素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

とりとめのない話ができる、気が置けない関係

2013年10月21日 | 日記
 テレビの対談で、いろいろな分野に顔を出して活動している人に「1日24時間の中で、時間がよく作れますね?」という質問がなされた。その人はニコリと笑われて「ゲームをする時間とSNSに関わる時間を省けば時間って結構ありますよ。世間一般の人がやっていることすべてをやっているわけでないので人からはマルチと言われますが興味のある所にだけ集中しています。」と答えていた。

 ゲームには全く興味がないが、孫などの様子を見ているとはまってしまうと随分時間を使うだろうなということは推察できる。しかし、SNSという言葉は私の中になかった。質問者も「そうですね」と苦笑交じりに同意していたところ見ると今世間に広まっている何かだろうというぐらいで調べもせずにいた。

 「新潮45・11月号」を読んでいると‟フェイスブックは気持ち悪い”というタイトルでコラムニスト・テクニカルライターの小田嶋隆さんの文があった。そこに知識ゼロの私にもわかるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の概要が書かれていた。フェイスブック、ツイッター、ミクシィなど「社会的な情報」すなわち「交際」を重視した登録制投稿サービスというジャンルの総称とあった。世間より一歩遅く歩んでいる私でもフェイスブックやツイッターという言葉はよく耳にする。実際どういう世界なのかは分からない。NHKの深夜のニュースなどで画面の下にニュースの内容に反応してつぶやきのようなものがテロップで出ている。とても目障りなのだがあれがツイッターかなというぐらいの認識である。

 小田嶋さんは自身の経験も含めて「空気を読むことを」を好む日本人が構築」するSNS内「世間」について考察している。おかげで独特の専門用語やシステムの有り様がおぼろげにわかった。この世界で展開される人間関係は苦手だなと直感的に思った。

 私の家に電話が来たのが高校生の時であるから、相手の姿が見えない電話も苦手意識がある。音声も消えた文字だけのコミュ二ケーションの世界には住めない気がする。

 自分を確かめるために他人の存在は必要である。他人との関わりの中で自分というものを見つめ成長していくことができるので他者とのコミュニケーションの必要性はよくわかる。基本は表情、仕草、目の動き、間の取り方、イントネーションなどがわかる面と向かっての対話であろう。

 話の中で小田嶋さんは対人関係に関して面白い表現をされている。
・・・もっとも、親しい人間同士の会話が無内容な毛づくろいに陥りがちななりゆきは、リアルな社会でも同様だ。わが身を振り返ってみれば思い当たるはずだ。誰であれ、最も親しい人々との間で日常的に行ったり来たりさせている言葉に、さしたる意味はないはずだ。
 逆に言えば、中身のある言葉を交換し合っていないとたちまち退屈してしまうような対人関係は、要するに「疎遠」なのである。・・・・


 SNSの本題よりもこの部分が一番アンテナにひかかった。

 とりとめのない話を長時間できる、気が置けない関係は貴重である。と改めて思った。

 

 
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今日心に残った言葉:「凡事を尽くして希望を得る」

2013年10月20日 | 日記
 NHK・BS1の20時からの「勝利セオリー」では今夏甲子園で初出場初優勝を果たした前橋育英の新井監督の考え方に迫っていた。為末さんとの対話、練習風景、大会映像、寮生活などを交えながらの映像は興味深く見ることができた。得てして勝者を讃える話は後付け理論の感がしてあまり好きではなかったが、今回は違った。

 起こしてしまったミスは責めない。その後の処置への切り替えと周りの人間のカバーを厳しく要求する。ミスをしないための基本練習の繰り返しは徹底する。しかし、人間のすることには完璧ということはない。そこでミスを想定しての連係プレーも実戦形式で繰り返し行う。

 そのことでミスを恐れない心が養われ、結果として自分の持っている力を最大限に発揮できることになる。このことはこれまでにも古今東西多くの人たちが語ってきたことである。しかし、実際に頭ではなく身体で具現できるようになるには辛抱と努力が必要である。

 グランドだけではなく寮生活においても当たり前のことを当たり前にやり続けるということが徹底されなければならない。新井監督の姿から率先垂範という言葉が浮かんだ。

 番組の最後に、為末さんが結んだ言葉が『凡事を尽くして希望を得る』であった。「人事を尽くして天命を待つ」よりもいいなあと思った。
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ニュース7で「悩む”非正規教員”」取り上げられる

2013年10月19日 | 日記
今日のNHKニュース7では「伊豆大島の豪雨被害」の次に「非正規教員」の問題が取り上げられた。
 やっとここにスポットを当ててくれたかという感があった。今、教育界で取り上げられるのは学力問題(主には学力テストの公開のことや英語学習のこと)といじめ、体罰のことであるが、「非正規教員の増加もしくは不足」こそがもっと深刻ではないかと思ってきた。私が退職した2,3年前より「このまま無策のまま進むとやばいのではないか?」と感じ始めたが、退職後、かつての同僚であった校長数名から「講師に来てほしい」という以来の電話を度々受けた。事情を聞くと現場の深刻さは加速度的に進んでいると思った。時々お会いして話を聞く現場の教員からも同様のことがよく出る。

