syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

明治天皇・皇后陵

2014-02-10 | 気まま旅
「明治天皇陵」
122代・明治天皇ー1867 - 1912年( 慶応2年 - 明治45年)、名は陸仁、即位礼ー慶応4年 1868年、大嘗祭ー1871年、 
摂政ー二条斉敬、将軍、徳川慶喜、総裁、有栖川宮熾仁親王・輔相、岩倉具視・三条実美・左大臣、有栖川宮熾仁親王
右大臣、三条実美・太政大臣、三条実美
先代、孝明天皇の第二皇子・次代、大正天皇・母は、中山忠能の娘 慶子

即位後、薩長両藩へ倒幕の密勅を降下し、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復古の大号令をかけるという1867年から68年にかけての
政治的大変動は、明治天皇が年少であったことが容易にした。
江戸から東京と改芽られ、「明治」と改元、版籍奉還・廃藩置県によって国家が統一されていく。
1868年「五箇条の誓文」は、新政府の基本方針でもあった。
明治天皇の在位期間は、日本の資本主義の上昇期で国際的地位の上昇を象徴する時でもあった。内外とも「英主」と仰がれた。

桃山・明治天皇・昭憲皇太后陵は、桃山城と隣接。


五箇条の御誓文

一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ・一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ・一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マラサシメン事ヲ要ス・一、 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ・一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

「憲法発布勅語」「大日本帝国憲法」は、この五箇条の御誓文に基づくとされ、憲法類の筆頭規範と考えられていました。

雑木林に囲まれた陵内、参道


江戸開城から半年を経た明治元年、、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。
一旦京都に還幸後、1869年に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
1869年には、版籍奉還の上表を勅許し、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、
次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっている。
明治4年、1871年には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立。

岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。

天皇の埋葬は火葬が主流となるが、幕末、孝明天皇の時に土葬となり、以後、皇室では、これに倣って、明治天皇もその皇后も土葬である。


日本が初めて直面した近代戦争である「日清戦争と日露戦争」では、
天皇は、大本営で直接戦争指導に当たった。
外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用。

1911年には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となる。

                             伏見桃山明治天皇陵


次回は、伏見町へ。

桓武天皇 栢原陵

2014-02-09 | 気まま旅
「桓武天皇・柏原陵」
第50代ー桓武天皇、(父光仁天皇・母 贈太皇太后天高知日之子)、陵 名 柏原陵、陵形 円丘、所在地 :京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎 (伏見城と隣接)。

737-806年、千年の都、「平安亰」を造営した天皇。
50代天皇44歳で即位。長岡亰に遷都したが藤原種継暗殺事件が起こり平安京に遷都。律令制を再編し強化した。
蝦夷征討を積極的に進め、門閥にとらわれ事無く有能な役人を登用し、渡來系氏族を重んじた。
天皇即位し、弟の「早良親王」を跡継ぎとしたが、藤原種継暗殺事件に関係ありとして、親王を乙訓寺に幽閉した。
親王は、飲食を断って憤死した。
天皇は、我が子の「安殿親王」を皇太子に立てたが、病気になり、后妃らも相次いで死亡したため、これは、早良親王の怨霊によるとされた。

桓武天皇が造営した「平安京」は、京都で、明治維新まで皇居があった。
桓武天皇・柏原陵


桓武天皇と征夷大将軍坂上田村麻呂
797年、桓武天皇は、第3回蝦夷征討で、征夷将軍坂上田村麻呂を派遣、801年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、蝦夷を討伏して、閉伊地方まで進出した。802年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城(岩手県)を築いて多賀城から鎮守府を移した。
803年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、志波城(岩手県)を築き、804年、桓武天皇は、征夷将軍の坂上田村麻呂を征夷大将軍とした。
811年、征夷大将軍文室綿麻呂は、蝦夷を平定し、太平洋側の征討を完了。

「秋田城」前回取り上げています。
760年、 阿支太城(秋田城)が初めて史料に登場する。780年、 出羽国鎮狄将軍安倍家麻呂、秋田城の棄守につき指示を求める。これについて国司一人を専当とし、秋田城、由理柵を保守することを命ずる。794年 平安京(京都)に遷都 。804年、 出羽国の請により秋田城制を停めて郡制とする。830年、 秋田地方大地震、城郭、四天王寺等の建物と丈六の仏像が倒壊。878年、 夷俘が反乱し秋田城を襲う、多くの建物等が焼ける。939年、 出羽国で俘囚が反乱、、、、、。

