「明治天皇陵」
122代・明治天皇ー1867 - 1912年( 慶応2年 - 明治45年)、名は陸仁、即位礼ー慶応4年 1868年、大嘗祭ー1871年、
摂政ー二条斉敬、将軍、徳川慶喜、総裁、有栖川宮熾仁親王・輔相、岩倉具視・三条実美・左大臣、有栖川宮熾仁親王
右大臣、三条実美・太政大臣、三条実美
先代、孝明天皇の第二皇子・次代、大正天皇・母は、中山忠能の娘 慶子
即位後、薩長両藩へ倒幕の密勅を降下し、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復古の大号令をかけるという1867年から68年にかけての
政治的大変動は、明治天皇が年少であったことが容易にした。
江戸から東京と改芽られ、「明治」と改元、版籍奉還・廃藩置県によって国家が統一されていく。
1868年「五箇条の誓文」は、新政府の基本方針でもあった。
明治天皇の在位期間は、日本の資本主義の上昇期で国際的地位の上昇を象徴する時でもあった。内外とも「英主」と仰がれた。
桃山・明治天皇・昭憲皇太后陵は、桃山城と隣接。
五箇条の御誓文
一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ・一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ・一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マラサシメン事ヲ要ス・一、 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ・一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
「憲法発布勅語」「大日本帝国憲法」は、この五箇条の御誓文に基づくとされ、憲法類の筆頭規範と考えられていました。
雑木林に囲まれた陵内、参道
江戸開城から半年を経た明治元年、、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。
一旦京都に還幸後、1869年に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
1869年には、版籍奉還の上表を勅許し、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、
次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっている。
明治4年、1871年には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立。
岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。
天皇の埋葬は火葬が主流となるが、幕末、孝明天皇の時に土葬となり、以後、皇室では、これに倣って、明治天皇もその皇后も土葬である。
日本が初めて直面した近代戦争である「日清戦争と日露戦争」では、
天皇は、大本営で直接戦争指導に当たった。
外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用。
1911年には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となる。
伏見桃山明治天皇陵
次回は、伏見町へ。
122代・明治天皇ー1867 - 1912年( 慶応2年 - 明治45年)、名は陸仁、即位礼ー慶応4年 1868年、大嘗祭ー1871年、
摂政ー二条斉敬、将軍、徳川慶喜、総裁、有栖川宮熾仁親王・輔相、岩倉具視・三条実美・左大臣、有栖川宮熾仁親王
右大臣、三条実美・太政大臣、三条実美
先代、孝明天皇の第二皇子・次代、大正天皇・母は、中山忠能の娘 慶子
即位後、薩長両藩へ倒幕の密勅を降下し、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復古の大号令をかけるという1867年から68年にかけての
政治的大変動は、明治天皇が年少であったことが容易にした。
江戸から東京と改芽られ、「明治」と改元、版籍奉還・廃藩置県によって国家が統一されていく。
1868年「五箇条の誓文」は、新政府の基本方針でもあった。
明治天皇の在位期間は、日本の資本主義の上昇期で国際的地位の上昇を象徴する時でもあった。内外とも「英主」と仰がれた。
桃山・明治天皇・昭憲皇太后陵は、桃山城と隣接。
五箇条の御誓文
一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ・一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ・一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マラサシメン事ヲ要ス・一、 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ・一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
「憲法発布勅語」「大日本帝国憲法」は、この五箇条の御誓文に基づくとされ、憲法類の筆頭規範と考えられていました。
雑木林に囲まれた陵内、参道
江戸開城から半年を経た明治元年、、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。
一旦京都に還幸後、1869年に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
1869年には、版籍奉還の上表を勅許し、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、
次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっている。
明治4年、1871年には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立。
岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。
天皇の埋葬は火葬が主流となるが、幕末、孝明天皇の時に土葬となり、以後、皇室では、これに倣って、明治天皇もその皇后も土葬である。
日本が初めて直面した近代戦争である「日清戦争と日露戦争」では、
天皇は、大本営で直接戦争指導に当たった。
外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用。
1911年には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となる。
伏見桃山明治天皇陵
次回は、伏見町へ。