(その1はこちら)
■石塔群
江戸時代の庚申塔が7基並ぶ。
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■大坂
江戸時代には難所だった坂だが、坂の上の松並木からすばらしい富士山が眺められることから多くの浮世絵の画題となった。昭和7年(1932)の坂の改修工事によりなだらかな長い坂になった。松並木が道路の中央部に残る。
街道の並木は、風や雪、日差しから旅人を守り、風雨や日差しから街道そのものを保護するために設けられた。並木には、海に近い場所では松、箱根では杉、とその土地の自然環境に適した木が選ばれた。
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江戸時代の大坂。
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松並木。
■「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽勘平の「戸塚道行」にちなんで作られた碑。
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■原宿一里塚跡
日本橋から11番目の一里塚の跡。明治9年(1876)に里程標の杭を立てる際に取り払われた。案内板と「一里山」の地名がその名残をとどめる。
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■浅間神社
室町時代・永禄年間(1558~1570)創建。参道には樹齢600年を越えるといわれるスダジイの木が並ぶ。
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スダジイの木が並ぶ参道。
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■影取池・鉄砲宿
いずれも人の影を飲む大蛇の伝説にまつわる場所。
伝説によると、遊行寺近くの、森というお金持ちの家で、大きな蛇が飼われていた。「おはん」と呼ばれ、かわいがられていたが、あまりの大食いのため、たまりかねた家人が近くの池に捨てた。
空腹の蛇は、池の水に映る旅人の影を飲み込んで飢えをしのぐようになった。次第に、「池のそばを通ると大蛇に影を取られ、命を失う」との噂が広まった。困りはてた村人たちは、鉄砲の名人に頼んで退治することにした。
鉄砲の名人は池から離れたところに小屋を作って貰い様子をうかがっていたが、大蛇は用心してなかなか姿を現さなかった。そこで名人は、飼われていたころの呼び名を聞き、池に向かって「おはんさん」と声をかけた。森家から迎えが来たと思い喜んで姿を現した大蛇は、名人に撃ち殺されてしまった。
それ以来、大蛇が住んでいた池を影取池、名人の小屋のあったところを鉄砲宿と呼ぶようになった。影取池は諏訪神社の境内の裏にあったといわれる。
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「影取町」の信号。
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諏訪神社。
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「鉄砲宿」の信号。
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「鉄砲宿」のバス停。
■松並木跡
「旧東海道松並木跡」の石碑と松の木が残る。このあたりの東海道沿いの松並木は、昭和35年(1960)ごろから猛威を振るった松喰い虫により大半が枯れて失われてしまった。
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「旧東海道松並木跡」の碑。
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巨大な松の木。
■一里塚跡
江戸から12番目の一里塚跡。江戸時代の遊行寺坂は現在のものに比べはるかに急な坂で、崖上の高さに東海道があり、その両脇に一里塚が設けられていた。現在の道路は旧東海道を掘削改修したもので、一里塚は残っていない。
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■藤沢宿
日本橋から12里18町(49.0キロメートル)の距離にあった江戸から6番目の宿場。前の宿場の戸塚宿から2里(約7.9キロメートル)、次の宿場の平塚宿へは3里18町(約13.7キロメートル)あった。天保14年(1843)の記録によると人口4,089人、家数919軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒。
藤沢は鎌倉時代から時宗総本山、遊行寺の門前町として栄えており、慶長6年(1601)の宿場の成立でさらに発展した。門前町としてはもちろんのこと、江の島や大山への分岐点としても賑わった。
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歌川広重「東海道五十三次 藤沢」が描かれた看板。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
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■諏訪神社
南北朝時代・建武2年(1335)創建。遊行寺を創建した呑海上人が諸国遊行の際に信州諏訪から勧請。明治維新の神仏分離により遊行寺から独立。
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■石塔群
江戸時代の庚申塔が7基並ぶ。
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■大坂
江戸時代には難所だった坂だが、坂の上の松並木からすばらしい富士山が眺められることから多くの浮世絵の画題となった。昭和7年(1932)の坂の改修工事によりなだらかな長い坂になった。松並木が道路の中央部に残る。
街道の並木は、風や雪、日差しから旅人を守り、風雨や日差しから街道そのものを保護するために設けられた。並木には、海に近い場所では松、箱根では杉、とその土地の自然環境に適した木が選ばれた。
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江戸時代の大坂。
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松並木。
■「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽勘平の「戸塚道行」にちなんで作られた碑。
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■原宿一里塚跡
日本橋から11番目の一里塚の跡。明治9年(1876)に里程標の杭を立てる際に取り払われた。案内板と「一里山」の地名がその名残をとどめる。
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■浅間神社
室町時代・永禄年間(1558~1570)創建。参道には樹齢600年を越えるといわれるスダジイの木が並ぶ。
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スダジイの木が並ぶ参道。
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■影取池・鉄砲宿
いずれも人の影を飲む大蛇の伝説にまつわる場所。
伝説によると、遊行寺近くの、森というお金持ちの家で、大きな蛇が飼われていた。「おはん」と呼ばれ、かわいがられていたが、あまりの大食いのため、たまりかねた家人が近くの池に捨てた。
空腹の蛇は、池の水に映る旅人の影を飲み込んで飢えをしのぐようになった。次第に、「池のそばを通ると大蛇に影を取られ、命を失う」との噂が広まった。困りはてた村人たちは、鉄砲の名人に頼んで退治することにした。
鉄砲の名人は池から離れたところに小屋を作って貰い様子をうかがっていたが、大蛇は用心してなかなか姿を現さなかった。そこで名人は、飼われていたころの呼び名を聞き、池に向かって「おはんさん」と声をかけた。森家から迎えが来たと思い喜んで姿を現した大蛇は、名人に撃ち殺されてしまった。
それ以来、大蛇が住んでいた池を影取池、名人の小屋のあったところを鉄砲宿と呼ぶようになった。影取池は諏訪神社の境内の裏にあったといわれる。
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「影取町」の信号。
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諏訪神社。
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「鉄砲宿」の信号。
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「鉄砲宿」のバス停。
■松並木跡
「旧東海道松並木跡」の石碑と松の木が残る。このあたりの東海道沿いの松並木は、昭和35年(1960)ごろから猛威を振るった松喰い虫により大半が枯れて失われてしまった。
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「旧東海道松並木跡」の碑。
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巨大な松の木。
■一里塚跡
江戸から12番目の一里塚跡。江戸時代の遊行寺坂は現在のものに比べはるかに急な坂で、崖上の高さに東海道があり、その両脇に一里塚が設けられていた。現在の道路は旧東海道を掘削改修したもので、一里塚は残っていない。
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■藤沢宿
日本橋から12里18町(49.0キロメートル)の距離にあった江戸から6番目の宿場。前の宿場の戸塚宿から2里(約7.9キロメートル)、次の宿場の平塚宿へは3里18町(約13.7キロメートル)あった。天保14年(1843)の記録によると人口4,089人、家数919軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒。
藤沢は鎌倉時代から時宗総本山、遊行寺の門前町として栄えており、慶長6年(1601)の宿場の成立でさらに発展した。門前町としてはもちろんのこと、江の島や大山への分岐点としても賑わった。
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歌川広重「東海道五十三次 藤沢」が描かれた看板。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
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■諏訪神社
南北朝時代・建武2年(1335)創建。遊行寺を創建した呑海上人が諸国遊行の際に信州諏訪から勧請。明治維新の神仏分離により遊行寺から独立。
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