教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

研究をよりよく進めるには(4)―差異による論文の価値

2010年06月09日 23時01分50秒 | 研究をよりよく進めるには

 今日は、旧HPテキストの補完。久しぶりに目を通して思ったこと。…執筆当時のうめき声が聞こえてくるようだ。


差異による論文の価値

(1) 概念説明の必要性
 君の論文には概念説明が足りないと、言われたことがあります。概念というのは、事物の本質的特徴とその連関のことで、事物を認識するための枠のようなものです。人間は、概念によって事物を認識します。ですから、論文の執筆者は、研究対象を認識するために適切な内容で概念を規定しないと、対象をまちがった形で認識する危険があります。その危険は、論文の読者にも及びますから、自分でわかっているだけでは十分ではなく、論文にきっちり説明しておかなくてはなりません。また、概念は歴史的・文化的な性格を帯びたものであり、その中に様々な特殊な意味や問題が含まれていることがあるので、使用する概念がどんな文脈においてどんな意味で使われてきたか、ということも確認しておく必要があります。例えば、大日本教育会を研究しようとすれば、「大日本教育会」という概念が今までどのように使われてきたか確認する必要性がある、ということです。これは、先行研究の整理という作業につながるものです。
(2) 論文の「価値」の所在
 自分の論文にどんな価値があるのか、わからなくなったことがあります。「価値」ある論文ってどういうものなんでしょうか。
 価値という概念には、事物そのものの本源的な力という意味と、他の人々に妥当するという二重の意味があります。マルクス『資本論』では、この二つの意味が、それぞれ「使用価値」と「交換価値」とに区別されて使われています。使用価値とはものの持ち主にとって有用な価値のことであり、交換価値とは他のものとの関係から現れる相対的な価値のことです。商品は生産者にとっては交換価値を持ちますが、購買者にとっては使用価値を持たなくてはなりません。だから、商品が存在するには、使用価値と交換価値とが常に相互交換できる必要があるのです。
 論文を商品とをそのまま重ねることはできませんが、自他両方から必要とされるか否かという意味では共通するものがあると思います。私にとって価値がある大日本教育会の研究は、読者にとっても価値がなくては存在できません。私の価値と読者の価値は、交換が可能なように共通性・関連性を持ってないといけないのでしょう。なお、このとき、読者とは誰か、ということが問題になります。読者が一般人か学者か、それも教育学者か教育史研究者か日本教育史研究者かで、何を価値あるものとするかという価値観がかなり違うので、誰を読者と想定するかによって研究の内容が変わらざるをえないからです。私の博論は、どうやら教育学者を想定しないといけないようです。日本教育史研究者として育てられてきた私は、教育学者たちと交換できる価値を持つ研究論文を書けるのでしょうか。
 価値は、個々の要素の統一体である体系の中で見いだせるという考えもあります。ソシュールは、価値を言葉に基づいて考えています。すなわち、言葉は、他の言葉との差異の関係だけにおいて意味を持つ、すなわち価値が見いだせるとしました。価値は、言葉の本源的な力の中にではなく、ある一定の言語体系の中において発生するものと考えたのです。一つの体系は、個々の要素が集まって成立します。この体系は要素なしには存在しないのですが、逆に個々の要素は体系が存在しなければ価値を持たないのです。価値は、その本源的な力という側面と他の個体との差異という側面が統一されたところに見いだすことができるというわけです。論文の価値は、自らの論文と他の論文とで構成された一つの体系のなかで、自らの論文と他の論文の差異から見いだすものなのです。
 概念説明をしなくては研究が正当なのか間違っているのかもわからず、論文の本源的な力が何か認識できません。また、論文の価値は、読者との対応関係と先行研究との差異からしか見いだせません。つまり、概念は自分で何となくわかっているだけではダメで、しっかりその意味と概念同士の関係を論文に書かないといけないわけです。そして、学者が読む学会誌や紀要における価値ある論文とは、過去の学者たちの業績である先行研究の整理によって、自らの論文と他の論文との差異を明確にすることができている論文です。
(3) 論文の「差異」を見いだす際の注意点
 論文の価値は、先行研究との「差異」にあります。差異とは、個体そのものの価値の肯定に基づいて成立するもので、他の個体との関係の上で認識されるものです。
 では、論文の差異を見いだす視点は、どこに成り立つのでしょうか。普通、論文の差異を見いだす際、文章化された内容のみから差異を見いだします。この方法そのものはいたしかたないと思いますが、そこに問題がひそんでいることも、自覚する必要があるのかもしれませせん。
 論文は、ある問題に対する書き手による思考の結果を、文章(言葉)で表現したものです。人間は、文章(言葉)で問題への思考過程や結果を表現するとき、かならず「疎外」という過程を経ます。疎外とは、自己を他のものにすることであり、自己を外部に表現することです。表現の際に用いられる文章(言葉)は、そもそも他人がつくったものであり、文章(言葉)を用いるには一度自分を失う必要があります。私の論文は、自分の思考の結果を自己でない他のものにして表現したものなのです。先行研究の場合も同じです。
 先行研究との差異は、論文を人間の行為として認識した場合、次のようなことも考える必要が出てきます。私の論文とAさんの論文は、書かれた環境が違い、問題を考察し執筆する際に体験する内容も違います(現在)。そして、その問題を見いだし執筆に至る私とAさんの経緯(過去)、問題を考察し執筆した後の私とAさんの変化(未来)も違います。論文の差異は、書き手の状況(過去・現在・未来)において見いだすこともできるのです。
 論文の差異を文章化された内容のみから見いだすことは、人間の行為の結果としてではなく、当然そこに存在する「もの」として認識していることのようです。逆に言えば我々は、論文を書くことによって、物になってしまう可能性があるのです。
(2006年10月1日・2日初稿のものを2008年6月28日・2010年6月9日若干修正)
(参考文献:中山元『思考の用語辞典』筑摩書房、2000年)
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研究をよりよく進めるには(3)―文献史料の読み方

