素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

「余録」に関する小さな疑問が解決する

2013年10月16日 | 日記
 「余録」を書き写し始めて2ヶ月余り経った頃に生じた小さな疑問を2012年10月2日のブログに書いた。 (←クリック)

 改行を表す五つの▲が横一直線に並んでいるのとそうでないのが7対3ぐらいの割合にあることである。その後視写は続いているがその傾向には変わりない。先日、《「余録」余話》というタイトルで東京本社愛読者センター長・梁川淑広さんが読者の声に答えていた。

 この常設コラムの登場は1906(明治39)年12月22日だそうだ。「主要記事以外の余話」という意味が込められている。新聞記事が文語体で書かれていた時代に親しみやすい口語体であったという。「余録」という名前、今一つピンときていなかったが何となくわかった。朝日新聞の「天声人語」とは対極にあると思った。

 私も学級通信や学年だよりを発行する時、通信の名前をどうするかは割とこだわった。必ず迎えるゴールを目指して自分が目の前の生徒とどう関わっていくかという方針みたいなものを込める。退職時にそれらは処分してしまったので記憶がうすれているが、「道」「いちのいち」「風鈴」「やじろべえ」「みんなでGO」「かけはし」などがあった。

 肝心の執筆者のことであるが、 《メイン筆者は今年11年目。▲をそろえる柳川時夫特別編集委員(64)で週5日。他日は論説委員の交代です。》 とあった。

 余録によって、視野を広げてもらっていると思う。視写は続けていくつもり。 
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歴史の転換点

2013年10月15日 | 日記
 明治維新を含め日本の歴史には大きな転換点があった。その1つに応仁の乱もあるが、正直今一つよくわからなかったし、金閣寺、銀閣寺、能狂言、生け花、茶の湯など現代の日本まで脈々と続いている文化を生み出してきたにもかかわらずわかろうともしなかった。先週のBS歴史館で「日本の転換点シリーズ」の⑴として『応仁の乱』があった。いい加減な幕府の下での好き勝手な破壊の繰り返しだけというイメージしかなかったが番組を見て断片的に入っていたさまざまな知識が有機的に結びついた。

 ちょうど10月の100分de名著は松尾芭蕉の「おくのほそ道」である。松尾芭蕉については井上ひさしさんの『芭蕉通夜舟』を観たのをきっかけに少しかじったが、あくまで芭蕉個人の変遷しか見てなかったが、今回応仁の乱によって大転換した日本の中で芭蕉を位置づけると違ったものが見えてきた。これもなかなかいい番組で明日の3回目も楽しみである。

 
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福沢諭吉と森有礼

2013年10月14日 | 日記
 教育現場から離れ直接的には何も影響を受けない立場ではある私にも「教育とは?」ということを根源から考えることをさせてくれるのは、維新の会の橋下さんのおかげである。「ごちゃごちゃ考えても仕方ないやん」という声も自分の中から聞こえてくるのだが、アンテナに引っかかってしまうと無意識の世界には押し込めることはできない。

 今、目の前で起こっている教育に関する動きは、近代国家と言われているものが成立して以来、日本のみならず世界中で論議になってきた『国家と個人』というところまで行き着いてしまう根深いものである。

 フランス革命が終わった後、ナポレオンはフランスの教育を中央集権的に整えることを始めた。その時「フランスの子どもは国家の子どもである」と言ったという。またドイツではフリードリヒ大王のナポレオンと同じような言葉を残している。「国家があるように、学校もある」。
 このように、国家が、教育というものを、国家の利害に関わる問題としてとらえ、権力者に都合のよいほうへ体制を整えようとすことに対して異を唱えたのがペスタロッチである。「玉座の上にあっても、わら家の陰にあっても、人間は本質において同じである」という言葉を残しているように、誰かのためではなく個々の持っている善さを育てることが大切であると説く。ナポレオンの言葉を痛烈に批判して「幸いにしてまだ子どもたちは私たちの子どもである」と言ったという。

