(その2はこちら)
■墨堤植桜之碑
明治20年(1877)に建てられた石碑。篆額は榎本武揚。当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられたが、水害等のために明治29年(1896)に現在の位置に移動した。墨堤に初めて桜を植えた来歴、大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し顕彰したいとの願いが刻まれている。
■長命寺
元和元年(1615)頃の創建と伝えられる天台宗の寺院。古くは常泉寺と号していたが、寛永年間(1624~1644)に3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこし、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたという。江戸時代は雪見の名所として知られ、多くの人々が訪れた。七福神の弁財天を祀る。
復元された長命水の井戸。
雪見の句碑。安政5年(1858)に建立。芭蕉の句「いざさらば 雪見に ころぶ所まで」が刻まれる。
狂歌碑。左上に「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九の狂歌が刻まれる。
木の実ナナの詩碑。地元向島の出身の縁で設置されたのだろう。
■弘福寺
鉄牛禅師を開山に迎えて開かれた黄檗宗の寺院で、大雄宝殿は京都万福寺を模して建てられた。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにあった。咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」が知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいる。七福神の布袋尊を祀る。
大雄宝殿。
咳の爺婆尊。
■向島料亭街
東京で最大の花街で、120名の芸者と16軒の料亭が残る。昭和の初期には東京都内だけで40数箇所の花街があったが、現在はその数も減り、大きな花街は、六花街と呼ばれる向島・新橋・赤坂・神楽坂・芳町・浅草を残すのみとなった。
料亭。
向嶋墨堤組合。見番といわれるもので、料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋他花街の統括管理、芸妓の育成、稽古を行う。
■三囲神社
「三囲神社」の名は中世に三井寺の僧が地中から一体の稲荷神像を掘り出したとき、どこからともなく白狐が現れ、稲荷神像のまわりを3回めぐったのちに去ったことに由来。江戸時代になり、呉服屋や両替店を経営した三井家が篤く信仰した。芭蕉の高弟其角「雨乞いの句碑」があることでも有名。七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
雨乞いの句碑。三囲神社で雨乞いの神事を行う農民に請われた其角が、元禄6年(1693)6月に詠んだと伝えられる。其角は豊作を祈念して句に「ゆたか」の3字を織り込み「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」と詠むと、翌日に雨が降ったといわれる。安政6年(1777)建立、摩滅により明治6年(1873)再建。
石造神狐。享和2年(1802)に木綿を扱っていた越後屋本店(ほんだな)の道を隔てて向かい側にあった向店(むかいだな)が奉納。
顕名霊社。三井家先祖を祀る社。
顕名霊社の精緻な彫刻。
老翁老嫗像。元禄のころ、三囲神社の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとする人が老婆に頼み、田圃に向かって狐を呼んでもらうと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうが、他の人が呼んでもけっして現れることがなかったという。老婆の死後、里人や信仰者がその徳を慕って建てた。
日比翁助の石垣の歌碑。日比は明治31年(1898)三井呉服店副支配人に就任、さまざまな改革を行い、三越が近代的百貨店になる基礎を築いた。
三越のライオン像。
明治29年(1896)から昭和初期まで使用されていた商標が彫られた銅壺の台座。
■墨堤植桜之碑
明治20年(1877)に建てられた石碑。篆額は榎本武揚。当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられたが、水害等のために明治29年(1896)に現在の位置に移動した。墨堤に初めて桜を植えた来歴、大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し顕彰したいとの願いが刻まれている。
■長命寺
元和元年(1615)頃の創建と伝えられる天台宗の寺院。古くは常泉寺と号していたが、寛永年間(1624~1644)に3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこし、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたという。江戸時代は雪見の名所として知られ、多くの人々が訪れた。七福神の弁財天を祀る。
復元された長命水の井戸。
雪見の句碑。安政5年(1858)に建立。芭蕉の句「いざさらば 雪見に ころぶ所まで」が刻まれる。
狂歌碑。左上に「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九の狂歌が刻まれる。
木の実ナナの詩碑。地元向島の出身の縁で設置されたのだろう。
■弘福寺
鉄牛禅師を開山に迎えて開かれた黄檗宗の寺院で、大雄宝殿は京都万福寺を模して建てられた。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにあった。咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」が知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいる。七福神の布袋尊を祀る。
大雄宝殿。
咳の爺婆尊。
■向島料亭街
東京で最大の花街で、120名の芸者と16軒の料亭が残る。昭和の初期には東京都内だけで40数箇所の花街があったが、現在はその数も減り、大きな花街は、六花街と呼ばれる向島・新橋・赤坂・神楽坂・芳町・浅草を残すのみとなった。
料亭。
向嶋墨堤組合。見番といわれるもので、料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋他花街の統括管理、芸妓の育成、稽古を行う。
■三囲神社
「三囲神社」の名は中世に三井寺の僧が地中から一体の稲荷神像を掘り出したとき、どこからともなく白狐が現れ、稲荷神像のまわりを3回めぐったのちに去ったことに由来。江戸時代になり、呉服屋や両替店を経営した三井家が篤く信仰した。芭蕉の高弟其角「雨乞いの句碑」があることでも有名。七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
雨乞いの句碑。三囲神社で雨乞いの神事を行う農民に請われた其角が、元禄6年(1693)6月に詠んだと伝えられる。其角は豊作を祈念して句に「ゆたか」の3字を織り込み「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」と詠むと、翌日に雨が降ったといわれる。安政6年(1777)建立、摩滅により明治6年(1873)再建。
石造神狐。享和2年(1802)に木綿を扱っていた越後屋本店(ほんだな)の道を隔てて向かい側にあった向店(むかいだな)が奉納。
顕名霊社。三井家先祖を祀る社。
顕名霊社の精緻な彫刻。
老翁老嫗像。元禄のころ、三囲神社の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとする人が老婆に頼み、田圃に向かって狐を呼んでもらうと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうが、他の人が呼んでもけっして現れることがなかったという。老婆の死後、里人や信仰者がその徳を慕って建てた。
日比翁助の石垣の歌碑。日比は明治31年(1898)三井呉服店副支配人に就任、さまざまな改革を行い、三越が近代的百貨店になる基礎を築いた。
三越のライオン像。
明治29年(1896)から昭和初期まで使用されていた商標が彫られた銅壺の台座。