教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

道徳授業の教材研究について

2016年11月27日 13時09分30秒 | 教育研究メモ

 毎日いろんなことが滑り込みセーフ?で、常に「間に合わない…」というプレッシャーと戦っております。
 さて、授業の小テストを作っていて、解説がそこそこまとまった内容になったので、ちょっとメモ。

 道徳授業の教材研究に関して。

 道徳の読み物教材を研究する際には、主人公の立場に立ってストーリーを追いかけることも必要ですが、むしろ重要なのはそれとは別の視点です。すなわち、主人公以外の登場人物の言動や立場、および登場人物の置かれた状況にも着目する、複眼的な視点です。道徳的判断は、判断する人がおかれた状況や他者との関係のなかで下される。道徳教育が道徳的判断力を育てたり、道徳的価値の理解を深めたりするのであれば、なぜこのような判断を下したか、別の立場から見ればどのような解釈があり得るのか、といった問題を考える必要があります。そのためには、複眼的視点による教材解釈が、道徳の教材研究の際には不可欠です。
 また、道徳の教材研究の際には、単純な利己主義非難や利他主義・自己犠牲の賞賛に偏らないように注意する必要があります(利己主義非難や利他主義・自己犠牲賞賛の教材は現在でもあまたあります)。人間は、自分のために生きると同時に、他人のためにも生きることが求められる。自分だけのために生きて他人を蹴落とす生き方は自分にとっても周囲や社会のためにもよくないし、自分をまったく殺して他人のために生きることは常人にはできることではありません。私は、普通の人間が社会の秩序を維持・改善しながら生きていくための道徳を考えるのが、道徳の授業であると考えます。そうであるとすれば、道徳の授業は、利己主義と利他主義(自己犠牲)との良いところ・問題点をしっかり考えた上で、自分の生き方を見直す時間である必要があります。道徳の教材研究は、そのための準備なのです。

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資料提示器具としてのタブレット端末についてメモ

2016年11月09日 20時26分06秒 | 教育研究メモ

 私の所属大学では全学生にiPadの配布を行って、積極的に授業で使用しています。私はずっと紙資料・板書派でしたが、時代の波には逆らえず、積極的に使用して授業するようになりました。小中高校でもどんどんタブレット端末の導入が進んでおり、教員養成の教育内容としても重要性を増しています。教職課程担当教員がタブレット端末を使えないというのは、笑えない時代になってきました。

 さて、このタブレット端末の使い勝手について思うことがあったので、少しメモしておきます。というのは、授業資料が複数ある場合の提示器具として使うのは注意が必要だということ。

 現在のiPadは、画面に同時に複数窓を表示することができないため、いちいち切り替えなければなりません。つまり、iPadひとつでは同時に違う資料を見比べることができないということです(最近少しできるようになりましたが、画面が小さくて読むのは難しいです)。紙資料の場合、机に広げられる限りで複数の資料を広げて見比べることができます。iPadだけではこれができない。複数の資料から読み取って内容をまとめる、という学習法がやりにくいのです。iPadで資料を提示するのは便利ですが、やはり印刷した紙資料を全廃することはできなさそうです(iPadが複数あれば違うかもしれませんが…)。

 学生全員が見ることができるスクリーン・電子黒板などを併用すれば、複数資料の読み取り学習の可能性が少しあります。ただ、提示できる範囲は画面や文字の大きさなどに制限されるので、提示できる情報量は多くありません。教授・学習上、やりにくいことには変わりないです。

 紙の節約という別次元の要請も意識しながら、配布資料をデータ化してiPadによる提示だけで授業できないか模索してみましたが、やっぱりそういう風な使い方が得意な機器ではなさそうですね。今は紙資料とiPadの併用に落ち着きました。小中高校でも、電子教科書の導入がだんだん現実的になってきていますが、これだけで何とか出来ると思わないことが大事ですね。

 もちろんタブレット端末には別のところにいいところがあります。やはりネット検索機能や各種アプリを使えることは魅力的。いまや調べ学習には必須。そのへんでさらなる活用を模索してみたいと思います。

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ベテランの域にさしかかってきたからこそ?

2016年11月03日 01時02分31秒 | Weblog

 ご心配・ご迷惑おかけしました。やっと吹っ切れました。

 思い切って改善してみたからこそ、従来から考え、実践してきたことの良さに気づき、かつ本当に改善すべきところが見えてきました。直接改善に取り組んだ2回の授業も、うち1回はずっと改善の必要を感じながら決定打が打てなかった授業でした。思い切り改善してみて、改善前よりずっといい授業になった手応えがあります。やった甲斐は間違いなくありました。

 今後の授業の方向性が明確に見えました。必要なのは根本的な改革ではなく、教育内容の精選と時間配分の再検討。今陥っているのは、教えたいことが増えすぎてあふれかえっている状態だったようです。これでは足りない、もっとおもしろいものを取り上げなければ、と教育内容を常に見直し、教材研究を繰り返していたために発生した「違和感」。問題は内容量だったので、足りないと思って「改善」すればするほどドツボにはまっていったのも道理です。教育内容の精選が必要なのか…そうであれば、そろそろ「教育原理」も、「道徳教育」も、テキストをまとめ直し始めなきゃいけないなあ。
 まだ駆け出しの時には考えられなかった状態です。大学で初めて教壇に立ってから今年で10年目。ベテランの域にさしかかってきたからこその悩みなのかも。そう思うと、なんだか「やってやるぞ…」という気持ちになってきます。

 自分の満足感のためにではなく、学生の学びを少しでも前に進めるために、頑張ります。

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