと、官庁街。
十和田市現代美術館は「新しい体験を提供する開かれた施設」として、十和田の中核となる施設です。アート作品の展示のほか、
文化芸術活動の支援や交流を促進する拠点となります。
十和田でしかみることができない22の恒久設置作品が展示されている常設展示スペースのほか、ギャラリースペース、カフェ、市民活動サポートスペースなど、
多様な機能を持ちます。

十和田市現代美術館


市民公園

 
  

旧陸軍軍馬補充部 三本木支部跡地

 
青森県が日本有数の馬の産地になった。
まず十和田市では藩政時代の文久3年(1863年)に馬市が開催されて以来馬セリで賑わい、明治17年には軍馬育成所(後の軍馬補充部)も開設され、
馬産地としてしられるようになった。

軍馬補充部三本木支部
明治18年の陸軍軍馬局出張所開設以来昭和20年の解体まで、約60年の長きにわたり町の発展に寄与しました。およそ1700頭強の馬を有し、
軍馬の育成に意を注ぎましたが、軍馬が高値で買い上げられたことから産馬熱を高め、馬のまち三本木として活性していきました。

その馬の町三本木を歩いた。馬のモニュメントが市中心に作られている。




所用を済ませ帰宅したが、今は3時間半の新幹線。30年前は青森へ行くには夜行電車だったことを思い出す。   

将棋の天童

2011-10-21 | 気まま旅
松尾芭蕉、斉藤茂吉、古今和歌集に多く詠まれている。「サクランボの東根」を過ぎると天童の温泉街に出る。

「天童温泉街」は、明治44年湧出、昭和31年旅館街に、天童と云うと、人間将棋と桜で知られている。天童駅近くに若松寺があるが、通称若松観音、「めでためでたの若松様よ・・」花笠音頭はここ天童に、

南北朝に北畠天竜丸が城を建てた。将棋駒は全国の95%を占めている、天童藩士の内職から発達したという。



棋の里・天童が産んだ縁起物「飾り駒シリーズ」。人気の「左馬」や「王将」等、千客万来、商売繁盛、社運隆昌を願う。
堂々とした風格ある「天童の飾り駒」1番 飾り駒1尺「王将」、2番 飾り駒8寸「左馬」、5番 飾り駒7寸「王将」
6番 夫婦駒 、8番 飾り駒6寸「王将」、10番 白木5寸「香車」、11番 招福駒、12番 おどり駒等がある。

王将通りに                            天童温泉神社
  

南部に舞鶴山があり市域を南北に分けている。
舞鶴山は天童城の城址でもあり、山頂では毎年4月下旬にプロ棋士が人間が扮する駒で将棋を指す人間将棋が行われている。
将棋駒の産地らしく、市内の至る所に将棋のモニュメントがある、
温泉街を流れる倉津川にかかる橋には、王将橋、金将橋などそれぞれ将棋の駒の名前がついている。


石鳥居           狛犬          本殿
    

「高浜虚子」 1874~1959  「ホトトギス」主宰者     愛媛県 俳人、小説家 初め放子と号した。
海外にも羽織袴に草履スタイルを崩さず、俳句の伝統を守った。夏目漱石と共に余裕派、作品、風流せん法、俳諧師

正岡子規、と文通し、俳句への機縁に。 天童温泉神社 高浜の句碑
                       「いてふの根床 凡斜めに 茶屋涼し」


  


次回山寺へ。

作並ニッカウヰスキーから

2011-10-20 | 気まま旅

「作並街道」仙台城下から作並温泉をえて関山峠を越え山形天童、山形城下の街道、関山街道ともいう。現国道48号線、高速も開通している。
「作並温泉」は、仙台市から西約30KM、広瀬川上流にある。717年頃僧行基が発見している古湯、仙台の奥屋敷は、作並と秋保温泉と云われている。
私は、仙台担当時4年間使った道で懐かしい。作並温泉の「岩松旅館」には,特に世話になった。

作並温泉は、721年に僧行基が発見し、源頼朝も癒した湯である。
江戸時代、初代岩松氏がこの辺りを開墾し、多くの人助けをして、当時の藩主伊達斉松公の許可で開湯し、
伊達公鷹狩時の温泉が「鷹の湯」で現存、明治の歌人正岡子規も足を運んでいた。

詩人土井晩翆(宮城県出身、荒城の月作曲)、円地文子、松本清張など、一端を舞台にしている。ここの長い階段を下り、
広瀬川上流に出ての露天風呂は一週間の疲れが一気に取れた。


ニッカウヰスキー仙台工場・宮城峡蒸留所に立ち寄った。

地震による宮城峡蒸留所の貯蔵関係の被害は軽微とのこと、原酒は何事もなかったように熟成を重ねている。
また一部損壊があった醸造設備、蒸留設備の復旧作業もほぼ終了しウイスキー造りを再開されている。見学も再開していた。

  

