9月29日付け地元新聞に辺見庸氏の
「中国は『一皿の散沙』か~領土で鳴動する表層と古層」
と題する文章があった。
その中で同氏は、
いまの日中関係について、
「愛も友情も敬意も余裕も感じられない」
「愛するものを抱きかかえるのと同じように憎むものを抱きかかえよ、
と述べた魯迅の知はどこにいってしまったのか」
と嘆き、
事は中国だけでなく、
「中国に怒る日本の政治も暗転しつつある」
と警戒感を示している。
きな臭くなっているということだろう~
さあて、こういう時の打開策とはいったい・・・???
これは国家間のことだが、
一方、個人間というか組織の中でもトラブルがおこれば、
中国が国連で発言したような感情的で下品な言葉で中傷非難してくることもある。
一つの事実を悪意で言うか善意でいうか次第で、責任問題があればあるほど、
相当異なる様相をみせる。
しかし、どんなときでも
自分を貶めるような醜い応酬はしたくないものだ。
思えば、『夜と霧』の著者V.E.フランクルは
毎日毎時毎分が死と隣り合わせという
極限のナチによる収容所生活においてさえ、
人間性を壊さず人格の尊厳を保ち、生きることができた。
なぜ?
精神科医という職業を持っていたからだろうか。
医師ということで、最初は何も優遇されたわけでは全くなく
過酷な労働に身を強いられ、
辛い時は最愛の妻(離れ離れに収容され亡くなっていた!)
を想うというトリックに身をまかせ~
それでも、収容所生活の飢餓、寒さ、重労働に終わりはなく
とうとう病気になって~
あとでは、収容所内の発疹チフスの医師として働くことにはなるのだが、
命をなんとか持ちこたえられたのは
神様の思し召しか運が良かったのか。
常に観察し分析し、静かに自分をコントロールし、
生き延びえた暁には、
この収容所でのことを全世界に伝えるという使命を
一途に持ち続けたからであろうか。
それに、書きためていた自分の論文が没収され、
その再構成という未来志向的な仕事が残っていたからか。
幸いにも、精神的に孤立の状態にはなかったようだしー。
話は飛びすぎた!
6~8日まで、
古代山城サミット参加を兼ねた観光旅行に
対馬に行ってきます☆彡
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