桃山は、城跡の石が今でもある
1592年、比高25mの指月の台地に、豊臣 秀吉が隠居城として築いたが、1596の大地震によって倒壊し、指月の地から木幡山に城


次回は、隣の明治天皇陵へ。

関ケ原から伏見桃山城へ

2014-02-07 | 気まま旅
奈良から和歌山方面へ旅をしました。

東海道新幹線は、関ケ原トンネル付近を通過、窓から1377mの日本花の百名山「伊吹山」が見え白い雪を被っていた。
岐阜揖斐川から滋賀県米原に、伊吹山と云えば、古事記に日本武尊伝説・平安時代に日本七高山(関西霊山)の一つ・織田信長の薬草菜園など
で知られる。
窓からそれほど大きくないが「関ケ原古戦場」の看板がみえた。

「関ヶ原の戦い」
小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃する。
大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。
ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。

宣教師のフェルナン・ゲレイロはその報告の中で奉行(石田三成)側の軍勢中には裏切り行為によってざわめきが起きて陣列の混乱が続いたと述べている。
大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。
ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定したと云う。

新幹線の窓から見た関ケ原


新幹線は、京都で奈良線に乗り換え、以前京都編で「東福寺」-「稲荷」までを旅をし、今日は、藤森・「桃山」駅からスタートする。
桃山は、京都市伏見区、市の南部、伏見区の中央の地域になる。
桃山丘陵の南、1593年豊臣秀吉が、伏見城を築いたが、豊臣氏滅亡後に取り壊され、城跡一帯に桃の木を植えたことから「桃山」となった。
明治に入り、明治天皇などの「桃山御陵」造られ、1960年観光用の模擬伏見桃山城が建設された。

模擬天守閣の「伏見城」へ、(1964年10万平方)京都駅から奈良線「伏見駅」下車
    

「伏見城」は、天正の末年、秀吉が桃山の南丘の地に別荘風の邸宅的城郭として築いたのが起こりで、たまたま征韓の役にあたって和議が成立せんと、近く明国施設が来朝する事になり 1592年、新たに伏見山に大規模な城を起工。
25万人の工人を要し4年の年月を費して完成したと伝える。
築城資材などの運搬は宇治川の水運を利用、宇治川は巨椋池に注いでいたが、この時に堤(槇島堤)を築いて池と分断し、川の水量を
指月の浜に導いた。
また巨椋池の中に小倉堤を築いて大和街道を設け、鴨川の流れを勧進橋から西に切り替えて淀に注がせ伏見の地形を一変させた。
1596年 に城は竣工し「伏見城」と称した。
五重の天主は雲にそびえ金色の瓦は燦然と伏見山頂に輝きわたり明国使節の度肝を抜くに相応しい威容だったと思われ、間もなく起こった
「伏見地震」によって城の大切な部分が倒壊したので明使との謁見は城内の御花畠山荘で行われた。
翌年早々、震災の復旧工事が行われ 1598年に完成したが、その年の8月、秀吉は伏見城で没し伏見城に在したのは5年に過ぎなかった。

1591年9月に、秀吉は諸将に対して準備命令を出した。12月、秀吉は朝鮮の役に専念するため関白を辞し、豊臣秀次を関白とした。


秀吉の没後、秀頼は大坂城に移り伏見城は徳川家康の預かるところになったが
1600年、関ヶ原の前哨戦として西軍に攻められ、守将・鳥居元忠以下多くの徳川勢が戦死した。
この時の兵火で本丸以下、主要な建物は焼失したが、間もなく家康が修築し家康の子・秀康を置いて近畿に於ける徳川の本拠に。
1614年、豊臣滅亡後は軍事拠点としての伏見城の存在価値がなくなり、加えて豊臣氏の威光を偲ばせる城の存在は徳川にとって好ましくなく
1623年、家光の三代将軍宣下式、祝賀会を伏見城で行ったの最後として廃城、主だった建造物は京都の社寺などに寄贈され城中の一木一石に至るまで徹底的に取り払われ伏見城は完全に地上から消滅した。
廃城後の江戸時代には桃の名所となり、桃山御陵造営によって大半が御陵地となり地形にも大きな変化をみた。
今は往時を偲ぶべきものは見られないが、御陵の北、本丸跡を城山、古城山ととも呼び内堀の一部は紅雪堀や治部池、貯水池(北堀公園)として残っている。
伏見大手筋は城内大手門に面した道路であったと伝え、伏見には
福島太夫、毛利長戸、松平筑前、羽柴長吉、伯耆、景勝、弾正、毛利、正宗などという他に類例をみない珍しい町名や地名があり、いずれも往時の諸大名の屋敷跡にちなんで名付けられたと云う。

