syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

世界遺産・春日大社

2014-02-18 | 気まま旅
奈良公園は、市街地の北東部。面積659.9hA,明治維新後神仏分離令・廃仏棄釈運動の為、南部の寺院は大打撃を受け、1876年県も廃され
堺県に吸収合併された。
南部復興の策として1880年旧興福寺境内と猿沢池付近を公園として開設された。1890年奈良県立公園となった。
興福寺・東大寺・春日大社など天平文化の遺構が点在し、博物館・万葉植物園が加わり、春日大社の神鹿(天然記念物)が見られる。
10月~11月にかけ「角切」が行われる。現在鹿の数は推定で1200頭以上が俳遊し増加傾向で、被害がも増えて、中には、人間を噛むのも出てきたと云う。

市街の東部を占める緑地帯、東西4k南西2kの奈良公園。
    

「万葉植物園」は、春日大社境内にある。面積1万m2あり、万葉集に詠まれているオキナグサ・カタクリ・アセビ・マユミなど約300種
の植物を栽培している。万葉歌と植物名の標柱板が着いていて楽しい。

公園内に興福寺・博物館・東大寺・春日神社・若草山のある大公園観光地。
  

世界遺産「春日大社」
三条通り真東にお椀形をした春日・御蓋山、西麓に鎮座。東側一帯を神社が広がって、面積100万m2ある。重要文化財の一の鳥居から
浅茅ヶ原、飛火野を通り、祓戸社の前に二の鳥居と続いている。
春日社は、藤原鎌足の子「藤原不比等」が「藤原氏」の氏神として祀ったもので「延喜式」に名神大社としてある。

古都・鹿群れから大社表参道に入る
    

祭神は、第一殿、たけみかづちの命・第二殿、経津主命・第三殿、天児屋根命・第四殿、比売神。

768年たけみかづちの命が常陸国鹿島社(茨城・鹿嶋神社)より三笠山(若草山)に影向、後下総国香取社(千葉・香取神社)の経津主命
と河内枚岡社(大阪府枚岡神社)の天児屋根命を勧請し、造営鎮座したと伝わる。

馴染みの献上樽酒がずらり、                  手水牛
  

春日神は、鹿に乗って影向したとされ、奈良の鹿は神鹿(天然記念物)として保護されている。
都が、長岡亰、平安京に移り、藤原氏による春日祭が盛大になっていったと云う。11世紀には、「興福寺」の管理下に置かれている。

奈良時代貴族春日詣を思い浮かべた
  

国宝ー赤糸威し鎧・金地螺鈿抜形太刀・本宮御料古神宝類など多数ある。春日大社宝物殿保管、一部展示もされちぇいる。

中門左右に廻廊が伸び、軒下に釣り燈籠が下がっている。中門の奥が4棟の本殿が並ぶ。
8月の「万灯籠」は、参道・社殿の全てに灯がともされ、杉木立ちと朱塗りの建物が灯にはえる。20年前を思い出している。

平安時代、天皇・上皇も参詣。                 江戸時代の武家達も
  

車舎・中門・回廊・幣殿・摂社の若宮神社・南に鎮座している。(天押雲根命を祀る)
重要文化財の本殿・拝殿・細殿・神楽殿・手水屋歴史上貴重な物。

3月13日「申祭り」は、春日祭りは、850年頃から続いている。若宮例祭は、前回でご紹介、石灯籠・釣り燈籠は、2800ある。8月15日
節分の日に「万燈籠」が行われる。

参道には1800基の石灯篭と釣灯籠が1000基以上、          数が正解者長者になれると云う
  

社殿は、27棟、第一殿・より大四殿んも4棟は、透塀、内鳥居、瑞垣を含み、1863年再建された一間社春日造り、檜皮葺きで平安時代
以来20年頃の式年還宮が行われた。(重要文化財)

神護景雲2年 768年、平城京の守護と国民の繁栄をお祈りする為に創建され、朱塗りのあでやかな社殿が立ち、古来より藤の名所としても知られている世界遺産春日大社。国宝、重要文化財520以上と見ごたえ十分である。

