この日と翌日の2日連続で東海道散歩の8回目を開催した。初日のこの日は平塚駅から二宮駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め4名で、男性2名、女性2名(参加者の皆様、ありがとうございました)。
天気に恵まれとても歩きやすかった。平塚宿、大磯宿の2つの宿場があったので東海道散歩の中ではわりと立ち寄り場所が多かった。
東海道沿いにところどころ残る松並木には巨木もあった。東海道を旅する人々をずっと見守ってきた木と思うと感慨深いものがある。今後も残ってほしい。
こゆるぎの浜で青空の下の相模湾を眺めているととてもさわやかな気分になった。やはり海はいい。
夕方の城山公園の展望台で見た景色はとてもきれいだった。特に富士山。富士山の美しさは他の山とは比較にならない。
【コース】
平塚駅→お菊塚→江戸見附跡→江戸城の井戸枠→平塚の里歌碑→脇本陣跡→高札場跡→東組問屋場跡→本陣跡→西組問屋場跡→平塚の塚→鏡山お初の墓→春日神社→京方見附跡→高麗山→高来神社→化粧井戸→化粧坂一里塚跡→江戸見附跡→延台寺→北組問屋場跡→小島本陣跡→地福寺→尾上本陣跡→新島襄終焉の地→南組問屋場跡→鴫立庵→旧島崎藤村宅→上方見附跡→こゆるぎの浜→滄浪閣跡→旧吉田邸→神奈川県立大磯城山公園→大磯町郷土資料館→国府本郷の一里塚跡→ガラスのうさぎ像→二宮駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■お菊塚
怪談「番町皿屋敷」の主人公のお菊にちなんだ塚。
お菊は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため江戸旗本青山主膳へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬殺したと言われている。
一説によると、主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊がなびかなかったので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げ、お菊が手打ちにされたとも伝えられている。
■平塚宿
日本橋から16里(約62.8キロメートル)の距離にあった江戸から7番目の宿場。
前の宿場の藤沢宿から3里18町(約13.7キロメートル)、次の宿場の大磯宿へは27町(約2.9キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口2,114人、家数443軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒。
宿場の形成は鎌倉時代にさかのぼり、正和5年(1316)ごろの書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿場としての機能を整えていたことがうかがえる。慶長6年(1601)に東海道の宿場に指定される。相模川を利用した物資の集散地として、
また東海道、江戸への抜け道として徳川家康も好んで利用した中原往還、八王子道が通るため交通の要所として栄えた。
■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。
長さ約3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ1.6メートルの石垣を台形状に積み頭部を土盛りし、東海道に対して直角に、かつ両側の見附が東西にずれた形で設置されていた。
現在あるのは、明治14年(1881)に駐日イタリア公使が持ち帰った写真をもとに、平成13年(2001)に復元されたもの。
■江戸城の井戸枠
昭和32年(1957)、市制施行25周年に東京都から江戸城の石垣と共に貰い受けた。
井戸枠の内側にはホテイアオイが植えられ金魚が泳いでいた。
■平塚の里歌碑
「平安紀行」の作者(太田道灌という説がある)の「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはててかたみもみえぬ 平塚の里」が刻まれる。
室町時代・文明12年(1480)作者が上洛の途中、平塚で昔三浦定可という人がここに住み、ここで没したということを思い出し、その庵の跡、墓所などをたずねたが、誰一人知る者がいなかったので上記の歌を詠んだ。
■脇本陣跡
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。平塚宿には1軒あった。
■高札場跡
幕府や領主の法令や通達等を書き記した木の板(高札)を掲げた施設で、隣の藤沢宿と大磯宿までの運賃料金を記載した高札も掲げられていた。平塚宿の高札場は幅2間半(約5メートル)、高さ1丈1尺(約3メートル)の規模だった。
■東組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。平塚宿には問屋場が2箇所あり、二十四軒町にあったのを東組問屋場、西仲町にあったのを西組問屋場と呼んだ。両問屋場は10日交代で執務した。
■本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。
平塚宿には1軒あり、加藤家が本陣職を務めた。文久3年(1863)、元治2年(1865)に徳川14代将軍家茂が、明治元年(1868)、明治2年に明治天皇が休憩をした、との記録が残る。
■西組問屋場跡
西仲町にあった平塚宿のもう1軒の問屋場の跡。
江戸風の消防団の建物の前に問場跡の石碑が建てられている。
■平塚の塚
平塚の地名の由来となった塚。桓武天皇の孫・高見王の娘、平政子が東国へおもむく途中、平安時代・天安元年(857)にこの地で亡くなったため、墓として塚がつくられた。その塚の上がいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。