1592年、諸将に出陣を命じた。2月、朝鮮に最後の使者を送ったが、返報はなし、日本の先鋒隊は対馬まで渡り、3月12日に進撃。
    
指月城は、文禄3年(1594年)8月、豊臣秀吉入城。慶長元年(1596年)慶長の大地震て倒壊した。
木幡城は、慶長2年(1597年)5月、秀吉入城。3年(1598年)秀吉没。5年(1600年)関が原の戦いの前哨戦で炎上した。

1番隊 小西行長・宋義智ら(1万8700人)釜山浦に入港、13日に釜山鎮城を攻め落として、戦闘が始まった。 
    

廃城となった古城山には伏見の人たちによって、桃の木が植えられ元禄時代には桃の名所として名を知られた。
昭和38年、近畿日本鉄道が「遊園地キャッスルランド」を開園し大天守閣と小天守閣の連結式の伏見桃山城を旧二の丸北方の御花畠山荘跡に建造。
大天守閣は姫路城を参考に名古屋城と同じ大きさに小天守閣は彦根城を模して建てられたと伝える。
外観も位置も当時の伏見城とは全く異なるが下町から桃陵の丘に立つ城姿を見ると豊太閤の見果てぬ夢と往時が偲ばれると云う。

軍の編成は、次のようになっていた。2番隊 加藤清正・鍋島直茂ら2万2800人、、、、。総数は、158000人。
    

「豊臣秀吉」、農民から関白太政大臣、天下人(太閤)になった戦国武将。
織田信長の五軍団(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉)の1人。
1582年、「天王山の戦い」で明智光秀を破り、1590年、天下統一を成し遂げた。
戦後は織田信孝、柴田勝家との後継者争いとなり、1583年、柴田勝家を滅ぼし実質的な後継者となる。
1583年、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うが、勝てずに講和。
その後、四国、九州を平定し、小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一した。
1585年、関白。1586年、太政大臣に任ぜられるなど位人臣を窮め、関白を養子・秀次に譲った後、太閤と称した。
太閤検地・刀狩りなどを行うなど、荘園制を廃してその後の幕藩体制の基礎を。
1594年、伏見城築城。

1592年の文禄の役において、李氏朝鮮の国王が漢城(ソウル)の景福宮(王宮)を脱出したあと、日本軍の入城を前に、朝鮮の民衆によって略奪・放火されて焼失したと云う。
離宮の昌徳宮が使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。
    

次回は、伏見桃山陵へ。

亀戸天神と文人が好んだ葛餅

2014-02-05 | syu散歩
「亀戸駅」は、戦時中仕事で亡き父が亀戸に行き、アメリカ爆撃機に遭遇し、線路を挟んで左右に逃げ、父は、左に逃げて命拾い、右に逃げた人たちは一人として助からなっかと云う。

久し振りの、東の天満宮・亀戸天神である。

「菅原道真」845-903 官僚・文人・学者の家に生まれ、文章博士、讃岐守に、宇多天皇に認められ、醍醐天皇時右大臣。
左大臣藤原時平と対立し、左遷され、自邸の愛した梅、九州へ赴任時。
                  
           「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」

太宰府天満宮に、道真が愛した梅「飛び梅」がある。天満宮は、道真の祟りをおさめるため、祀られている。

「亀戸天神社」は、菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。
特に1,2月の受験シーズンには、道真の加護を求めて絵馬を奉納する受験生で境内が溢れる。「亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮」

                      大鳥居


1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。
1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。

明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、
四代将軍徳川家綱は、その鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。
1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたと云う。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、
1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。

境内中央は池、それに架かる太鼓橋               藤棚6月が楽しみ
    

「うそ替え神事」は、例年1月24日 - 25日。縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与される。
「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによる。
木彫りの鷽は、高さ5 - 22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれ彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒である。