2010年06月06日 23時55分55秒 | 研究をよりよく進めるには

 うーん…いいことがおこれば、嫌なこともおこる。そういう風に世の中はできているのだな。


文献史料の読み方

1.史料の文章そのものを理解する。
(1) 史料の著者は、何を問題としているかを明確にする。
(2) 史料の著者は、その問題に対する自分の意見を、読者に対して、どのように説得しようとしているか、を明確にする。
(3) 史料の著者の意見を、自分の知識・経験と対照させて、共通点や相違点を明確にする。
    ※ (3)はとばしてもよい。

2.史料の文章の意味を理解する。
(1) 概念史のレベルで意味を理解する。
・ その史料上における重要な概念を、史料上において実際に用いられている意味を明確にする。
・ その史料上における重要な概念がいくつかある場合は、史料上においてどのような関係にあるかを明確にする。
・ その史料上における重要な概念の、当時の意味と当時の意味に至るまでの意味の変化を明確にする。
・ その史料上における重要な概念の、現在の意味と現在の意味に至るまでの意味の変化を明確にする。
・ 史料上に用いられている意味と、当時の意味・現在の意味の違いを明確にする。
 ※ 外国の史料ならば、日本における意味(同時代および現在)との違いも、可能ならば明確にしたい。
(2) 研究史のレベルで意味を理解する。
 ※ 誰がその史料を書いたのか、ということが直接の執筆背景を明確にするポイント!
・ その史料が書かれた同時代の思想的背景(思想・学説等)を明確にする。
  → その史料の内容と、思想的背景を対照させて、問題関心・方法・内容などにおける関係性を明確にする。
・ その史料が書かれた同時代の社会的背景(制度・経済・文化等)を明確にする。
  → その史料の内容と、社会的背景を対照させて、問題関心・方法・内容などにおける関係性を明確にする。

3.史料そのものの意味を理解する。
(1) 史料の筆者は、その史料を書くことによって何を考えようとしたのか明確にする(思想として)。
(2) 史料の筆者は、その史料を書くことによって何をしようとしたのか明確にする(行動として)。

    (2006年4月13日稿)
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研究をよりよく進めるには(2)―研究会の組織と利用

2010年06月04日 23時49分19秒 | 研究をよりよく進めるには

 ふぅー、ようやく一週間が終わりましたね。崩れ気味の精神のバランスを保ちながら、それぞれお互いにがんばりましょう。
 さて、今日はまたも旧HPテキストの補完。今ではちょっと変な表現がありますが、とりあえずテキストに手を入れない方針をとり、当時のままにしています(「我々院生」とか)。落ち着かない今の私には、たいしたことは書けません(笑)。なお、本文中の大日本教育会研究組合について詳しくはこちら


研究会の利用

(1) ある研究会の目的
 集団を効果的に維持するにはある一定の目的・方向性が必要です。平成17年1月から平成18年2月まで、一年間私が中心となって運営した教育史研究会(広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会)の「申合」を例にとって挙げてみましょう。
教育史研究会申合
   第一:本会は、会名を広島大学教育学研究科教育学教室内 教育史研究会とする。
   第二:本会の目的は次の通り。
    (1) 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
    (2) 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。
   第三:本会には、本会の目的に賛同する者は、いかなる者でも参加することができる。
   第四:本会は、隔週一回30分から90分程度会合を開き、教育史研究に関する意見を交換する。
   第五:本会に幹事若干名を置き、事務を処理する。
 同教育史研究会の目的は「申合」第二項に定めました。すなわち次の通り。

    <広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会の目的>
      1 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
      2 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。

