教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

[1893~96]大日本教育会の教育研究団体化

2011年01月31日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 寒いです。日が出ている日中に、マイナスの気温なんて…

 さて、さらに旧HPテキストの補完です。旧HPの連載「大日本教育会・帝国教育会とは」は、以下のテキストを最後に無期限休止になっていました。その理由は、研究が停滞していたからです。諸事情により、このあたりの時期に関する研究方針や解釈がなかなか定まらず、この続きを書くことができませんでした。その後、研究をまとめた成果が、「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の12番です。HPに書いてから論文にまとめるまで、3年かかったわけですね。前回と同様、今書くとかなり違った書き方ができそうです。
 ちなみに、下の方に貼り付けている図4の大日本教育会事務所には、向かって左の門札に「大日本教育会書籍館」とあります。これは、大日本教育会が、明治20(1887)年3月21日に開館した書籍館です。一説によると、日本初の民間図書館らしいのですが、本当でしょうかね。同書籍館には、ボアソナード文庫などの貴重コレクションも併置されていました。


 3,大日本教育会の受難~政治運動から学術研究へ~
 
[明治26(1893)年~29(1896)年]

 ようやく安定してきた大日本教育会でしたが、再び試練が待ちかまえていました。明治26(1893)年10月の文部省訓令第十一号訓令(いわゆる「箝口訓令」)の発令です。この訓令の全文は、次のような内容でした。

 「教育は政論の外に立つべき者たるに因り、学校教員たる者は明治二十二年十月九日文部省訓令・明治二十五年十二月十五日内訓の旨を注意することに怠らざるべし。教育会の名称に於ける団体にして、純粋なる教育事項の範囲の外に出て教育上又は其他の行政に渉り持論を論議し、政事上の新聞雑誌を発行するは一種の政論を為す者と認めざるを得ず。因ては其の団体は、法律上の手続を履み、相当なる政論の自由あると否とに拘らず、学校教員たる者の職務上の義務は此等団体の会員たるを許さざる者とす」([下線・]句読点・濁点は白石が付記)

