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We第15号/短詩グラマトロジー 第九回:交差呼応 斎藤秀雄

2023-03-28 21:50:10 | 俳句
短詩グラマトロジー 第九回:交差呼応
                              斎藤 秀雄

 この連載の第六回で、「濫喩」を、中村明による定義を借りて《感覚の交錯や論理的な矛盾を抱えた比喩などを提示して刺激する修辞技法》(『日本語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)にまで拡張しておいたのだが、いま思えばこれは拡張のし過ぎであった。《感覚の交錯》(つまり共感覚的な表現)についていえば、むしろ〈異例結合〉と呼ぶべきかもしれない。例えば川端康成『雪国』には、異例結合が頻出する。「甘い丸さ」「静かな嘘」など。
 さて、これを複数のフレーズにまたがって交差させたものが〈交差呼応〉である(とはいえ、のちにあげる例においてのように、必ずしも「異例」ではないものも含める。詩的効果が生じるかにのみ、焦点を合わせたい)。中村は《彗眼で聞き、地獄耳で見る》(同前)という例をあげている。
 桃を食べる
 日が昇る
ならあまりに常識的だが、
 桃が昇る
 日を食べる
とすれば、読者の気を引くなにがしかが生まれるだろう。我々詩人は、あまりに何気なくこれをやってしまっているから、読んでいるもののなかに、改めて発見することがむしろ難しいかもしれない。
 短詩の例をみよう。大岡信の『草府にて』(一九八四年)所収の「ライフ・ストーリー」と題された二行の詩。

一羽でも宇宙を満たす鳥の声
二羽でも宇宙に充満する鳥の静寂

 一行目と二行目では、《鳥》の数が異なる。数が多い方が《声》はよく響くだろうけれど、ここではそうした常識を交差させることで、《静寂》に籠る、ある種の「すごみ」が際立つ効果を発揮している。むろん、《鳥の声》や《鳥の静寂》を《宇宙》ぜんたいに行き渡らせること事態が「異例」ではある。「一羽でも宇宙を満たす鳥の静寂」という一文を考えれば、そのことは分かる。交差はここで、一行目と二行目とのあいだに響き渡る、《声》と《静寂》の巨大な共鳴を惹起しているといえるだろう。
 謎めいたタイトルにも注目しておきたい。作中において、我々は《宇宙》ぜんたいを見渡す視点に連れ去られ、ここでの《鳥》は「ライフ(生命)」というよりもむしろ、より神秘的な存在者の地位を与えられているように感じられる。日常言語でいう「現実」とは異なる種類の〈現実〉の、《鳥》であるように思われるのだ。ところが、こうした感触とは対極を示すタイトルであったことに気づく。そのとき、我々は一息に、卑近な「現実」へと引き戻される。ここで《宇宙》とは、「ライフ(生活、人生)」のことと同義と考えてもよいだろうし、「ライフ・ストーリー」とは、《宇宙》を(より正確にいえば「世界」を。すなわち自己および自己の環境を)くまなく観察することと考えても、読みすぎにはなるまい。世界は、《声》と《静寂》の生み出すリズム、意味、運動に満ちているのだ。
 短歌の例をみよう。

冷卓に冷食の鮭薔薇いろにわがくちびるの色消えやすし                       葛原 妙子
夜をください そうでなければ永遠に冷たい洗濯物をください                  服部 真里子

 一首目。歌集『朱靈』より(なお、「消」は原文では旧字体)。「異例」というほどの「結合」ではないものの、もしも「冷食の鮭の色は消えやすく、わがくちびるは薔薇いろである」という内容だったらやはりつまらない。ここでは交差によって、家族のなかでの自己の、「消えやすさ」が強調されている。派手なモティーフ(幻視)に着目されがちが葛原だが、家族をさめた視線で観察する作品も、歌集には頻出する。例えば掲歌に続いて、《夫怒り妻うなだるるにあらざるも寂しゆふべの硝子光れる》《首のべてものをたうぶる あなさむき首ににくしみを享けてたうぶる》といった歌がは収められており、葛原に(例えば山中智恵子などと比べて)親しみやすい作家像を与えている。
 二首目。歌集『遠くの敵や硝子を』より。「洗濯物をください そうでなければ永遠に冷たい夜をください」であったとしても、詩としてのタイプは異なるものの、それなりに詩的効果を発揮するだろう。さらにいえば「夜をください」という単独のフレーズのみみると、むしろ退屈である。だが、《永遠に冷たい洗濯物》というあり得ないものと等価に置かれることで、《夜》が事後的に神秘的な相貌を呈することになる。そして永遠の冷たさが、水気を帯びた物質性として到来する。交差呼応の8の字の円環のなかで、詩的効果が永遠に高まり続ける緻密な作品。
 俳句の例をみよう。

貧しい海蹴るアイロン 赤いランプの髪立つ妻 島津 亮
鏡を剥けば林檎の起こすことすべて      未補

 一句目。島津は句集『記録』の途中から(昭和三三年以降)、いくつのラインが交差しているのか一読して判読できないような、複雑な書き方をしているが(交差というより交錯である)、そのなかにあってこれは分かりやすい。「赤いランプのアイロン」と「貧しい海蹴る髪立つ妻」の交差(いまではスチームの適温を知らせるランプがついたアイロンも少数かもしれないが)。《アイロン》は《妻》の領域(家事の領域)に属し、交差しつつも近しさが漂っている。《妻》と《海》にきているというのに、日常生活の質感が、一句に籠っている。《貧しい》はそんな彼らの生活を、総合的に表した一語なのかもしれない。
 二句目。「林檎を剥く」と「鏡の起こす」の交差。《鏡を剥けば》という異例な表現を、「鏡に林檎を映しながら、林檎を剥けば」という景の換喩表現と読むこともできるし、じっさいそのイメージも立ちのぼってくるのだが、まずは《鏡》の表面が剥がれてゆく鮮烈なイメージとして読みたい。『鏡の国のアリス』に遡るまでもなく、《鏡》のなかにもうひとつの世界が広がっているという感触は誰しも抱いたことがあるはずだ。それゆえ、「鏡が起こすことすべて」ではやはり面白さが低減してしまう。《林檎》という凝縮の感触を湛えた物体の、可能性のすべてを、《鏡》のなかではみることができるのかもしれない。(続)

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お向かいさんから筍をいただきました。
初物です。


一昨日は、
ご主人の実家から送られてきたえんどう豆をいだだき
その日のうちに豆ごはんにして頂きました。
季節のものはうれしいですね。
きょうは、私も姉のところに
新高菜の漬物を持っていきました。

3月31日でGYAO無料が終了するので1月~3月は
韓ドラ(「品位のある彼女」「キム課長とソ理事」「ホ・ジュン」「風の絵師」「奇皇后」「シンイー信義」「花より男子」「青い海の伝説」「被告人」「キルミー・ヒールミー」「医師ヨハン」)
や日本の1998年のドラマ(「神様、もう少しだけ」「めぐり逢い」)
を観まくっていました。


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