車舎(車庫)・南門楼門(釣り燈籠)・本殿(春日造りが4棟)朱塗りの切妻造り・宝物殿(藤原文化が)・若松神社。
    

次回は、東大寺へ。

奈良 春日大社おん祭り

2014-02-16 | 気まま旅
奈良は710年の平城京への遷都に始まるが、それ以前の弥生時代から盆地部に人々は生活している「佐紀楯列古墳群」春日山山麓を中心に和田春日系の氏族・菅原、秋篠土師氏・渡米系の氏族など居住していた。
平城遷都は、「藤原不比等」らの主導で行われ、70年の間奈良に都が置かれた。

その奈良駅に着いたのが5時を過ぎていた。
JR奈良駅から奈良公園方面に、東の延びる「三条通り」の中心街路で、特に今日は、
世界遺産・春日大社の「春日若宮おん祭」で大勢の人で「三条通り」は、人で溢れていた。
平安末期、保延2年(1136年)に、関白藤原忠通が五穀豊穣を祈るために始めた祭礼で歴史がある。国の重要無形民俗文化財に指定、
今年で878回目を数えると云う。
今日は17日で「お渡り式」、地域の学校は休校になると云う。
見る事が出来なかったが、平安期から江戸期代までの時代装束で着飾った大行列が市内を練り歩き、又神楽・舞楽などの神事芸能が行われた。
地元では、年末行事の「春日若宮おん祭」でお正月準備に入ると云われ、一年を締めくくる大事の行事となっている。

奈良駅          駅前広場                   伝統を踏まえた格調高い三条通り


藤原不比等 659-720 太政大臣、養老律令撰定推進者、鎌足の子、天武天皇が後援し、蘇我連子の娘と娶せ、持統朝に国政を担い、律令
制定や官制の整備に関与・文武朝に大納言・和銅元年右大臣に進んでいる。太政大臣・正一位は不比等没後追贈されている。

藤原忠通 1097~1164 平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となる。
一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われたが、保元の乱で頼長を倒して回復した。書にも優れ、法性寺流を開いた。

「大宿所祭」
大宿所とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。

町挙げての春日大社          「おん祭」屋台が両側に


「田楽座宵宮詣」・「宵宮祭」若宮神社拝舎で行われ、神楽殿で社伝の御巫神楽があげられる。

「遷幸の儀」
二基の大松明を先導に、宮司の奉持する御神霊を、数十名の神職が榊を手に人垣でこれを囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む。
伶人が道楽を奏しながらこれに続き、表参道を1キロ余り西のお旅所まで神様をお遷し申し上げます。 約50分を要する神幸。

「猿沢池」は、奈良公園にある周囲360 メートルの池。興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢 池月」 は南都八景のひとつとなっている。池の周りに、電灯屋台が


平安時代以降から現在の「奈良」であるが、以前は「平城」で「なら」と云っていた。

「お渡り式」
平安時代から江戸時代に至る風俗を満載した伝統行列がお旅所まで練り歩く。
途中、興福寺南大門前石段に並ぶ衆徒(僧兵)の前で交名の儀が、次に一之鳥居を入った影向の松の下で松の下の儀と呼ばれる儀礼的所作が行われ、三条通りに。

「御旅所祭」
おん祭の中心的祭典で、お染御供と呼ばれる美しく飾り立てた神饌等が捧げられ、宮司や日使の奉幣、祝詞奏上の後、行列に加わった各座等の代表の拝礼があり、引き続き社伝神楽、東遊、田楽、細男、猿楽、和舞、そして11曲の舞楽が23時頃まで続きます。
参道では競馬、流鏑馬が行われる。

西国9番札興福寺南円堂階段付近、


遷幸の儀と同様にお旅所から若宮神社まで神様をお遷し申し上げます。

「奉納相撲」
奈良県相撲連盟、奈良市体育協会、奈良市相撲協会の協力のもと執行されます。

「後宴能」
お旅所の芝舞台で能2番、狂言1番が仮御殿を背に行われ、28日、「御煤払式」。31日、「年越大祓式」識らずしらずのうちに身についた罪や一年間の穢れを祓い去り、新年を清らかな心身で迎える。

