今、帰ってきた!
今日勉強してきたことを
まだ熱いうちに書きとめておこう。
恵楓園に行くのは、5月に初めて見学して以来、今日で2回目。
連続企画として、何度か企画があっていたようだが・・・。
本日は、
1962年9月14日に、
元ハンセン病患者藤本さんが無実を訴えながら死刑執行されてから50年!の追悼集会。
~リレートークでつなぐ再審への思い~
ということで、
10名の方々が、
それぞれの立場から決められた時間内でお話された。
最後に
菊池事件再審弁護団団長徳田靖之弁護士から、
菊池事件の再審請求は遺族がするべきことではなく
司法と社会の責任から、
検察官が最も再審請求するべき立場にあり、
その要請書を地検か最高検かに提出するということで話された。
そして、全国的な署名活動も展開したいと。
以下、私の耳が聴き、印象に残ったことを、
私の受け取りかたで書きます。
① 再審弁護団事務局長馬場啓弁護士は、
ハンセン病(菊池事件)とかかわるきっかけになったのは、
1995年に鹿児島の島ヒロシなる人物が、九州弁護士会に手紙を出して、
菊池事件を見過ごしてきた法曹の責任を指摘したことからだったと述べ、
人権侵害がこともあろうに裁判で行われたという、
法曹界(検察官・裁判官・弁護士)の過ちを
自ら正していきたいという思いからだったと。
そして、この件の再審請求は、
単に請求書を裁判所に提出するのではなく、
まずは検察官自らが過ちを正すという意味で、
その要請書を検察庁に出すと。
② 菊池事件の殺人犯とされた藤本さんを直接知っていた恵楓園入所者長州次郎さんは、
藤本さんについて、心優しい人だったと語った。
園内での出張裁判は幕が張られた法廷で、小さな声で行われていたと。
また、ご自分のことで、「たろうはどこにいったかあー」と~。
昭和63年までは確認できたが、その後どうなったかわからないと。
たろうとは、昭和22年に結婚はしたが、
お腹の中で大きくなっていて生きることが許されなかった子のようだ。
赤ん坊が動かすように手を泳がせて、「なさけなかったー」と言われた。
③ 死刑判決後の藤本さんに会っていた教誨師坂本克明さんは、
当時は腹が立って立って仕方なかったが、最近は哀しくて涙がでる。
藤本さんとは、昭和36年5月~昭和37年8月まで16回お話をしたそうで、
最初は激しく無実を訴えていたが、だんだん言葉少なになっていった。
傍聴したことがあった、園内での特設法廷による裁判は、
被告本人の陳述はなく、さっさと進められ、
そこには日本国憲法が及んでいるようなものではなかったーと。
④ 国民救援会のメンバーの佐藤さんは、
当時、会としてはかかわっていたが
死刑執行されてからそのままになっていたのを、
またかかわるようになったと言われた。
こんな会があることを、初めて知ったが、1928年に設立されたそうだ。
⑤ 映画『新・あつい壁』の映画監督中山節夫は、
恵楓園から3キロ圏内の合志市に生まれ高校の時まで居たが、
その地域で差別する側の人間として育った。
大学からは東京に行っていたが、
1953年朝日新聞と赤旗の小さな記事で、藤本さんの死刑執行を知った。
市民の差別意識・感情が国策を後押しすることになったと言い、
裁判官までもが同じ低いレベルだったと。
映画『あつい壁』を製作は、黒髪事件を題材に29歳~31歳だったそうだ。
ここで、休憩が入った~
(私もブログ書き中断!19:25)
⑥ 宮里新一というシンガー・ソングライターの「紫陽花の詩」歌披露
涙が出そうになった・・・・
⑦ 菊池出身の親族の男性(名前は出してあるが、私は書くのを控えます)は、
自分の親はとんでもないこと!と目を剥いたが、
自分は藤本さんの名誉回復に尽力したいとー
⑧ ボランティアガイドをしている菊池市の女性稲田さんは、
藤本さんの短歌を読んだりすると、彼は最後まで無罪判決を信じていたと思う、
社会の責任を自分のことに引きつけて考えたい、
また、他への支援の輪を広げるための日頃の努力を続けたいと熱く力強く語った。
⑨ 「ハンセン病問題市民会議かごしま」のメンバーの僧侶寺本さんは、
鹿児島からの連帯ということで、
国の責任、社会の責任、私たちひとりひとりの責任を説かれた。
⑩ 「ハンセン病全国原告団協議会幹事」・長島愛生園入所者宇佐美治さんは、
自分が旧制中4年の時、この病気になったため、
結納が済んでいた親戚のおばさんの結婚が破断になった。
まだ若いおばさんは、帷子を着て、石をまとい、
古井戸に身を投げたという話をされた。
ハンセン病家族や親族の苦しみや悲しみいかばかりか・・・・・と。
そして、自分は、これから理解されても理解されなくても闘っていくんだと言われ、
当時(昭和32年から)愛生園で、
菊池事件の再審請求の署名が集まらなかったことには自戒をこめられた。
また、菊池事件が、
まだ再審請求中で裁判所の却下決定が言い渡されないうちに、
死刑執行決定の押印がなされたのは、
当時患者が団結して力をつけてきていたことに対する
見せしめだったのではないかという
持論を述べられた。
帰りに、ちょっとだけ、
逃走防止のための、
北側の高さ2メートルほどのコンクリート壁と火葬場跡を見に行った。
事実を知れば知るほど、真実もみえてくる。
あまりにも、私たちは、ハンセン病について知らなさすぎる。
知らないことが過ちであるとすれば、
そう自覚した時が過ちを正す時であり、
それは学ぶことであろう。
大変長くなりました。
ダウン!