ウイスキーは、蒸留酒の一つ、大麦、ライ麦、トウモロコシなどの穀物を麦芽の酵素で糖化し、これを発酵させ蒸留したもの。
「ウイスキー」の名称は、ゲール語の uisce beatha(ウィシュケ・ベァハ、「命の水」の意)に由来する。
日本語ではウィスキーまたはウヰスキー、ウ井スキーとも表記され、漢字では火酒と書かれる。ただし酒税法での正式名称は「ウイスキー」である。


  

「広瀬川上流」
上、中流部では谷が深いため、広瀬川の水を引き上げて利用することはない。熊ヶ根の野川橋付近では、右岸の岸壁に穴が穿ってあり、籠岩と呼ばれる。
かつて水路の取水口にしようとして断念した箇所ではないかといわれるが、定かではない。

「定義道標石」(仙台庵回文の碑)
定義道標石(仙台庵回文の碑)定義街道から落合橋を経て作並街道へ向う分岐点に1859年、に建てられた定義・作並街道の道標石。
定義如来の縁起由来が書かれ、「みな草の名は百としれ薬なりすげりしとくは花のさくなみ」と回文師細谷勘佐衛門(仙庵、仙代庵)の
回文歌が彫り込まれた通称回文碑と呼ばれる道標石。回文の里と呼ばれる。

広瀬川上流
    

「関山峠」   
仙台から広瀬川沿いに遡り、作並から関山峠(標高650m)を越えて天童に至る関山 街道は同様に仙台から山形に向かう笹谷峠(標高906m)や
二口峠(標高934m)に 比べて標高が低いものの山が道を遮る様にそびえ、難所であった。

  

「関山峠 大滝」  関山峠を山形側にすこし下ったところに、関山の大滝と呼ばれる高さ10mの滝がある。
ドライブインに隣接しており、駐車場から滝つぼの近くまで歩いて降りることができる。
このドライブインの側には、(旧)関山トンネル工事の際に起きた事故の慰霊碑がある。


  

次回は山形県天童へ

  

作並の西方寺

2011-10-19 | 気まま旅
「大倉ダム」建設する計画は、宮城県と仙台市が別個に進め、県が大倉ダム案を、市が定義ダム案をおして対立した。
結局、県の案が採用され1958年に工事が始まった。水没地の住民は一時反対運動を起こしたが、結局立ち退かされた。
大倉ダムは1961年に完成した。
農業用水、工業用水、水力発電にも用いられる多目的ダムだが、主たる目的は仙台への水道水の供給である。

ダムによって家屋58戸と田畑68ヘクタールが水没した。

  

江戸時代の大倉村では馬の飼育が盛んで、農耕用だけでなく運搬用の馬をも産した。安永3年の『安永風土記書上』によれば、
大倉村には人家72軒に対して馬が157頭いた。
明治時代に農耕馬と軍馬の需要が高まると、大倉村では仔馬を盛んに飼育して売った。
第2次世界大戦後に軍馬需要がなくなり、機械化が進むと、馬は激減し、かわって牛が飼育されるようになった。

かつては豊富な山林資源による林業が盛んであった。青下川では大正末期まで、大倉川では昭和初期まで、
切り出した材木を川に流して下流に輸送する流木が行われた。また薪炭も重要で、馬に荷を積み、山道をたどって仙台に送り出した。
明治時代からは木炭の生産が盛んであった。 

  

「定義如来・西方寺」へ。 浄土宗の寺院。山号 は極楽山。本尊は阿弥陀。

仙台市の西方にあり、大倉ダムの奥、山中にある。ご本尊に阿弥陀如来像を祀っている。
古くから縁結び・子授け・安産にご利益があることで知られ、古来より一生に一度の願いであれば必ず叶うといわれて
参拝客が絶えることがない。


    

「西方寺」は、肥後守・平貞能が、壇ノ浦の戦い後に当地に隠れ住んだとされる平家落人伝説が残る。
貞能が安徳天皇と平氏一門の冥福を祈って阿弥陀如来を安置し、また改名して「定義」と名乗った。
  
     

御廟(貞能堂) 立派な山門。仁王様もにらみを利かせている、 山門から貞能堂への参道

  

緑も綺麗な五重塔 色んな角度から楽しめる。 境内は広い、 今の季節ゆっくり散策出来た。

  

100万都市仙台からわずかな距離だが、深い森と清流に恵まれた「西方寺」でした。

  

次回は作並ニッカウヰスキーへ   

色付き始めた富士山麓

2011-10-18 | 富士山麓日記
どうだんツツジやもみじ、ナナカマド、桜など、少しずつ赤く染まり出しました。(10/17)
急に夏日になったり、忙しい事ですが、朝晩は大分冷えるので、美しい色になります。





   
  

 
  

           

一昨年よりなり始めた、我が家の栗は今年虫にやられ、1個も収穫できません。
しかし付近を散歩してこんなに沢山の栗ひろいが出来ました。栗ごはんも3度目です。