春日大社手前の「飛火野」で伝統儀式


三条通りは、ホテル、銀行、商店などが建ち並び、これに直交する狭い東向通りと餅飯殿通りの小さな店が並んでいる。
街並みにも多数の貴重な文化財が残っている。
猿沢池の南の元興寺界隈が奈良町、ここには江戸・明治の古い街並が残り、屋根裏物置、切妻造り、桟瓦ぶき等の家屋が集中している。

「大宿所」とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。


東向商店街を抜けると「近鉄奈良駅」
古い街並も、都市化に押され年々減少で、街造りと開発の調和に大きな課題があると云う。

数十名の神職が榊を手に人垣で囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む、神様をお遷し申し上げると云う神幸。


次回は、奈良公園から春日大社へ。

伏見の戦い 伏見の酒

2014-02-14 | 気まま旅
「十石舟」「三十石船」は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大阪と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川の間を航行する輸送船としてはじまり、明治時代末期まで存続した重要交通手段であった。

1998年、京都市および月桂冠など55法人の出資によるTMO「株式会社伏見夢工房」が、かつての港町伏見を偲ぶ屋形船仕様の遊覧船として運航を開始したことで、再び濠川に航路が開設された。
同法人が2012年をもって解散したことから、運営が伏見観光協会に移管されている。

伏見十石舟は、伏見観光協会 が運航する遊覧船。「十石舟」「三十石船」は、江戸時代に伏見からの酒や米 などの搬出および旅客を大阪と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川...伏見。
    

「伏見大手筋商店街」は、大手筋通りのうち、京阪電鉄伏見桃山駅から風呂屋町通(納屋町通)の間がアーケードになっている。
このアーケードには、日本で初めて太陽光発電パネルが設置され、アーケード内の照明に利用。

東側より南北の通りを境界として、一番街から四番街の順にブロック分けされている。
一番街、京阪伏見桃山駅 - 新町通。 二番街、新町通 - 瀬戸物町。 三番街、瀬戸物町 - 南部町。 四番街、南部町 - 風呂屋町通

2009年「新・がんばる商店街77選」に選ばれた。

「京阪本線」は、起点駅は京都の三条駅であり、京都から大阪に向かう列車が「下り」、その逆が「上り」となる。
路線名の通り大阪と京都を結ぶ路線であるが、淀川の南側を通る。大阪市内の淀屋橋駅 - 天満橋駅間と京都市内の七条駅 - 三条駅間は地下線、東福寺駅 - 三条駅間は軌道法に基づく軌道となっている。
路線距離 淀屋橋駅 - 三条駅間 49.3km、 駅数:40駅。「伏見桃山駅」。
「近鉄京都線」は、JRと連絡の京都ー奈良「桃山御陵前駅」。JR奈良線「桃山駅」の三本が乗り入れている。

賑わいを見せる駅前通り
  

「鳥羽・伏見での戦闘」
下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると
伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。
このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。
鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれ、伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍
(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。

「鳥羽・伏見の戦い」1868年、戊辰戦争の緒戦となった戦である。戦いは京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見で行われた。
    

開戦に積極的でなかったといわれる徳川慶喜は、大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底交戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。
総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。
会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが将軍の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。
だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれるかたちとなり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。

会津藩兵を先鋒とする旧幕府軍が伏見に 集結し、幕府陸軍奉行の竹中重固を指揮官。政権の主導 権 争奪戦。
    

1868年戊辰戦争の緒戦となる。

鳥羽・伏見 - 阿波沖 - 甲州勝沼 - 宇都宮城 - 今市 - 市川・船橋 - 五井 - 上野 - 北越戦争 - 八丁沖 - 寺泊沖 - 会津戦争 - 白河口 -
磐城 - 二本松 - 母成峠 - 旗巻峠 - 秋田戦争 - 弘道館 - 松山 - 宮古湾 - 野辺地 - 箱館戦争 - 二股口 - 箱館湾。

1868年、江戸幕府 最後の将軍となった徳川慶喜が、会津藩主・松平容保に江戸城への登城を禁止。
    

平成5年度で京都は、醸造元77社・銘柄数162種  (うち伏見区で35社を占めている。)
      兵庫は、   107社   233種。

黄桜酒造
  

「伏見の水」は、一升の酒に、八升の水がいるといわれる酒づくり。
中でも良質の豊富な水に恵まれることが、酒造地の条件という。
伏見は、かつて“伏水”とも書かれていたほどに、質の高い伏流水が豊富な地。
桃山丘陵をくぐった清冽な水が、水脈となって地下に深く息づき、山麓近くで湧き水となってあらわれます。
日本を代表する酒どころとなったのも、この天然の良水に恵まれていたことが大きな要因という。