つまり、政論を為す教育会には学校教員は入会・参加を禁止する、という内容でした。そもそも学校教員の政論禁止を指示する訓令は、これが初めてではありませんが、第十一号訓令は政論を為す団体として「教育会」を名指ししたことに独自性を持っていました。この訓令によって、大日本教育会を初め、各地の地方教育会にも影響が及び、大幅に会員数を減らす結果を引き起こしました。
 第十一号訓令発令の背景には、明治25年来教育界で盛り上がっていた小学校教育費国庫補助運動の過激化があったようです。この運動の中心は、先述の全国教育者大集会の過程で結成された国家教育社という団体が実質的に担っていました。大日本教育会はこの運動に対して最初は不干渉の姿勢を取っていましたが、運動の加熱に及ぶと学術研究の側から参加するようになりました。時の文部大臣・井上毅も教育費国庫補助は重要だと認識しており、7月の第十回総集会席上で国庫補助の必要について言及しました。しかし、当時の日本政府は軍事力整備を最優先していましたから、教育にまわすお金はあるはずもなく、井上文相も国庫補助について消極的になってしまいました。そしてついに明治26年9月9日、創立第十周年記念会席上にて、役員たちによる井上文相の批判を含んだ演説に発展しました。また、同日の評議員会にて、従来の政論に及ぶことができない出版法準拠の機関誌『大日本教育会雑誌』を、政論に及ぶことのできる新聞紙条例準拠にすることが決定しました。さらにその後、辻新次会長と伊沢修二国家教育社長が、伊藤博文の政敵であった大隈重信にそろって面会したという風聞が現れます(『教育時論』によると、三者同時面会は事実だったようです)。10月18日、大日本教育会名誉会員であった伊藤博文以下当時の内閣関係者8名が脱会、25日には大日本教育会総裁を務めていた有栖川宮熾仁親王が総裁職辞退という、大変な事態が起きてしまいました。そして、愛知県で開かれた国家教育社第三回総集会の第一日目に合わせて、文部省訓令第十一号訓令が発令されてしまったのです。大日本教育会は訓令発令直後に評議員会を開き、機関誌の新聞紙条例準拠の件を廃案、政論に及ぶ研究調査を担当していた委員会を廃止、「教育上の学術会」であることを確認しました。
 大日本教育会会員は、大部分が学校教員であり教育行政担当者も多く、この対応はやむをえない対応でしたが、運動から撤退したことに対して教育雑誌や新聞は辛辣な批判を始めます。教育雑誌や新聞は第十一号訓令とは関係ないのですから、ある意味むごいことですが、大日本教育会批判は当時における教育費国庫補助運動そのものの重要性を示すものともいえましょう。さらに、大日本教育会の対応は早かったのですが、大勢の退会者を出したと同時に幹部クラスの人物の退会に及んでしまいました。ある地方では属官に対して教育会に関わらないように指示したといいます。大日本教育会は、当初は無干渉であった政治運動に大々的に参加したために、世間的にも組織的にも大打撃を受けてしまったのです。
 第十一号訓令後の大日本教育会の組織改革は、極めて迅速に、そして徹底されました[研究団体化が迅速に進められたのは、訓令第十一号だけがこの時期における組織改革の原因ではなかったからだと思われます。『教育学研究』掲載の拙稿12番を参照のこと]。嘉納治五郎や能勢栄などの教育学研究の充実を望む人々が役員を占め、組合という研究調査機関を設置しました。結果、計7つの組合(単級教授法研究組合・国語科研究組合・初等教育調査組合・説辞法研究組合・漢文科研究組合・児童研究組合・理科教授研究組合)が会員の手で創設され、さまざまな学術的研究調査を行いました。明治27年6月の第十一回総集会席上で起きた教育費国庫補助に関する採決(提案代表者は有力教育雑誌のリーダー)に際しても未採択を貫き通し、「政論に及ばず学術研究を行う」という方針は貫かれました。この判断についても雑誌新聞上では激しく非難されましたが、大日本教育会の方針は揺るぎませんでした。そして次第に、組合による研究調査が成果を上げ始めました。各地の地方教育会の機関誌は組合の研究調査を転載するようになり、学術研究の方針はうまく進んでいるように見受けられました。

図4:明治26年頃の大日本教育会事務所正面
 東京市神田区一橋通町にあった大日本教育会事務所。出典は『大日本教育会雑誌』132号所載の画像。元々は宮内省から借用していた土地・事務所であった。下賜を請願し、明治25年2月5日に許されて大日本教育会の持ち物となった。画像の建物は明治26年春に改築したもの。正面につるされた表札を見ると、さまざまな団体に利用されていたことがわかる。この建物の中でさまざまな事務が行われ、組合の会合もここで行われ、建物内の講堂ではさまざまな学説が唱えられた。帝国教育会と改称した後も、しばらくこのままであった。しかし、まさか、この土地と建物が国家教育社とのトラブルの一因となるとは、下賜直後は誰も考えなかっただろう。

  (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)

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[1883~92]大日本教育会の結成と模索

2011年01月29日 21時04分35秒 | 教育会史研究

 とりあえず、本日、大仕事終了。今日明日はもう何もしない方がよさそう(疲れがピークに到達)。2月末にもう一つ大仕事、3月中旬には論文〆切。来週からがんばることにする。

 さて、引き続いて、旧HPテキストの補完です。明治16年から25年の大日本教育会について述べています。「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の5番・9番・11番は、このあたりの時期を取り扱っています。近著の『続・近代日本教育会史研究』(梶山雅史編、学術出版会、2010年)に掲載した論文「全国教育者大集会の開催背景―一八八〇年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」も、このあたりの話です。
 このテキストを書いて5年。あれから研究がかなり進んだので、今書けばだいぶ違ったことが書けるような気がします。