 同研究会の目的は、あえて説明しなくてもよいと考えます。申合にある目的を参加者個々人が自由に解釈し、様々な形で教育史研究会を利用してもらえればそれでよいと思うためです。また、ある解釈を示すことで、その方向に囚われてしまうことを恐れます。ただ、これらの配慮が参加者(もしくは参加を考えている人々)に対して混乱を与えるとしたら、それは私の本意ではありません。
 ということで、参考までに、教育史研究会の目的理解とその意義について私個人の考えを述べたのが以下のものです。なお、以下の主張は、私個人の経験に則って構成した勝手な主張であることはお断りしておきます。

(2) 研究会で向上させられる教育史研究の能力
 上記の研究会で向上させることのできる「教育史研究の能力」の中で最も重要なものは、「論文の読解力」だと思います。最も重要だと考えるのは、論文を読むことは参加者全員が共通に行う作業だからです。当該論文を読みとるには、次のような論文構造に関する諸点を明確にする必要があります。

 <論文を読みとるために理解が必要な注意点>
    1 何を論じ、なぜ論じているのか。(課題設定)
    2 何をどのように論じているのか。(論文構成・展開)
    3 結果として何が言えるのか、結論はどういう意義があるのか。(結論)

そして、上記の論文構造に関する諸点の妥当性を問うには、次の諸点についての知識理解が必要です。

 <論文の妥当性を問うために理解が必要な注意点>
    1 現実問題や先行研究では、何が問題となっているのか、なぜ問題なのか。
    2 先行研究では、何が明らかにされているのか。
    3 先行研究を通して、何が課題として残されているのか。

 これら諸点についてどれだけ理解できるかが、「論文の読解力」の程度を計る指標になろうと思います。また、これら諸点は自らが論文を書く際に注意すべき点と重なるのであり、「教育史研究の能力」として基礎的な能力であると思われます。能力向上の方法として繰り返しが有効であることを考えれば、教育史研究者にとって教育史研究会のテキスト読解は基礎的能力の形成にとって有意義な機会となります。また、レジュメ作成は、論文を意識的に分析し上記の諸点を明確にする作業であり、自覚的に能力形成を行える有意義な機会となります。
 ただし、以上のようなテキスト読解は一人でもできます。では、なぜ多人数が集まって、研究会を組織する必要があるのでしょうか。私が研究している大日本教育会では、明治26(1893)年12月に研究組合という組織的研究機関を設置しました。研究組合設置の意義には、「偏見固陋の危険性の排除」と「研究資料の交換」という意義が見いだされていました。私が考える本研究会の組織の意義も大きくはここにあり、まとめると次のようになります。

 <研究会の会合によって得られるもの>
    1 自分にはなかった発想・意見・知識を確認すること。
    2 自分の誤解を確認すること。

 自分のものとは違う発想等は、自分のものとは違う知識・経験から生み出されることが多いのではないか、と私は思います。また、自分の誤解を確認することは、次なる成長の動機となりうるのではないか、とも思います。だからこそ、多人数で研究会を組織する意味があるのであり、異なる意見・知識を極端に追究すれば「自身の専門領域・地域を超えた知的交流」は重要だと思うのです。
 以上、討議の意義など述べ切れていない部分もありますが、教育史研究会の目的と意義の私個人の見解を述べてきました。私は、この研究会では、参加者個々人が論文の読解力を向上させ、異なる発想・意見・知識を得ることができればよいと思っています。そして、多少なりともみなさんの論文作成能力の向上や新たな視点の形成に、教育史研究会が資することができれば、なおよいと思います。教育史研究の実体は個々の研究で成り立っています。教育史研究のさらなる進歩は一人の研究者によって達成されるものではありません。研究者個々人が優れた論文を書くことで研究は進歩するのであり、研究者のタマゴである我々院生の研究能力の向上は教育史研究の進歩と無関係ではありません。教育史研究会は、参加者一人一人の能力向上・研究の進展を目指すものだと思います。ここに、研究会の発起・参加の意義があるのだと思っております。

(広島大学教育学研究科教育学教室内教育史研究会第四回例会報告書(2005.2.26発行)を訂正し、2006.4.13作成)
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研究をよりよく進めるには(1)―教育史研究論文を書くまでVer 1.2

2010年06月03日 23時55分55秒 | 研究をよりよく進めるには

 旧HPには、純邦楽以外にも研究関係のテキストを掲載していました。そのことを、さっきまで忘れていました(笑)。HP休止(2009年5月)まで公開していたものについて、気が向いたときに(笑)貼っていこうと思います。今では少し手直ししたほうがよいかもしれませんが、手直しをし始めるとキリがないような気がしますので微修正にとどめようと思います。
 以下は、記号と最後の( )内の文章を修正しましたが、本文内容は一切変更していません。内容は大学院生(学部生)向けだと思います。
 現職教員などにも、学術論文を書くときは参考になるのではないかと思います。ただし、教育研究(授業研究・教材研究・校内外研修など)の場合は、少しニュアンスが変わってきます。そちらは、また機会があれば別途論じてみたいです。