  継続性の保障がないということが本人にとって一番つらいのではないかと思う。生徒、地域、学校のことを把握して見通しを持って実践に取り組むには3年~5年ぐらいの期間の保障が必要だと思う。仕事を引き継いでいくという面でもそのことは大切である。私の例で言えば、退職を決めたのは55歳の時。受け持った1年生を3年間持ち上がったら定年を待たずに退職という絵を描いた。そのことから逆算して今やるべきことを考え、学校長にも希望を伝えた。1つはクラブ顧問を2年間かけて確保してほしいということ、もう1つは生徒会の仕事を引き継いでいく人員の配置をすることである。生徒会では主に文化委員会に関わっていたが、相棒がずっと講師の方であった。仕事はきちっとやってくれる方ばかりで助かったのであるが、次の年にはいないので覚えたことを活かすことができない。私の希望は数年は勤務する見通しのある正規の方とコンビを組んで一緒に仕事をやりながら引き継ぎたいということであった。校務分掌という仕事は個人経営の店のようなところがある。一番困るのは転勤して前任者がいない分掌を任された時である。今までの流れとかが分からないまま立案、提案をしていくのはとても大変である。出来ることなら避けたいものである。

 22時30分からの「ヒーローたちの名勝負」では、2008年北京オリンピックでの男子400mリレーで史上初の銅メダルを獲得した4人のバトンパスを取り上げていたが、それを見ていて仕事もよく似ているなと感じた。見通しとお互いの信頼関係、その上に立った個人の努力、がんばりである。これは駅伝にも共通する。

    このため、現在では本来、保障されるべき正規教員の病欠、産休のための慢性的な講師不足があると同時に身分の不安定な講師の数が増大しているという二重苦が現場にはある。番組で取り上げられた20代の女性の方のような例は珍しくなくなってきている。
 彼女の場合、6か月でクラスが崩壊し、担任を外されたというが、酷な話である。沖縄県に次いで全国で2番目に臨時採用者が多い埼玉県の教育委員会に取材していたが、抜本的な解決を模索するよりも研修の機会を増やすという方向でお茶を濁しているように思えた。研修の中身と実効性は検証しないといけないのではないか。
  このこと自体、研修というものの必要性に疑問を抱かせるものである。  この方の言葉はズシリと重い。この問題にしっかり取り組まないと今、打ち出されている教育施策は砂上の楼閣に過ぎず、教育の未来は開かない。

 
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豪雨被害

2013年10月18日 | 日記
 今度は伊豆大島での豪雨被害。雨雲の動きを見ていると長時間、ピンポイントで狙ったように大島の周辺が雨量強を示す赤であった。降り始めからの降水量が800ミリというのは半端でない。こんなに予報精度も情報伝達能力も発達していながら最後の雨を食い止めるということに対しては無力である。いつも災害の報道に接するたびに悔しさ、憤り、むなしさの入り混じった思いに襲われる。

 寺田寅彦さんが書いた「天災と国防」(岩波新書)にある言葉がよみがえる。

・・・日本はその地理的の位地が極めて特殊である為に国際的にも特殊な関係が生じ色々な仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にも亦極めて特殊な環境の支配を受けて居る為に、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命の下に置かれて居ることを一日も忘れてはならない筈である。

 地震津浪台風の如き西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは云われないまでも、頻繁に我国のように激甚な災禍を及ぼすことは甚だ稀であると云ってもよい。我国のようにこう云う災禍の頻繁であるということは一面から見れば我国の国民性の上に良い影響を及ぼして居ることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有の色々な国民性の優れた諸相が作り上げられたことも事実である。

 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進む程天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという事実である。

 人類が未だ草昧の時代を脱しなかった頃、頑丈な岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、大抵の地震や暴風でも平気であったろうし、これ等の天変によって破壊さるべき何等の造営物をも持ち合せなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘立小屋のようなものであって見れば、地震には却て絶対安全であり、又仮に風に飛ばされてしまっても復旧は甚だ容易である。兎に角こういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。

 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして重力に逆らい風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。そうして天晴れ自然の暴威を封じ込めたつもりになって居ると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を亡ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると云っても不当ではない筈である。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰あろう文明人そのものなのである。・・・・・


 これが書かれたのは昭和9年、80年近くを経た今の状態を見ると寺田さんの指摘は的を射ている。福島の汚染水の問題でも地下水の力が想像以上に強くコントロールできないところにも一因がある。軽々しく「完全にコントロールできている」と言ってはいけないのである。その傲慢さのつけは必ず払わなければいけない時がくる。冷静に謙虚に最善の手を打ち続ける必要がある。

 日本各地で起こっている災害は警告ととらえるべきである。今、人類が獲得した「原子力」とういうものは「天然に反抗する人間の細工」の極め付けであることを忘れてはいけない。
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映画「草原の椅子」を寝屋川市民会館大ホールで

2013年10月17日 | 日記
 映画「草原の椅子」の公開前に、出演者の一人、西村さんがテレビのトーク番組でパキスタンのフンザでのロケシーンを交えながら作品について話をしていたという記憶がある。

 その時は宮本輝さんが阪神・淡路大震災で被災したことをきっかけに、シルクロード6700キロ、40日にわたる旅に出た体験をもとに50歳のときに執筆し、1999年に発表された本が原作であることも、2000年に映画プロデューサーの原正人さんが入院し、その間に読んだ『草原の椅子』に感動したのが製作のきっかけ。しかし数名の脚本家に依頼するが難航し、製作開始から成島出監督に出会い完成まで10年以上の時間がかかった。ということも知らず、私のアンテナに引っかからなかった。

 いつものように、地域情報誌のチケットプレゼントでこの映画のチケットが当選した。その時テレビでの記憶がうっすらとよみがえり勝手にファンタジックな映画をイメージした。
 
 実際に見るといい意味で期待を裏切れられた。世相をシリアスに切り取りつつほのぼのとした思いを抱かせてくれた。 (←クリック)) こういう予期せぬ出会いがあった日はハッピー



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