2,日本初の全国的教育団体~大日本教育会の四苦八苦~
 明治16(1883)年~明治25(1892)年

 大日本教育会は、明治16年9月9日の常集会で文部大書記官・辻新次(後に文部次官)を会長に選出しました。ただ、元東京教育学会長であった西村貞の役員就任辞退を発端として、辻は会長就任を辞退して副会長となり、しばらく会長不在の状態にありました。明治17(1884)年に文部少輔・九鬼隆一を会長に選出、初代会長となりました。しかし、九鬼はすぐに公務によってアメリカに滞在することになり、再び会長不在の状態が続きます(代わりに辻副会長が会長事務を取り扱いました)。明治19(1886)年4月、再び辻新次が会長に選出されるに至り、辻は明治29(1896)年10月まで会長を務め続けました(途中辞任して空白時期がありましたが)。
 上記のように結成当時の大日本教育会は組織的に不安定でしたし、活動自体も軌道に乗ったとはいえませんでした。役員になっても給料が出るわけではなく(書記は有給)、全くのボランティアでしたので、がんばっていたのは一部の人だけ。役員になっても公務の都合で出席できなかったり、地方転任などで東京から離れたりと、あまり安定した運営ができません。一般会員も、お金を出すならまだよいほうで、多くの会費未納者まで現れました。退会・入会を繰り返す人も、中にはいたりします。また、毎年一回総集会を開いていましたが、会員数3,000名以上を数えながら一般参加者を入れて数百名程度の参加者数でした。さらに、毎年のように改正される大日本教育会規則、機関・事業の小刻みな改廃などを見ても、運営に苦労したことがわかります。人手も足りない、お金も足りない、しかも日本には前例がない、という八方ふさがり状態の中、結成当時の大日本教育会は四苦八苦しておりました。日本初の全国的な私立教育団体でしたから、運営する側(役員)も支える側(一般会員)も、すべてが手探り状態で要領を得なかったと言えましょう。
 しかし、このような状況の中でも、演説会開催(結成~)、『大日本教育会雑誌』発行(明治16年11月~)、教育関係書の出版(明治18年6月~)、討議会開催(明治19年4月~)、継続的な学術講義の開催(明治19年9月~)、附属書籍館(現教育図書館の前身)の設立(明治20年3月開館~)などを実施していきました。明治21(1888)年以降は研究機関を設置して文部省から諮問を受けるほどになり、明治23(1890)年ごろまでに基礎的な組織体制が確立してきました。明治23年5月には全国教育者大集会を主催し、日本全国から800名以上の教育関係者を集めました。さらに、翌明治24(1891)年には現在の日本連合教育会の前身ともいうべき全国教育連合会(翌年には全国連合教育会と改称)を開催し、全国各地の府県教育会から代表者を集めて教育問題を審議しました。また、委員会を組織して著名・有力な教員などに各種問題を研究調査させ、明治25(1892)年には、現在でも資料的価値の高い『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調報告書』を発行しました。さらに、明治24年から、教育に功労のあった人に対する顕彰活動を開始しました。

図3:大日本教育会・帝国教育会会章
 明治22年7月20日の第六回総集会で初めて用いた。色は『大日本教育会雑誌』89号624頁の記述に従って白石が彩色。中央の曲玉の周りにある輻射状のものは、三つ又のものが光線、一つ又のものが剣を擬したもの。

 (以上、2005年4月頃に執筆)

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[1879~83]大日本教育会の前史と結成―東京教育会・東京教育協会・東京教育学会

2011年01月27日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 今日も大変でした。そして、明日の夕方からあさってにかけて、今年最初の山場です。

 再び、旧HPのテキストの貼り付け。大日本教育会の前史と結成までを書いたものです。見れば見るほど書き直したくなりますが、手を加え始めるとキリがないのでそのままにします。内容的には、当時にしては比較的まとまっている方かな。
 ちなみに前史・結成期に活躍していた人の一部は、私の別ブログ「大日本教育会・帝国教育会の群像」を参照のこと。現在作成している範囲では、東京府会員ファイル1、5~7、9~16がその人々に当たります。…「群像」も更新したい。時間がほしい…


