(その2はこちら)
■宗興寺
曹洞宗の寺院。横浜開港当時、アメリカ人宣教師で医者でもあったヘボンがここに施療所を開いた。境内の脇には、お天気井戸と呼ばれる大井戸があり、井戸の水の量が増えると翌日の天気がよくなるといわれた。井戸の水は徳川将軍や明治天皇に供された。
「ヘボン博士施療所」の石碑。
お天気井戸。
■洲崎大神
建久2年(1191)に源頼朝が安房国の安房神社をこの地に勧請したのが始まりと伝えられる。神社前の道を海側に進み、第一京浜に出るあたりがかつての船着場で、横浜開港後、船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も作られた。
ご神木のクスノキ。
江戸時代の洲崎大神。東海道の反対側には船着場が見える。
■普門寺
真言宗の寺院。開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた。
■甚行寺
明暦2年(1656)創建の浄土真宗の寺院。開港時にはフランス公使館にあてられた。
■本覚寺
臨済宗の開祖栄西により鎌倉時代に創建と伝えられる。戦国時代に臨済宗から曹洞宗に改宗。開港当時アメリカ公使ハリスが、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜や湾内を見通すことができるとの理由で当時をアメリカ領事館に決めたといわれる。
岩瀬忠震の顕彰碑。日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震を顕彰。
全国塗装業者組合合同慰霊碑。領事館時代にペンキで塗られた山門は日本で最初のペンキで塗られた純日本建築物と言われ、その縁で全国塗装業者組合の慰霊碑が建てられた。
白ペンキが残る山門の屋根。
■望欣台の碑
横浜の発展に貢献した実業家、高島嘉右衛門を顕彰する碑。高島は、鉄道用地の埋め立て、学校・ガス会社・芝居小屋等の経営、高島易断の創始等多彩な活動を行った。彼はこの山の上から埋め立てを指揮し、後年この地に住んだ。そのため、埋立地は高島町、この山は高島山と呼ばれるようになった。
明治初年に高島山付近から高島町方面を撮影した写真。
当時のものと思われる地図。
■大綱金比羅神社・一里塚
平安時代末期の創建と伝えられる。江戸時代には、神社前の街道両側に日本橋から7つ目の一里塚が置かれていた。
江戸時代の大綱金比羅神社。東海道沿いに一里塚が見える。
■台町の茶屋
江戸時代の台町あたりは神奈川湊を見おろす景勝の地だった。その様子は「東海道中膝栗毛」や歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれた。広重の作品に登場する旅籠「さくらや」は現在の料亭田中屋の前身で、高杉晋作やハリスも訪れた。田中屋は文久3年(1863)創業で、明治7年(1874)坂本龍馬の妻おりょうが勝海舟の世話で仲居として働いたと伝えられる。
田中屋。
明治・大正時代の田中屋の写真。
■神奈川台の関門跡
安政6年(1859)の横浜開港後に外国人殺傷事件が続発したため幕府は横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け警備を強化した。神奈川宿の東西にも関門が作られ、うち西側の関門が神奈川台の関門だった。明治4年(1871)他の関門と共に廃止された。
関門の写真。
■宗興寺
曹洞宗の寺院。横浜開港当時、アメリカ人宣教師で医者でもあったヘボンがここに施療所を開いた。境内の脇には、お天気井戸と呼ばれる大井戸があり、井戸の水の量が増えると翌日の天気がよくなるといわれた。井戸の水は徳川将軍や明治天皇に供された。
「ヘボン博士施療所」の石碑。
お天気井戸。
■洲崎大神
建久2年(1191)に源頼朝が安房国の安房神社をこの地に勧請したのが始まりと伝えられる。神社前の道を海側に進み、第一京浜に出るあたりがかつての船着場で、横浜開港後、船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も作られた。
ご神木のクスノキ。
江戸時代の洲崎大神。東海道の反対側には船着場が見える。
■普門寺
真言宗の寺院。開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた。
■甚行寺
明暦2年(1656)創建の浄土真宗の寺院。開港時にはフランス公使館にあてられた。
■本覚寺
臨済宗の開祖栄西により鎌倉時代に創建と伝えられる。戦国時代に臨済宗から曹洞宗に改宗。開港当時アメリカ公使ハリスが、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜や湾内を見通すことができるとの理由で当時をアメリカ領事館に決めたといわれる。
岩瀬忠震の顕彰碑。日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震を顕彰。
全国塗装業者組合合同慰霊碑。領事館時代にペンキで塗られた山門は日本で最初のペンキで塗られた純日本建築物と言われ、その縁で全国塗装業者組合の慰霊碑が建てられた。
白ペンキが残る山門の屋根。
■望欣台の碑
横浜の発展に貢献した実業家、高島嘉右衛門を顕彰する碑。高島は、鉄道用地の埋め立て、学校・ガス会社・芝居小屋等の経営、高島易断の創始等多彩な活動を行った。彼はこの山の上から埋め立てを指揮し、後年この地に住んだ。そのため、埋立地は高島町、この山は高島山と呼ばれるようになった。
明治初年に高島山付近から高島町方面を撮影した写真。
当時のものと思われる地図。
■大綱金比羅神社・一里塚
平安時代末期の創建と伝えられる。江戸時代には、神社前の街道両側に日本橋から7つ目の一里塚が置かれていた。
江戸時代の大綱金比羅神社。東海道沿いに一里塚が見える。
■台町の茶屋
江戸時代の台町あたりは神奈川湊を見おろす景勝の地だった。その様子は「東海道中膝栗毛」や歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれた。広重の作品に登場する旅籠「さくらや」は現在の料亭田中屋の前身で、高杉晋作やハリスも訪れた。田中屋は文久3年(1863)創業で、明治7年(1874)坂本龍馬の妻おりょうが勝海舟の世話で仲居として働いたと伝えられる。
田中屋。
明治・大正時代の田中屋の写真。
■神奈川台の関門跡
安政6年(1859)の横浜開港後に外国人殺傷事件が続発したため幕府は横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け警備を強化した。神奈川宿の東西にも関門が作られ、うち西側の関門が神奈川台の関門だった。明治4年(1871)他の関門と共に廃止された。
関門の写真。