今日は、旧HPテキストの補完。久しぶりに目を通して思ったこと。…執筆当時のうめき声が聞こえてくるようだ。
差異による論文の価値
(1) 概念説明の必要性
君の論文には概念説明が足りないと、言われたことがあります。概念というのは、事物の本質的特徴とその連関のことで、事物を認識するための枠のようなものです。人間は、概念によって事物を認識します。ですから、論文の執筆者は、研究対象を認識するために適切な内容で概念を規定しないと、対象をまちがった形で認識する危険があります。その危険は、論文の読者にも及びますから、自分でわかっているだけでは十分ではなく、論文にきっちり説明しておかなくてはなりません。また、概念は歴史的・文化的な性格を帯びたものであり、その中に様々な特殊な意味や問題が含まれていることがあるので、使用する概念がどんな文脈においてどんな意味で使われてきたか、ということも確認しておく必要があります。例えば、大日本教育会を研究しようとすれば、「大日本教育会」という概念が今までどのように使われてきたか確認する必要性がある、ということです。これは、先行研究の整理という作業につながるものです。
(2) 論文の「価値」の所在
自分の論文にどんな価値があるのか、わからなくなったことがあります。「価値」ある論文ってどういうものなんでしょうか。
価値という概念には、事物そのものの本源的な力という意味と、他の人々に妥当するという二重の意味があります。マルクス『資本論』では、この二つの意味が、それぞれ「使用価値」と「交換価値」とに区別されて使われています。使用価値とはものの持ち主にとって有用な価値のことであり、交換価値とは他のものとの関係から現れる相対的な価値のことです。商品は生産者にとっては交換価値を持ちますが、購買者にとっては使用価値を持たなくてはなりません。だから、商品が存在するには、使用価値と交換価値とが常に相互交換できる必要があるのです。
論文を商品とをそのまま重ねることはできませんが、自他両方から必要とされるか否かという意味では共通するものがあると思います。私にとって価値がある大日本教育会の研究は、読者にとっても価値がなくては存在できません。私の価値と読者の価値は、交換が可能なように共通性・関連性を持ってないといけないのでしょう。なお、このとき、読者とは誰か、ということが問題になります。読者が一般人か学者か、それも教育学者か教育史研究者か日本教育史研究者かで、何を価値あるものとするかという価値観がかなり違うので、誰を読者と想定するかによって研究の内容が変わらざるをえないからです。私の博論は、どうやら教育学者を想定しないといけないようです。日本教育史研究者として育てられてきた私は、教育学者たちと交換できる価値を持つ研究論文を書けるのでしょうか。
価値は、個々の要素の統一体である体系の中で見いだせるという考えもあります。ソシュールは、価値を言葉に基づいて考えています。すなわち、言葉は、他の言葉との差異の関係だけにおいて意味を持つ、すなわち価値が見いだせるとしました。価値は、言葉の本源的な力の中にではなく、ある一定の言語体系の中において発生するものと考えたのです。一つの体系は、個々の要素が集まって成立します。この体系は要素なしには存在しないのですが、逆に個々の要素は体系が存在しなければ価値を持たないのです。価値は、その本源的な力という側面と他の個体との差異という側面が統一されたところに見いだすことができるというわけです。論文の価値は、自らの論文と他の論文とで構成された一つの体系のなかで、自らの論文と他の論文の差異から見いだすものなのです。
概念説明をしなくては研究が正当なのか間違っているのかもわからず、論文の本源的な力が何か認識できません。また、論文の価値は、読者との対応関係と先行研究との差異からしか見いだせません。つまり、概念は自分で何となくわかっているだけではダメで、しっかりその意味と概念同士の関係を論文に書かないといけないわけです。そして、学者が読む学会誌や紀要における価値ある論文とは、過去の学者たちの業績である先行研究の整理によって、自らの論文と他の論文との差異を明確にすることができている論文です。
(3) 論文の「差異」を見いだす際の注意点
論文の価値は、先行研究との「差異」にあります。差異とは、個体そのものの価値の肯定に基づいて成立するもので、他の個体との関係の上で認識されるものです。
では、論文の差異を見いだす視点は、どこに成り立つのでしょうか。普通、論文の差異を見いだす際、文章化された内容のみから差異を見いだします。この方法そのものはいたしかたないと思いますが、そこに問題がひそんでいることも、自覚する必要があるのかもしれませせん。
論文は、ある問題に対する書き手による思考の結果を、文章(言葉)で表現したものです。人間は、文章(言葉)で問題への思考過程や結果を表現するとき、かならず「疎外」という過程を経ます。疎外とは、自己を他のものにすることであり、自己を外部に表現することです。表現の際に用いられる文章(言葉)は、そもそも他人がつくったものであり、文章(言葉)を用いるには一度自分を失う必要があります。私の論文は、自分の思考の結果を自己でない他のものにして表現したものなのです。先行研究の場合も同じです。
先行研究との差異は、論文を人間の行為として認識した場合、次のようなことも考える必要が出てきます。私の論文とAさんの論文は、書かれた環境が違い、問題を考察し執筆する際に体験する内容も違います(現在)。そして、その問題を見いだし執筆に至る私とAさんの経緯(過去)、問題を考察し執筆した後の私とAさんの変化(未来)も違います。論文の差異は、書き手の状況(過去・現在・未来)において見いだすこともできるのです。
論文の差異を文章化された内容のみから見いだすことは、人間の行為の結果としてではなく、当然そこに存在する「もの」として認識していることのようです。逆に言えば我々は、論文を書くことによって、物になってしまう可能性があるのです。
(2006年10月1日・2日初稿のものを2008年6月28日・2010年6月9日若干修正)
(参考文献:中山元『思考の用語辞典』筑摩書房、2000年)