 1,東京から全国へ ~東京教育会・東京教育協会・東京教育学会~
 明治12(1879)年~明治16(1883)年

 明治のはじめごろ、学校制度による公教育が開始されるに至り、文部省や各地方官たちは学校教育の普及・改良を求めて数々の試行錯誤を繰り返しました。この試行錯誤は民衆においても繰り返され、多くの人々が教育の普及・改良を目ざしました。記録に残っているのは公立の教育会議が多いですが、当然、教員自身が自発的に組織した会議も存在しました。次第に継続的に会合するものも現れ、組織体として活動を始めるものも現れました。その活動は、当時隆盛を誇っていた自由民権運動の影響を強く受けており、演説や討論によって新しい教育のあり方を模索しました。
 明治12(1879)年1月、東京府日本橋区本町にあった常磐小学にて、教育に関する演説討論会が開催されました。これは、東京府師範学校(現東京学芸大学の前身の一つ)の教員四名が連名で開催したものでした。その内の一人・津田清長を会主として、この演説討論会は開かれ、仮規則が配布されました。これが、大日本教育会・帝国教育会[につながる前身]の最も初めに現れた組織体でした。この会は、同年4月に東京教育会と改称し、府立第一中学や上野公園内にあった教育博物館を会場として演説討論会を開いていました。明治13(1880)年になると小学校教員など72名が会員となり、東京府学務課幹部の田邊貞吉を主幹(会長)とし、東京府内の優秀な教員が役員となって活動しました。この年には、東京府学務課や府師範学校と連携して活動を活発化し、小学試験法改正や小学教則(カリキュラム)改正について諮問などを受け、教育現場の判断をより重視する内容の法令制定に関与しました。また、8月には懇親会を主催し、東京府の学事関係者と懇親を結びんでいます。しかし、明治14(1881)年以降は次第に活動を衰退させ、明治15 (1882)年には機関誌『東京教育会雑誌』を休刊してしまいました。
 東京教育会が活動していた同時期の東京府には、東京教育協会という団体が活動していました。これは、学習院(華族子弟対象の学校)の教員などが中心になって明治13年8月(明治12年とも)[に]結成した団体でした。明治14年ごろ中心になって活動していた人物には、能勢栄・城谷謙・財満久純(いずれも学習院教員)がいました。12月には、文部省が地方官を召集したのを期に、東京教育協会が仲介役となって懇親会を開き、大勢の地方官と東京教育協会会員が交流しました。その中には文部省少書記官の吉村某の姿もありました。勢力を衰退させつつあった東京教育会と比べて、東京教育協会は勢いにのりつつありました。そのような状況の中の明治15年2・3月ごろ、両会合併の話が持ち上がったのです。両会の中心人物は、東京師範学校(東京高等師範学校、現筑波大学の前身の一部)の卒業生であり、先輩後輩関係の人々が多くいました。そのため、それほど抵抗はなかったのでしょう。明治15年5月、両会が合併し、東京教育学会が成立しました。
 東京教育学会は、文部省所管体操伝習所主幹の西村貞を会長として結成されました。同会は、1討論会による教育実務の審査・2演説会による学説や実験成果の交換・3国内外教育の調査・4雑誌刊行・5各地の教育会や教育者との交流を行いました。同会においてすでに、後の大日本教育会における活動の基礎を形作ったのです。明治15年12月、文部省主催の学事諮問会を期に教育懇話会を主催し、各地の学事関係者や文部省の幹部官僚たちと交流しました。そして、明治16(1883)年7月、後の大日本教育会・帝国教育会会長となる、文部大書記官の辻新次が入会しました。このころから、東京に限らない、さらに大きな活動範囲を持つ団体へと成長するため、組織改革の動きがあったようです。
 明治16年9月9日、東京教育学会常集会にて、大日本教育会が結成されました。東京教育学会規則の改正、という手続きを踏んでの組織再編でした。これによって、日本初の全国的な私立教育団体が成立したのです。以上のように大日本教育会は、東京府師範学校教員の発起の会より始まり、文部省や地方官と交流を重ねながら結成された団体であったのです。