御香宮神社の湧水伝説
千数百年前、境内に香り高い清泉が湧きだし、朝廷から「御香宮」の名を賜ったのがそもそもの起こり。
現代、この名水は「日本名水百選」のひとつにも選ばれ、訪れる人たちに親しまれている。

月桂冠
    

「酒の話」
水・酒によい水は、鉄分・アンモニア・重金属が無く、カリウム・リン酸・カルシュウムが適度に含むと、、、一般に言われている。
  鉄は、酒のデフエりフエリクリシン反応して赤褐色、香味を害します。鉄分ー0.02ppm以下、有機物ー5ppm以下、
                                  マンガンー0.02ppm以下の基準があります。
カリウム、カリシュウムは、麹菌・酵母を助けます。仕込み水で良い水は、リン酸・カリウムの多い仕込み水は、醗酵が強く、切れが良いと云います。酒造りでは、出来るだけ鉄分と接触するもの、容器・ポンプ・配水管等は注意します。
  
次回は、奈良県へ入ります。

坂本龍馬とお龍

2014-02-12 | 気まま旅
「弁財天・長建寺」は、伏見区 東柳町にある、真言宗醍醐派の寺院、創建1699年、本尊 弁財天、別名「島の弁天さん」

豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は、1619年廃城後、伏見の町は衰退、
13代目伏見奉行 建部政宇は、1699年、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築。
建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こりと云う。
(かつての中書島遊郭の一角にあった。)

弁財天長建寺                門楼                          本殿
    

伽藍・ 朱色の竜宮門 中国風、朱色の土塀、 鐘楼 三十石船及び町に時を知らせたという。 弁天型灯籠 元禄12年(1699年)に奉納
奉納者は、伏見奉行建部内匠頭政宇とある。
寺宝・ 八臂弁財天 本尊、秘仏(鎌倉時代後期作)毎年元旦から15日間のみ開帳。8本の腕を持った音楽・財富・智恵・延命を司る弁天様。
    裸形弁財天 脇仏、 賓頭盧尊者なで仏は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人と云われている。等

「中書島」
元禄12年(1699)に第20代の伏見奉行に就任した「建部内匠頭」は、 伏見の人口が、秀吉時代の6万人から、諸大名の江戸移転や町民の大坂への集団移住、それに慶長14年の大火災などで3万人位に減っていた。
その伏見を支えていたのは、水上運輸と宿場であった。
建部氏は、伏見復興の為、まず観光事業を活発にしようと、荒廃して葭が雑生していた中書島に阿波橋の西の方にあった、柳町(通称泥町)の傾城郭を名前と共に移転させ、東柳・西柳とし、又民家も建築させ、今福橋と蓬莱橋を架け、島への交通の便を良くして旅客の誘致を図った。
この中書島遊郭は創立当時(元禄時代)忽ち三十石船の船客らの人気を呼び全国的に有名になり、京都島原に次ぐものとなった。
全盛時には、400人程の遊女がいたと云う。

               境内                       滾々と湧水
    

拝殿                弁天堂の横に湧き出ているのが「閼伽水」、伏見の水特有のまろやかな味。
    

「坂本龍馬」1835-67、土佐藩士、北辰一刀流剣術、千葉定吉に学び、武市瑞山結成した土佐勤王党に加盟し、その後勝海舟に入門
神戸海軍操練所で修行する。慶応元年に亀山社中を組織、翌年に薩長同盟を締結させた。
慶応3年海援隊長となり、商業を志して倒幕運動に尽くした。「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。

「日本を洗濯、、」といって徳川幕府打倒に奔走した龍馬は、故郷を脱藩してからわずか5年で無血革命と云う偉業達成している。
大政奉還は土佐の「後藤象二郎」の名であるが龍馬は、「事は十中の八か九までを自分でやりとげ残り一か二を他人に譲って手柄に
させるのが良いのだ」、又、窮屈な役人には成りたくないと云って、龍馬の字は名簿から外している。
海援隊士陸奥宗光は「龍馬は西郷よりずっと大きな人物、、、」後々語っている。