 明治維新によって日本が近代国家としての体制を整えようとした時、初代文部大臣となった森有礼はフランスやドイツに学びながら日本の学校制度の骨幹を確立していった。「教育を国家の発展の手段として考える」ことを大前提にした体制である。それに対して異論を唱えたのが福沢諭吉である。「人間は独立自尊。車夫、馬丁に至るまで自分で考えて生きる。お上にへつらって、お上を恐れ、お上を慕い、お上のままに生きる。そういうことではないんだ」「教育はひとりひとりの人間の問題なのだ。その人間が独立し繁栄してはじめて、国家も本当に独立し繁栄できる。その逆ではない」ということを精力的に説き、自ら学校も設立して実践していった。福沢諭吉は『教育』という言葉には「国家の側から教え、わからせ、そして身につけさせる」と意味合いが反映されているといい「ひとりひとりの人間が、生きている以上は自分で善く生きようとするに決まっている。貧富を問わず、貴賎を問わず、みな同じ。また、わかりが早かろうが遅かろうが、頭がよかろうが悪かろうが、そんな事ともかかわりない。みんな学ぼうとしている。だから、とにかく学ぶことによって、それぞれが自分で考えていくことができるようにしなければならない」という立場に立つならばむしろ「発育」という言い方が良いと提案したのであった。そこには「心から相手を信用して、相手が伸びていく力になってあげたい」という真のやさしさが反映されているように思われる。

 まだまだかじった程度だが、福沢諭吉と森有礼の論争、歩みに興味を持っている。今を考えるものさしの1つを得ることができるのではないかと思っている。
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デジブック 『曽爾高原の秋』

2013年10月13日 | 日記
 すすきの季節になると新聞、テレビで曽爾高原がよく取り上げられている。室生寺には何度か足を運んだがその奥にある曽爾高原は未知の世界。伊勢本街道もその裏側を走るので興味はあったが機会がなかった。

 「すすきの群生を見たい!」という方がおられたので、いい機会だと曽爾高原に出かけることになった。3連休の中日、絶好の行楽日和になったので混雑を覚悟していたが予想していたよりも渋滞にはならず、駐車場待ちの列で10分余り待機するだけで良かった。

 倶留尊山(1038m)亀山(849m)をバックに想像していたよりも広く、雄大なすすきの群生地であった。さわやかな秋風に揺れるすすきは見応えがあった。また振り返って見えた室生方面の鎧岳・兜岳などの雄姿も印象的であった。とにかく「人間って小さいな」と感じた秋の1日であった。


デジブック 『曽爾高原の秋』



 往復5時間弱の車中のとりとめのない話を心置きなくできたことも楽しかったが、中でもYouTubeの動画「I'm blind」は興味深く聞いた。話だけでも充分頭の中に映像をイメージできたが、それと実際のものを比べたくなり家に帰ってから探してみた。
『I'm blind..Please help..!!! 』 がそれだろうと思う。確かに示唆に富む映像である。

 知らなかった世界にふれる機会が訪れた時はとてもHappy
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『村野中学校2期生 同窓会』が大阪新阪急ホテルで

2013年10月12日 | 日記
 2010年11月20日(土)にホテル京阪京橋で「卒業35年目の同窓会」ということで枚方第四中学校14期生と村野中学校2期生の合同同窓会(2年生の時に分離した学年)が開催された。当時の四中は10クラス、分離した村中は5クラスと規模が違ったので同窓会出席者も圧倒的に四中が多かった。

 期せずして「今度は単独でやりたいね」という声が多く聞かれ、代表幹事さんを中心に5名の幹事さんに骨を折ってもらい、翌年の8月13日(土)に守口ロイヤルパインズホテルで2期生だけの同窓会が開催された。3年担任5名中4名の参加もあり大盛況であった。それから2年2か月、早いものである。今回は大阪駅近くの大阪新阪急ホテルが会場。先日テレビのニュースで《時空の広場》のフラワーフェスティバルの様子が流れていたので少し早目に行って立ち寄った。
    《時空広場》から《カリヨン広場》に抜けると目の前に新阪急ホテルがある。
 今回も前回同様60名余りの参加。うち3分の1弱の新参加者と2年生の時の担任と教科担任にも呼びかけていただいたおかげで新たな出会いがあった。美術のY先生とは35年ぶりにお会いして話ができた。ちなみに参加した6名の教師の中では私が一番若い。(新卒で入った2年目だから当たり前だが)長いことベテランと言われてきた身にとってはなぜか新鮮。参加者のことがも社会では中堅と呼ばれる年代、同窓会というこの場だけはその衣を脱ぐことができる。

 前回の会では私が発行していた学級通信『道』をきっちり保存していた生徒がいて持ってきてくれた。びっくりしたがとても懐かしかった。どのクラスにも整理、保存能力抜群の生徒がいるのか今回はHさんが3年1組の学級通信「担任だより」のファイルを持ってきた。担任のSさんは2年先輩。学級経営のことでよく教えてもらった。その時にはわからなかったことも経験を積むにしたがって「そうだったのか」ということもあった。その学級通信を囲んで文化祭の合唱のことが話題になった。

 あっという間の3時間であった。その時いただいた花束の花たちが部屋に彩りを与えてくれている。
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