図2:明治10年代前半の学習院校舎
 出典は『女子学習院五十年史』(凸版印刷、1935年)。学習院は華族子弟子女のための学校。ここで働いていた教員たちが東京教育協会を結成した。毎月の演説討論会などもここで開かれた。また、東京教育学会も集会会場として利用し、大日本教育会でも明治17年1月まで常集会会場として利用していた。

  (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)

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大日本教育会・帝国教育会の系図

2011年01月24日 23時55分55秒 | 教育会史研究

図1:大日本教育会・帝国教育会沿革図
 『帝国教育会五十年史』等を参照して作成。(2005年1月作成)

 

 バリ忙しいです。なんだか100名以上の方が毎日見に来てくださっているようなので、更新したいところなのですが…
 と思っていたら、旧HPのテキストと画像がまだお蔵入りになっていたのを思い出しました。書き直そうと思って、しまってあったのですが、どうもそんな余裕はないようなので、ここに投げ出しておきます。
 私の本当の専門分野は日本教育史でして、とくに明治期の大日本教育会・帝国教育会という団体の研究を中心的なテーマとしてきました。以下の文章と本記事冒頭につけた図は、2005年に作成したものです。駆け出しも駆け出しの頃に作成したものですので、図は中途半端な出来ですが、まあわかりやすい部類かと。日本教育協会と日本連合教育会の成立年だけ元号なのは、私の詰めの甘さを象徴する失敗です(苦笑)。直そうかと思いましたが、成立の月がわかる資料が手元になかったので、そのままにしています。

 ちなみに「教育会」って何?という方は、こちらの記事をご覧ください。→「教育会は現在の教育委員会の前身か?」(2010.3.21記事)


 大日本教育会・帝国教育会とは、戦前日本において活動していた私立の教育団体です。両団体ともに日本教育の普及・改良・上進などを目的として活動しました。両団体は別団体ではなく、前身・後身団体の関係にあります。
 両団体の全体的な沿革を図にしたのが図1(筆者作成[本記事の画像])です。両団体は、明治12(1879)年に東京の小学校で開かれた教育演説討論会(教育演説会とも)を最も最初の前身団体としました。ついで東京教育会と東京教育協会が合併して東京教育学会となり、明治16(1883)年に大日本教育会と改称しました。明治29(1896)年に帝国教育会に改称、その数日後に国家教育社と合併しました。昭和19(1944)年に各地にあった地方教育会を支部として、大日本教育会(ここでは便宜上、後期大日本教育会と称します)となりました。昭和21(1946)年に日本教育会となり、昭和23(1948)年に解散を決定しました。教育会館を始めとした財産は日本教職員組合に引き継がれ、支部となっていた地方教育会はそれぞれの道を歩み始めました。昭和24(1949)年にはいくつかの地方教育会が日本教育協会を結成、昭和27(1952)年には日本連合教育会となりました。現在、財産は日本教職員組合が保有しておりますが、一方では日本連合教育会が大日本教育会・帝国教育会の正統を継ぐと宣言しています。ここでは、この問題について論じることは避け、日本教育会までの沿革と特徴について紹介していきたいと思います。
 両団体の財産は日本教職員組合が引き継ぎましたが、同組合が所蔵している両団体の資料は残念ながら限られています。同組合が所蔵している資料は、現在確認しているところでは、機関誌『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』『日本教育』『教育界』の原本、および旧附属教育図書館所蔵の約千冊の文芸書とのことです。数度の移転、関東大震災による倒壊・火災などによる資料の紛失があったようです。
 それでは次項から、前身団体の成立から日本教育会の解散までの沿革・特徴等を書きつづっていきたいと思います。1項につき一ヶ月を目安に少しずつ連載していきますので、しばらくおつきあい願います。
 なお、日本教職員組合所蔵の資料調査では、日本教職員組合附属教育図書館のスタッフに多大なる協力を得ました。ここに篤く御礼申し上げます。
 (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの。2011年1月25日、明らかな間違いを1点修正)