今日勉強してきたことを
まだ熱いうちに書きとめておこう。
恵楓園に行くのは、5月に初めて見学して以来、今日で2回目。
連続企画として、何度か企画があっていたようだが・・・。
本日は、
1962年9月14日に、
元ハンセン病患者藤本さんが無実を訴えながら死刑執行されてから50年!の追悼集会。
~リレートークでつなぐ再審への思い~
ということで、
10名の方々が、
それぞれの立場から決められた時間内でお話された。
最後に
菊池事件再審弁護団団長徳田靖之弁護士から、
菊池事件の再審請求は遺族がするべきことではなく
司法と社会の責任から、
検察官が最も再審請求するべき立場にあり、
その要請書を地検か最高検かに提出するということで話された。
そして、全国的な署名活動も展開したいと。
以下、私の耳が聴き、印象に残ったことを、
私の受け取りかたで書きます。
① 再審弁護団事務局長馬場啓弁護士は、
ハンセン病(菊池事件)とかかわるきっかけになったのは、
1995年に鹿児島の島ヒロシなる人物が、九州弁護士会に手紙を出して、
菊池事件を見過ごしてきた法曹の責任を指摘したことからだったと述べ、
人権侵害がこともあろうに裁判で行われたという、
法曹界(検察官・裁判官・弁護士)の過ちを
自ら正していきたいという思いからだったと。
そして、この件の再審請求は、
単に請求書を裁判所に提出するのではなく、
まずは検察官自らが過ちを正すという意味で、
その要請書を検察庁に出すと。
② 菊池事件の殺人犯とされた藤本さんを直接知っていた恵楓園入所者長州次郎さんは、
藤本さんについて、心優しい人だったと語った。
園内での出張裁判は幕が張られた法廷で、小さな声で行われていたと。
また、ご自分のことで、「たろうはどこにいったかあー」と~。
昭和63年までは確認できたが、その後どうなったかわからないと。
たろうとは、昭和22年に結婚はしたが、
お腹の中で大きくなっていて生きることが許されなかった子のようだ。
赤ん坊が動かすように手を泳がせて、「なさけなかったー」と言われた。
③ 死刑判決後の藤本さんに会っていた教誨師坂本克明さんは、
当時は腹が立って立って仕方なかったが、最近は哀しくて涙がでる。
藤本さんとは、昭和36年5月~昭和37年8月まで16回お話をしたそうで、
最初は激しく無実を訴えていたが、だんだん言葉少なになっていった。
傍聴したことがあった、園内での特設法廷による裁判は、
被告本人の陳述はなく、さっさと進められ、
そこには日本国憲法が及んでいるようなものではなかったーと。
④ 国民救援会のメンバーの佐藤さんは、
当時、会としてはかかわっていたが
死刑執行されてからそのままになっていたのを、
またかかわるようになったと言われた。
こんな会があることを、初めて知ったが、1928年に設立されたそうだ。
⑤ 映画『新・あつい壁』の映画監督中山節夫は、
恵楓園から3キロ圏内の合志市に生まれ高校の時まで居たが、
その地域で差別する側の人間として育った。
大学からは東京に行っていたが、
1953年朝日新聞と赤旗の小さな記事で、藤本さんの死刑執行を知った。
市民の差別意識・感情が国策を後押しすることになったと言い、
裁判官までもが同じ低いレベルだったと。
映画『あつい壁』を製作は、黒髪事件を題材に29歳~31歳だったそうだ。
ここで、休憩が入った~
(私もブログ書き中断!19:25)
⑥ 宮里新一というシンガー・ソングライターの「紫陽花の詩」歌披露
涙が出そうになった・・・・
⑦ 菊池出身の親族の男性(名前は出してあるが、私は書くのを控えます)は、
自分の親はとんでもないこと!と目を剥いたが、
自分は藤本さんの名誉回復に尽力したいとー
⑧ ボランティアガイドをしている菊池市の女性稲田さんは、
藤本さんの短歌を読んだりすると、彼は最後まで無罪判決を信じていたと思う、
社会の責任を自分のことに引きつけて考えたい、
また、他への支援の輪を広げるための日頃の努力を続けたいと熱く力強く語った。
⑨ 「ハンセン病問題市民会議かごしま」のメンバーの僧侶寺本さんは、
鹿児島からの連帯ということで、
国の責任、社会の責任、私たちひとりひとりの責任を説かれた。
⑩ 「ハンセン病全国原告団協議会幹事」・長島愛生園入所者宇佐美治さんは、
自分が旧制中4年の時、この病気になったため、
結納が済んでいた親戚のおばさんの結婚が破断になった。
まだ若いおばさんは、帷子を着て、石をまとい、
古井戸に身を投げたという話をされた。
ハンセン病家族や親族の苦しみや悲しみいかばかりか・・・・・と。
そして、自分は、これから理解されても理解されなくても闘っていくんだと言われ、
当時(昭和32年から)愛生園で、
菊池事件の再審請求の署名が集まらなかったことには自戒をこめられた。
また、菊池事件が、
まだ再審請求中で裁判所の却下決定が言い渡されないうちに、
死刑執行決定の押印がなされたのは、
当時患者が団結して力をつけてきていたことに対する
見せしめだったのではないかという
持論を述べられた。
帰りに、ちょっとだけ、
逃走防止のための、
北側の高さ2メートルほどのコンクリート壁と火葬場跡を見に行った。
事実を知れば知るほど、真実もみえてくる。
あまりにも、私たちは、ハンセン病について知らなさすぎる。
知らないことが過ちであるとすれば、
そう自覚した時が過ちを正す時であり、
それは学ぶことであろう。
大変長くなりました。
ダウン!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます