久し振りに都内散歩。懐かしい下町方面へ。
日暮里「朝倉彫塑館」は、朝倉文夫氏のアトリエと住居だった建物 改装中だったがようやくオープン。
朝倉氏は、東京美術学校を卒業した1907(明治40)年、24歳の時に、ここ谷中の地にアトリエと住居を構え、後、増改築を繰り返し、
1928(昭和3)年から7年の歳月をかけて手を入れて、現在の朝倉彫塑館に、建物は朝倉氏が自ら設計し、細部に至るまで様々な工夫を凝らしている。
1967年に故人の遺志により自宅を「朝倉彫塑館」として公開、区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となる。入館有料。
谷中に両親の墓があるので、墓参りは朝倉さんの前を
谷中は坂の街、日暮里駅北口を出ると、「御殿坂」「七面坂」「蛍坂」「さんさき坂」「真島坂」「あかぢ坂」「三浦坂」「善光寺坂」
「三段坂」「清水坂」「暗闇坂」「団子坂」、、、、、。
その団子坂は、白山から谷中天王寺に向かう長い坂で、以前都電の停留所があった。明治までは急坂で、人力車は空車にしたところ。
団子坂と云うと菊人形で、坂下を藍染川の清流が流れ、坂の麓に桜並木、花見で人気な「団子坂」であった。
近くの千駄木町には森鴎外が住み(観潮楼)と名付け他と云うから、東京湾が望見出来たと思われる。
坂の途中には、団子の茶店が並びその名が付いている。
団子坂の菊人形の元祖は、染井桜の植木屋が始めたと云う。
谷中名物「ヒマラヤ杉」が伐採の危機に、2013年 谷中のランドマークとして知られるヒマラヤ杉(台東区谷中1)が伐採される可能性が出 てきた。「ヒマラヤ杉と寺町谷中の暮らしと文化、町並み風情を守る会」が 発足し、 植木鉢に植えられていた杉が、太木に。
子供の頃、遊んだ所
「アラン・ウエスト」氏は、アメリカ合衆国ワシントン出身の日本画家。
カーネギーメロン大学芸術学部卒。東京藝術大学日本画科(加山又造研究室)修士課程卒。
8歳で油絵を描き始める。カーネギーメロン大学芸術学部在学中に、ボランティア団体に身を置き、たまたま日本に派遣されたことをきっかけに日本画の技法と出会い、画家として活動する。スミソニアン美術館をはじめ、世界各地で個展を開く。
1999年、谷中に「繪処アランウエスト」(台東区谷中1)と言う画廊兼アトリエを構え、日本画・屏風絵・掛軸などを手がけ全国で活躍されている。
繪処アランウエストさんの画廊は、ヒマラヤ杉の隣
「谷中桜木町」門前町は、言問通り沿いに、かつては鶯谷駅との乗り換えが便利な「京成の寛永寺坂駅」があった。
上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多く、多数の寺院の存在とともに、江戸時代の町割り、道割りの上に明治・大正・昭和の建物が混在していて、歴史のある景観を作りだしている。
仏教的敬虔さや、職人的、芸術的、文学的な人々の関わりによって、伝統的に高い文化的風土を保持している。
地名の通り桜も多く、桜並木が作られている。桜木、谷中、上野公園の桜は樹齢を重ねたものが多いせいか一本一本が独特の形をしている。
町内にある寛永寺は、1625年、徳川3代将軍徳川家光の治世に建てられ、寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院。
寛永寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟があり、大慈院は、徳川慶喜が謹慎していた場所である。
かつては川端康成も居をかまえていたと云う。日本医科大学看護専門学校がかつて存在した。
商店も昔ながら構えで残っている。
明治時代の建物を利用した資料館 · 法被を着て記念撮影ができる · 谷中で老舗の酒店 · 江戸時代以来の老舗酒店の旧吉田酒店。
子供の頃、豆腐屋さんの水は旨いのでよく飲まして貰った。その一軒老舗の「藤屋」がある。
寛永寺近い言問い通り沿い、とうふ一丁とお持ち帰り用を。
思い出の豆腐屋さん
「亀戸」は、亀井戸と書いたことに由来する。
元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。
後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。
現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった
四方向川に囲まれている地形で、旧中川、 横十間川、 竪川、 北十間川等が。
「香取神社」
「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総 本社。
多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。
日暮里から亀戸に
「亀戸普門院」は、真言宗智山派の寺院。山号ー福聚山善應寺。1552年、橋場に創建で、1616年 移転した。
移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ち、また、伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財がある。、亀戸七福神の毘沙門天としても親しまれている。
普門院
「伊藤左千夫の墓」
上総国、現在の千葉県山武市の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
1898年に新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。「歌よみに与ふる書」に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を発表。
夏目漱石に評価される。代表作に、「隣の嫁」「春の潮」など。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入り、常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌
「求道」に、短歌を寄稿していろ。1913年(大正2年)に脳溢血のため死去。
江戸川・矢切りの渡しは、私も思い出がある。
次回は、亀戸天神へ。
日暮里「朝倉彫塑館」は、朝倉文夫氏のアトリエと住居だった建物 改装中だったがようやくオープン。
朝倉氏は、東京美術学校を卒業した1907(明治40)年、24歳の時に、ここ谷中の地にアトリエと住居を構え、後、増改築を繰り返し、
1928(昭和3)年から7年の歳月をかけて手を入れて、現在の朝倉彫塑館に、建物は朝倉氏が自ら設計し、細部に至るまで様々な工夫を凝らしている。
1967年に故人の遺志により自宅を「朝倉彫塑館」として公開、区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となる。入館有料。
谷中に両親の墓があるので、墓参りは朝倉さんの前を
谷中は坂の街、日暮里駅北口を出ると、「御殿坂」「七面坂」「蛍坂」「さんさき坂」「真島坂」「あかぢ坂」「三浦坂」「善光寺坂」
「三段坂」「清水坂」「暗闇坂」「団子坂」、、、、、。
その団子坂は、白山から谷中天王寺に向かう長い坂で、以前都電の停留所があった。明治までは急坂で、人力車は空車にしたところ。
団子坂と云うと菊人形で、坂下を藍染川の清流が流れ、坂の麓に桜並木、花見で人気な「団子坂」であった。
近くの千駄木町には森鴎外が住み(観潮楼)と名付け他と云うから、東京湾が望見出来たと思われる。
坂の途中には、団子の茶店が並びその名が付いている。
団子坂の菊人形の元祖は、染井桜の植木屋が始めたと云う。
谷中名物「ヒマラヤ杉」が伐採の危機に、2013年 谷中のランドマークとして知られるヒマラヤ杉(台東区谷中1)が伐採される可能性が出 てきた。「ヒマラヤ杉と寺町谷中の暮らしと文化、町並み風情を守る会」が 発足し、 植木鉢に植えられていた杉が、太木に。
子供の頃、遊んだ所
「アラン・ウエスト」氏は、アメリカ合衆国ワシントン出身の日本画家。
カーネギーメロン大学芸術学部卒。東京藝術大学日本画科(加山又造研究室)修士課程卒。
8歳で油絵を描き始める。カーネギーメロン大学芸術学部在学中に、ボランティア団体に身を置き、たまたま日本に派遣されたことをきっかけに日本画の技法と出会い、画家として活動する。スミソニアン美術館をはじめ、世界各地で個展を開く。
1999年、谷中に「繪処アランウエスト」(台東区谷中1)と言う画廊兼アトリエを構え、日本画・屏風絵・掛軸などを手がけ全国で活躍されている。
繪処アランウエストさんの画廊は、ヒマラヤ杉の隣
「谷中桜木町」門前町は、言問通り沿いに、かつては鶯谷駅との乗り換えが便利な「京成の寛永寺坂駅」があった。
上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多く、多数の寺院の存在とともに、江戸時代の町割り、道割りの上に明治・大正・昭和の建物が混在していて、歴史のある景観を作りだしている。
仏教的敬虔さや、職人的、芸術的、文学的な人々の関わりによって、伝統的に高い文化的風土を保持している。
地名の通り桜も多く、桜並木が作られている。桜木、谷中、上野公園の桜は樹齢を重ねたものが多いせいか一本一本が独特の形をしている。
町内にある寛永寺は、1625年、徳川3代将軍徳川家光の治世に建てられ、寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院。
寛永寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟があり、大慈院は、徳川慶喜が謹慎していた場所である。
かつては川端康成も居をかまえていたと云う。日本医科大学看護専門学校がかつて存在した。
商店も昔ながら構えで残っている。
明治時代の建物を利用した資料館 · 法被を着て記念撮影ができる · 谷中で老舗の酒店 · 江戸時代以来の老舗酒店の旧吉田酒店。
子供の頃、豆腐屋さんの水は旨いのでよく飲まして貰った。その一軒老舗の「藤屋」がある。
寛永寺近い言問い通り沿い、とうふ一丁とお持ち帰り用を。
思い出の豆腐屋さん
「亀戸」は、亀井戸と書いたことに由来する。
元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。
後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。
現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった
四方向川に囲まれている地形で、旧中川、 横十間川、 竪川、 北十間川等が。
「香取神社」
「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総 本社。
多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。
日暮里から亀戸に
「亀戸普門院」は、真言宗智山派の寺院。山号ー福聚山善應寺。1552年、橋場に創建で、1616年 移転した。
移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ち、また、伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財がある。、亀戸七福神の毘沙門天としても親しまれている。
普門院
「伊藤左千夫の墓」
上総国、現在の千葉県山武市の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
1898年に新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。「歌よみに与ふる書」に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を発表。
夏目漱石に評価される。代表作に、「隣の嫁」「春の潮」など。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入り、常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌
「求道」に、短歌を寄稿していろ。1913年(大正2年)に脳溢血のため死去。
江戸川・矢切りの渡しは、私も思い出がある。
次回は、亀戸天神へ。