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目下、山陰の生活を「堪能」しております

2011年01月19日 23時34分35秒 | Weblog

 忙しい時期、ド真ん中です。

 朝一で仕事を始めて、気がつくと暗くなっている日が続いています。しかも、遅くなると、雪やら凍結やらで、無事に帰れなくなりそうなので、遅くまで仕事をしているわけにもいかず、中途半端で帰宅せざるを得ません。

 研究なんて、まったく手をつける余裕はありません。研究の習慣を忘れそうで怖くなってきました。これがずっと続いたら本当にヤバいな、と本気で危機感を感じます。

 そうそう、こちらでは毎日雪が降ります。移動しないでいいなら、雪はキレイで好きなのですが…
 昨日、生まれて初めて、雪で滑って移動できないという体験をしました。住んでいるアパートの駐車場で、わずか1~2メートルが移動できないという… 雪のほとんど降らない地域で三十路まで生まれ育った私には、未知の体験でした。
 ちょうど帰ってきた別室の人が助けてくれたので、何とか駐車場へ入れることはできました。ただ、「このままだと、もしかすると朝出られないかもよ」という助言をいただいたため、一生懸命、周辺の雪かきをしました。日曜日に降った大雪が凍り付いて、スコップでも微動だにしない部分があり、往生しました。いろいろ工夫して1時間ほど掘り進み、何とか道路に出られそうな道をつくりました。帰った頃には、汗びっしょり、腕は上がらず、握力は皆無に… 雪は、降った直後のやわらかいうちに掘るべきだと、教訓を得ました(苦笑)。

 なお、上記のような苦労の結果、今朝は無事、駐車場から出られました。よかったよかった。がんばった甲斐があったなぁ。

 目下、山陰の生活を「堪能」しております。

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雪の山陰、夕暮れ時

2011年01月16日 16時28分48秒 | Weblog

 山陰は大雪です。たまに雷もなっています。雷雨ならぬ雷雪。

 車が雪に埋もれ始めました。明日は1限から授業なのですが、学生は無事来られるのでしょうか。

 私もどうやって行こうかなぁ。公共交通機関を使うべきですね。

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共同・体験学習の技法

2011年01月15日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 昨年末に書いた記事「大規模講義においていかに『学び』を発生させるか」に、ひめさんから興味深いコメントをいただきました。大規模講義に、「ワールドカフェ」「オープンスペーステクノロジー」「AI」「アクションラーニング」などの技法が応用できるのではないか、との助言でした。お恥ずかしながら、これらの技法は、名前を聞いたことがある程度で、詳しく知らなかったので、少し調べてみました。

 いずれも、企業研修や会議に用いられている共同学習の技法です。最近、企業研修や会議の質向上などに関連して、「学習する組織」という言葉をちらほら見聞きするようになりましたが、それに関する諸技法のようです。

 ワールドカフェというのは、カフェ(喫茶店)のようなリラックスした雰囲気の中で、新しい知識や文化の創出・共有を行う話し合いの技法だそうです。リラックスした雰囲気で、協同的にポイントを押さえて話し合うことが、創造的なアイディアを生むことにつながる、という考え方を基盤としています。いくつかのグループをつくり、20~30分程度でメンバーを換えて話し合っていきます。

 オープンスペーステクノロジー(OST)というのは、一定のテーマについての解決への情熱、責任感、奉仕精神をもとにして、自発的選択の原則のもとに異なる意見を衝突させ、民主的な共同体を作り出す技法だそうです。1時間半~2時間程度の話し合いを繰り返します。

 アクションラーニング(AL)とは、集団による現実問題の解決策立案・実施過程において、諸活動と省察reflectionとを通じて、個人・集団の学習能力を養成する方法です。直接の関係はないようですが、デューイの教育・学習・探求理論との関係があるようです。

 「AI」はわかりませんでした。何の略なんでしょうか?