天気に恵まれとても歩きやすかった。平塚宿、大磯宿の2つの宿場があったので東海道散歩の中ではわりと立ち寄り場所が多かった。
東海道沿いにところどころ残る松並木には巨木もあった。東海道を旅する人々をずっと見守ってきた木と思うと感慨深いものがある。今後も残ってほしい。
こゆるぎの浜で青空の下の相模湾を眺めているととてもさわやかな気分になった。やはり海はいい。
夕方の城山公園の展望台で見た景色はとてもきれいだった。特に富士山。富士山の美しさは他の山とは比較にならない。
【コース】
平塚駅→お菊塚→江戸見附跡→江戸城の井戸枠→平塚の里歌碑→脇本陣跡→高札場跡→東組問屋場跡→本陣跡→西組問屋場跡→平塚の塚→鏡山お初の墓→春日神社→京方見附跡→高麗山→高来神社→化粧井戸→化粧坂一里塚跡→江戸見附跡→延台寺→北組問屋場跡→小島本陣跡→地福寺→尾上本陣跡→新島襄終焉の地→南組問屋場跡→鴫立庵→旧島崎藤村宅→上方見附跡→こゆるぎの浜→滄浪閣跡→旧吉田邸→神奈川県立大磯城山公園→大磯町郷土資料館→国府本郷の一里塚跡→ガラスのうさぎ像→二宮駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■お菊塚
怪談「番町皿屋敷」の主人公のお菊にちなんだ塚。
お菊は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため江戸旗本青山主膳へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬殺したと言われている。
一説によると、主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊がなびかなかったので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げ、お菊が手打ちにされたとも伝えられている。
■平塚宿
日本橋から16里(約62.8キロメートル)の距離にあった江戸から7番目の宿場。
前の宿場の藤沢宿から3里18町(約13.7キロメートル)、次の宿場の大磯宿へは27町(約2.9キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口2,114人、家数443軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒。
宿場の形成は鎌倉時代にさかのぼり、正和5年(1316)ごろの書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿場としての機能を整えていたことがうかがえる。慶長6年(1601)に東海道の宿場に指定される。相模川を利用した物資の集散地として、
また東海道、江戸への抜け道として徳川家康も好んで利用した中原往還、八王子道が通るため交通の要所として栄えた。
■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。
長さ約3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ1.6メートルの石垣を台形状に積み頭部を土盛りし、東海道に対して直角に、かつ両側の見附が東西にずれた形で設置されていた。
現在あるのは、明治14年(1881)に駐日イタリア公使が持ち帰った写真をもとに、平成13年(2001)に復元されたもの。
■江戸城の井戸枠
昭和32年(1957)、市制施行25周年に東京都から江戸城の石垣と共に貰い受けた。
井戸枠の内側にはホテイアオイが植えられ金魚が泳いでいた。
■平塚の里歌碑
「平安紀行」の作者(太田道灌という説がある)の「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはててかたみもみえぬ 平塚の里」が刻まれる。
室町時代・文明12年(1480)作者が上洛の途中、平塚で昔三浦定可という人がここに住み、ここで没したということを思い出し、その庵の跡、墓所などをたずねたが、誰一人知る者がいなかったので上記の歌を詠んだ。
■脇本陣跡
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。平塚宿には1軒あった。
■高札場跡
幕府や領主の法令や通達等を書き記した木の板(高札)を掲げた施設で、隣の藤沢宿と大磯宿までの運賃料金を記載した高札も掲げられていた。平塚宿の高札場は幅2間半(約5メートル)、高さ1丈1尺(約3メートル)の規模だった。
■東組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。平塚宿には問屋場が2箇所あり、二十四軒町にあったのを東組問屋場、西仲町にあったのを西組問屋場と呼んだ。両問屋場は10日交代で執務した。
■本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。
平塚宿には1軒あり、加藤家が本陣職を務めた。文久3年(1863)、元治2年(1865)に徳川14代将軍家茂が、明治元年(1868)、明治2年に明治天皇が休憩をした、との記録が残る。
■西組問屋場跡
西仲町にあった平塚宿のもう1軒の問屋場の跡。
江戸風の消防団の建物の前に問場跡の石碑が建てられている。
■平塚の塚
平塚の地名の由来となった塚。桓武天皇の孫・高見王の娘、平政子が東国へおもむく途中、平安時代・天安元年(857)にこの地で亡くなったため、墓として塚がつくられた。その塚の上がいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。