論文を書くまで Ver 1.2 (2005年4月改訂)

1.テーマ(話題)を設定する。
(1) 教育に関する通史を、疑問の目で批判的に読む。
(2) 「これはホント?」「ここ、もう少しわからないか?」と思うところを見つける。
(3) 自分の関心・現代の問題などへの接点を考えながら、テーマを設定する。
  <日本東洋教育史研究室所属生に求められるテーマとは?>
   ☆ 「教育の特質」「日本の特質」などにせまるテーマ。
     (例:日本教育の画一性、理論と実践の関係、とか)

2.先行研究(先達の研究成果)を調査する。
(1) 1で設定したテーマについて、先行研究を調べる。(GeNii 学術コンテンツ・ポータルなどの利用)
(2) 先行研究の概略をまとめ、自分なりのコメントをつける。(特研で発表)
(3) 先行研究の参考文献などから、次に読む論文を見つける。
(4) (1)~(3)の繰り返し。場合によっては1に戻る。

3.史資料を調査する。(2と並行)
(1) 1で設定したテーマに関する史料を、何でもよいので集めまくる。
(2) 史資料を読み、内容別・年代順などに整理する。
(3) 史資料を時系列に並べ、年表を作る。

4. 論文を書く準備をする。
(1) 先行研究の成果と史資料調査の成果を見比べながら、自分の研究との相違点を見いだす。
(2) 論文題目を設定し、研究の目的(何を論じるか)をハッキリさせる。
(3) 研究の目的を達成する方法(論旨)をハッキリさせる。(「など」は厳禁)
(4) 章→節(→段落)の順に書くことを明らかにし、論文構成を作る。

5.論文を書く。
(1) 4で設定した論文構成に沿って、書いていく。
(2) 書き終わったら、読む側の立場に立って、もう一度読み直し、書き直す。
(3) 特研で意見を聞き、必要があれば書き直す。
(4) 完成。先生に見せることを忘れずに!


 <なぜテーマを設定するのか?>
☆ テーマを設定するのは、自分の問題意識を明確にするため。
  問題意識とは、現実の把握を通して自分が問題であると認識する考え。
  「なぜ、自分が、研究活動を行うのか」という問いに対して答えられるようにすること。
<なぜ先行研究を調査するのか?>
☆ 設定したテーマについて、どこまで研究の蓄積がなされているか確認するため。
☆ 先行研究と自分の研究の相違点を明確にするため。(一般に「研究の位置づけ」と呼ばれる)
  先達が行った研究と同じ内容を明らかにしても、その研究は単なる「自分のための勉強」である。
  先達の研究と自分の研究の相違点に、「社会的意味」があればある程、その研究の意義は高まる。
<なぜ史資料が必要なのか?>
☆ 自分の研究・論理の根拠を示し、妥当性を付与もしくは高めるため。
  史資料とは、基本的には客観的事実を表すものである。
<なぜ論文構成を前もって作成するのか?>
☆ 論理展開の順序を示し、証明の方法を明確にし、研究を効果的に進めるため。
  章・節構成は、論文の最も単純な構造(論理展開をも含む)を示す、「見取り図」である。
  そのため、一読してその論文の基本的な構造が理解できるようになっている必要がある。
  自分でも理解しがたい論文構成ならば、他人に理解できる論文には絶対にならないので、再考すべし。
☆ 論文構成は、人が理解する順序を示すものである。
  人は、順に必要な情報を得、それぞれ妥当であると判断できなければ物事を理解できない。
<なぜ自分で完成を認めた論文を、他人に見せるのか?>
☆ 論文の論理展開や史資料解釈などについて、妥当性を高めるため。
  論文は「自分のための勉強」ではないので、他人が読んで始めて意味のあるものとなる。
  他人が理解できるかどうかが、最低限の論文の価値である。
☆ 自分の指導教員は、自分を指導する権利と義務を有し、自分とは違う思考・豊富な知識を有する者。
  指導教員には、敬意をもって接し、より正確で意義ある指導を受けましょう。
<論文の注意点>
「根拠のない文章」「結論(考察)のない文章」「論理がつながっていない文章」「やたら長い文章」「言いたいことがわからない文章」「みんなわかっている内容しかない文章」「装飾が多い文章」「自分だけわかっている文章」 に注意!!

 ※ 論文執筆は自己満足で終わってはいけません。
  人に見せるためのもの、ということを肝に銘じましょう!!

 (恩師のご指導を参考にしながら、自分の経験を加えて作成)

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