 いずれも、共同学習を深める上で確かに意義ある技法のようですね。有意義な議論ができているゼミや学会などでは、似たようなことを無意識に行っているように思います。ともかくも、意識的にそういう活動を作ることは大事なことですね。基本的に少人数による学習法ですが、数十人から1000人程度の集団にも適用できると考えられているようです。

 さて、これらが大規模授業に応用できるとのことですが、演習型の授業技術として考えると、たしかに有意義だと思います。ただ、問題は、このような共同学習の前提として、参加者には、ある程度の専門的知識・経験を必要とすることです。社会人や現職の研修にはとても有効でしょうが、現場経験の浅い学生たちに適用するには、注意が必要です。
 私も、自分の授業では、なるべく共同・体験学習を取り入れるようにしています(なかなかうまくいきませんが…)。こういう方法は、場合によっては、中身のない議論を続けさせてしまうことにもつながってしまいます。テーマ設定や授業展開などについて、細心の注意を払って計画する必要があります。
 また、養成校では、学生たちの経験を超えた未知の知識・技術を身につけさせる必要もあります(学生たちが「わかる」ためには、あまりに学生の経験からかけ離れた内容を取り上げることはできませんが…)。このような内容を取り扱う場合、上記のような共同・体験学習だけではなかなか達成しがたいところがあります。どうしても講義部分が必要になると思います。どうも私が一番問題に感じているのは、この講義部分のようです。
 さらに、教員養成校の学生とはいえ、中には意欲の低い者も少なくありません(大学の現実として、入学時に十分選抜できないため)。どのように意欲を高めるか、これも難問です。発達障害の疑いのある者や基礎能力の低い者もおり、社会性または応用力を強く要求する共同学習はかなりの負担になります。このような学生たちを、どのように学習に参加させるか、これも難問です。

 結論がない上に、長くなりましたが、ひめさんのコメントのおかげで、思考を進める機会をいただきました。ありがとうございます。またご意見・ご感想などいただければ幸いです。

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謹賀新年2011

2011年01月06日 20時13分12秒 | Weblog

 みなさん、明けましておめでとうございます。

 年末年始の山陰はとんでもない大雪のため、外界と半閉鎖状態だったようです。私は31日午前中から、実家へ帰るために電車で山陰を脱出しましたが、この日・この時間帯がタイムリミットだったようです。その後に移動した人々は、電車内で年を越した方々もいた様子。私は米子駅での1時間50分遅れですみました。写真は1時間50分待ちの時に撮った、米子駅です。雪でレールが埋もれています。正月3日に舞い戻ってきましたが(米子を避けて)、30分遅れでの到着でした。以後の交通ダイヤは、遅れるものと見なしておいた方がよさそうです。 

 そして、2011年が始まりました。もうさすがに皆さん仕事始まりましたよね。私は4日から始まりました。今年は一昨年・昨年のような見通しの立たない制御不可な生活ではなく、もう少し見通しの立つ生活をしたいと思っています。現職3年目にしてようやく仕事の見通しが立ってきました。教育・研究・事務の3つをうまく鼎立させたいです。学内分掌が替われば、見通しが微妙に立たなくなりますが、そんなに大きな変動はないと思うので、まあ、何とかなるでしょう。仕事ばかりでなく私生活も何とかしたいものですが、そういっぺんには解決できないので、こちらは度外視しようと思います(苦笑)。

 そろそろ山陰生活2年目が終わろうとしています。昨年の冬はあまり雪が降らなかったので、拍子抜けしましたが、今年は雪で悩まされそうです。今週末、研究会に出席するために仙台までいかなくてはならないのですが、この調子で大丈夫なのでしょうか。そもそも行けるのか。はたまた帰ってこれるのか。はぁ…

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