「梅まつり」は、例年2月第2日曜日から3月第2日曜日まで。

「藤まつり」は、4月25日から5月5日まで。
敷地内の藤棚が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染まる。
太鼓橋の上から見渡すことで、一面の藤棚を上から見下ろすことができることも特徴。
江戸時代から亀戸の藤と呼ばれた藤の名所。同時に学業講祭も行われ、学業祈願の祈願者も多く訪れると云う。

「菊まつり」例年10月下旬から11月下旬まで。

境内から見える東京スカイツリー               落ち着く境内
    

末社、
「花園社」ー道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀る。安産、子宝、立身出世の守護神として信仰されている。

「弁天社」-亀戸天神の心字池を上野不忍池に見立て、この社を「弁天堂」と呼んだことから、七福神の1つである弁才天として信仰されるようになった。

「紅梅殿」-1662年に太宰府天満宮の御神木である飛梅の実生を勧請したもの。現在の社は、1988年に再建。「神牛殿」。

「御嶽神社」-道真の教学上の師である「延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正」を祀る。
「卯の神」として知られ、正月初卯、二の卯、三の卯には、卯槌や卯の神札が授与されると云う。

「神牛殿」-菅原道真は845年6月25日の乙丑年に生まれ、903年に亡くなったが、葬送中、遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所と定めたと云う。
                       拝殿


「横十間川」

1659年 - 徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された。
江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来すると云う。
広重の「名所江戸百景」「柳しま」に、横十間川と北十間川、筑波山が描かれている。

横十間川は、東京都墨田区・江東区を流れる運河で、天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれ、東京市(東京15区時代)と南葛飾郡との市郡境、東京市内(東京35区時代)の本所区・深川区と城東区との区境にもなっていたと云う。
江戸の旦那衆は、初卯詣りは、陸地と舟を使っていたと云う。

横十間川栗原橋                    くず餅の老舗船橋屋
    

「龍眼寺・萩寺」
開基、良博大和尚。寺創建は、1395年、大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、 村に流行していた疾病を
平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号したとある。
寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名、 江戸初期には、住職が百種類もの萩を
諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で
賑わう様子が描かれている。

                     萩寺の竜眼寺


七福神めぐりは、天地地変、火災、盗難などの七つの災害を削除し、7つの福徳を授けられると言われ信仰を集めてきた。

龍眼寺には、布袋尊が安置。亀戸火地福神は、寿老人(延命長寿)常光寺 亀戸4-48-3・弁財天(芸道富裕)東覚寺 亀戸4-24-1・
恵比寿神(愛敬富財) 香取神社 亀戸3-57-2・大黒神(有富蓄財) 香取神社 亀戸3-57-2・毘沙門天(勇気授福)普門院 亀戸3-43-3
福禄寿(人望福徳) 天祖神社 亀戸3-38-35・布袋尊(清簾度量)龍眼寺 亀戸3-34-2。

    

榎本其角  「つき見とも見えずや露あり庭の萩」。 大納言家長郷  「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は」
の句

正面に、松尾芭蕉  「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」句碑。

    

夢殿を模し、八聖道にちなんだ八角のお堂。 八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のことと云う。

不動堂ー、護摩木にお書き、祈祷。布袋堂ー亀戸七福神の布袋尊を安置している。

  

松尾芭蕉句碑ー「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」 奥の細道の旅で小松に滞在中の7月26日に歓生亭で巻かれた「俳五十句」
         明治5年葛飾の素丸が建立。 都内の芭蕉句碑37基の中で最も古い句碑

螺舎一堂句碑ー「月や秋 あきや夜にして 十五日」と句が彫られている 。

百寿句碑ー「春盛る梅のうしろに□の花」と句が彫られている (文字不鮮明のため判読不可能)

冬嶺市町句碑ー冬嶺  「ひと色を千々の錦や萩見寺」、 市町  「露の世にこぼさぬ露や萩の上」と句が彫られている 。

その他、庚申塔が 老舗の和菓子「船橋屋」
江戸文化2年 1805年の創業の「くず餅」一筋の、お店に。

200年の老舗で、文人も好んだ「船橋屋」
    

下町は2回で終了。次回から奈良方面に。