龍馬通り                   新撰組も見回りを
    

王政復古を目前にして京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ、中岡慎太郎と共に凶刃をうけて絶命した。

「寺田屋騒動・事件」
文久2、1862年年4月(旧暦)、寺田屋にいた薩摩の過激派の尊攘派浪士たちを島津久光の命で薩摩藩士が粛清した事件で、寺田屋騒動とも呼ばれ、 慶応2、1866年1月(旧暦)、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃した事件。二つとも「寺田屋事件」と呼ばれている。

寺田屋は、現在 でも素泊まりで宿泊可能。
    

「お龍」
龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。
苦しい生活を助けるため 1846年8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。
龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。
1865年9月の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えている。

龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成。
そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができた。
龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いている。

龍馬は薩長同盟締結後、愛妻お龍と共に過ごし、志を共にする同志 達と夢を語り明かし、京都で凶刃に倒れ、この地に戻ることは出来い。
    

龍馬も利用した10石・30石舟。
豊臣秀吉が伏見城の城下町として整備した伏見。
発展させたこの地は、 陸上交通が発達する明治時代まで、水上交通の要所として繁栄。
何千もの舟が行き交い、商人が集まる一大港町だった。 伏見城の外堀だった濠川(ほりかわ)には今も十石舟が運航しており、
酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、当時に想いを馳せて旅情を楽しむことができる。伏見の名水から造られる酒・豆腐など、食の楽しみも。

伏見城の外堀だった濠川には 今も十石舟が運航。月桂冠 酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、
     

次回は、伏見戦争を。 

御香宮と伏見の街

2014-02-10 | 気まま旅

「御香宮神社」伏見地区の産土神。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。
神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集め、社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設している。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。
現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定。

徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。

表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。

酒どころとして有名な京都・伏見。 名水が湧き出る地であることから、かつて「伏水」と呼ばれ、その名水を使ったお酒の製造が今日でも盛んに行われている。日本の名水百選に選ばれた「御香水」がある神社に参拝


御香宮神社楼門(伏見城の大手門)                        拝殿
  

862年に社殿を修造記録があり、伝承によると、
境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。
実際には菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す「とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力であるが神社側は説の一つにに過ぎないとして否定していると云う。

湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。


12月中卯日 醸造初神事が行われる。伏見は、酒処で大手酒造・中小酒造が集中している。

月桂冠・黄桜等の献上樽酒                           社殿との廊下
    

重要文化財 は、本殿 - 徳川家康の命令で建立、極彩色の彫刻が復元された。 表門(旧伏見城大手門) - 元和8年(1622年)徳川頼房の寄進によって建立。中国の二十四孝の蟇股がある。 金熨斗付太刀 - 備前長光が作ったとされる。

その他 拝殿 - 京都府指定有形文化財、1625年、徳川頼宣の寄進によって建立による割拝殿の構造となっている建物。
中国の登龍門の故事に基づいた極彩色彫刻が唐破風元にある。 算額 -1863年 西岡天極斎奉納、絵馬堂に掲額。
算額 - 1683年 山本宗信奉納(復元)、 絵馬堂に掲額など。

龍馬も来たであろう境内
    

明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となった。

明治はここから                    戊辰戦争の傷跡も
    

「伏見義民事蹟」の碑
1779年に奉行となった「小堀政方」は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあったと云う。
「文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛」の7人は、
奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。
このため、1785年、政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相ついで病死した。
この碑は明治20年に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。
毎年5月18日には伏見儀民顕彰会によって慰霊祭が執行される。

末社                         伏見義民事蹟
    

「京橋」付近
豊臣秀吉の伏見城築城に際し開港され、江戸時代には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来し港町として賑わいました。
これらの船は幕府公認の通航証を持った過書船と言い、1611年、角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を開削し、更に水路を南浜迄延ばし、港は水上交通の要となり大小の船が集中するようになり発展。
京橋付近が伏見港の中心地で参勤交代の西国大名の本陣や脇本陣が置かれ、宿場町としても多くの旅人で賑わった。

街の中
   



次回は、龍馬通りへ。