教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

語源から考える「学習」とは何か―教育と学習との不即不離

2009年05月27日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 さて、お勉強の記事。前回の続きにあたります。若干論理が錯雑としていますが、今回は、「学習」という文字の語源から、学習とは何か考えて見ましょう。また、最終的には、前回の語源から考えた「教育」の意味と絡ませ、学習とは何かという観点から教育とは何か考えてみたいと思います。

 「學(学)」という漢字と「まなぶ(学)」という日本語、および「習」という漢字と「ならう(習)」という日本語は、そもそもどんな意味を持っていたのでしょうか。
 「學」の漢字は、記事の図のように、「コウ(例の×が2つ上下に重なった字)」が「キク」という字にはさまれて「ヤネ(ウ冠のような字)」の上にのっている部分と、「子」の部分から成る漢字です。「コウ」は交差・交流などの意を表し、「キク」は両方(2人?)の手、「ヤネ」は屋根のある家を表します。子(弟子)が師に向き合って交流し、知識などを伝授される様を表す漢字です。師と弟子との間における知識等の伝授は、まずは師による行為としてあらわれます。続いて、「コウ」の字があることからわかるように、弟子による授けられた知識等を受け取る行為も意味しています。すなわち、「學」の字は、師弟が向き合い、師が知識等を授け、弟子がそれを受取ることを意味しているのです。
 「まなぶ」という日本語は、「マネブ」「マ・ナラフ」という語が転じたものと言われています。「マネブ」は「真似ぶ」「真(誠)擬ぶ」であり、マコトたる真理と誠実とについて、正しい手本をまねることです。「マ・ナラフ」は「真(誠)習ふ」であり、真理と誠実とについて習うことです。「まなぶ」という日本語には、真理(すなわち深い知識)と誠実(すなわち道徳)について、正しい手本からまね、習うことという意味があるのです。
 では、「習」という漢字はどうでしょう。「習」という漢字は、「羽」と「白」の2つの部分から成っています。「羽」は、鳥の二枚のはねを並べた象形文字。「白」は、この場合、「曰」の変形文字で、発語に限らず、さまざまな行為が行われる意味を示す字です(「自」の変形で鼻を表すという説もあります)。「習」の漢字は、鳥が二枚の羽を何度も何度も羽ばたかせている様を示した文字です。習得しなければならない行為は、習得しようとした時点ではまだ十分に身に着けていない行為です。そうなると「習」の字は、もっと言えば、巣立ちを迎えた雛鳥やうまく飛べない若鳥が、繰り返し羽根を羽ばたかせて、よりよい飛び方を身に着けようとしている様を示しているともいえましょう。「習」という漢字は、何度も繰り返してある行為などを身に着けようとする行為を意味しています。
 「ならう」という日本語は、「ナレアフ」「ナラシフ」「ナラブ」という語が転じた語といわれています。「ナレアフ」は「馴合う」であり、「ナラシフ」は「馴歴」であり、何らかのものごとやルールに合った行動をするようになることです。「ナラブ」は「並ぶ」であり、高度な知識・態度・能力などを身に着けている者と、同等程度のものを身に着けている状態のことです。「ならう」という日本語には、手本とすべき人物などを見習って、高度な知識・態度・能力を身につけるという意味があるのです。
 以上、語源から「学習」の意味を探ってきました。「学習」とは、師によって伝授された高度な知識・態度・能力などについて、学習者が何度も何度も繰り返しまねをして、ついに同程度のものを身に着けるという、一連の主体的行為なのです。ここには、師から施された教育的行為がなくては、「学習」が成り立たないことがわかります。
 前回、教育が成立するには、被教育者の学ぶ姿勢が必要だとしました。つまり、教育と学習とは、別々に成立しうるものではなく、不即不離の関係において成立すると言えるでしょう。教育者による教育は被教育者の学習あってはじめて成立し、学習者による学習は教育者による教育あってはじめて成立するのです。

 ということで、教師が学生をほったらかしにしていては、教育は成り立たないのではないかと思います。教師には、学ぶべきもの(知識・態度・能力)に学生を近づけていく姿勢が必要でしょうね。そして、学生には、教師が教えることを素直に受け止める姿勢が必要でしょうね。

<参考文献>
藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光『漢字源』学習研究社、2006年。
江原武一・山崎高哉編『基礎教育学』放送大学教育振興会、2007年。


(以上は、白石崇人『幼児教育とは何か』幼児教育の理論とその応用1、社会評論社、2013年に所収しております)



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語源から考える「教育とは何か」

2009年05月12日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 〈学生たちへ: この記事をコピペしてレポートの字数をかせぐことを禁ず。 2010.8.3追記〉

 またもや学問っぽいことを。

 今日は、「教育」という文字の語源から、教育とは何か考えてみたいと思います。かつて、「教」という漢字および「おしえる(教)」という日本語、「育」という漢字および「そだつ」という日本語は、どのような意味をもっていたのでしょうか。
 「教」の漢字は、記事の図のように「コウ(×が2つ重なった字)」と「子」、そして「ボク(右側のツクリの部分)」の3つの部分から成ってできたものです。「コウ」には、交差・交流の意味があります。「子」の上に「コウ」がありますので、子が(対義語である親または親に類する者)と交わるという意味になります。「ボク」は、棒をもって悪いことを注意する様を表す象形文字です。これを総合すると、「教」の漢字は、棒を持って注意する親子関係を示す字ということになります。ただし、「コウ」は交流すなわち相互関係を意味し、一方的な命令-服従関係を示すものではありません。つまり、「教」の字は、親が善悪を注意して教えるだけでなく、子がその注意・教えを受け入れる意味も示しているのです。
 「おしえる」という日本語は、「ヲシム」「ヲサヘ」「ヲシアヘ」という語が転じたものといわれています。「ヲシム」は「愛しむ」であり、愛情をもって接することです。「ヲサヘ」は「抑え」であり、抑制すること。「ヲシアヘ」は「食饗」であり、ごちそうでもてなすこと、転じて生きるための何らかを十分に与えることを意味します。「おしえる」という日本語には、愛情をもって接する、何かを抑制する、生きるすべを与えるといった意味があるわけです。
 さて、「育」はどうでしょうか。「育」の漢字は、「云(トツ)」と「月(ニクヅキ)」から成っています。「トツ」は、赤子が頭から生まれる、すなわち無事に生まれる様を示す象形文字です。「ニクヅキ」は、肉付きよく太る、すなわちよく立派に育つという意味をもっています。総合すると、「育」の字は、子どもが無事に生まれ、よく育つという意味をもつのです。
 「そだつ」の日本語はどうでしょう。「そだつ」は、「スダツ」「ソタツ」「ソヒタツ」という語が転じたものだとされています。「スダツ」は「巣立つ」であり、ひとり立ちすることを意味です。「ソタツ」「ソヒタツ」は、「傍立つ」「添立つ」「副立つ」であり、助け導く意味をもちます。すなわち、「そだつ」という日本語は、ひとり立ちできるまで助け導くという意味をもつのです。
 以上、「教」と「育」との漢字・日本語の語源を探ってきました。このような語源をそれぞれ持つ「教」と「育」とを足した言葉こそ「教育」であるとすると、「教育」という言葉はどのような意味をもつのでしょうか。それを考えるには、教育をする側(親または親に類する者)と教育される側(子)とに分けて考える必要がありそうです。「教育」とは、教育者側からすると、被教育者に対して、愛情をもって善悪や生きるすべを教え、自分で生きていけるようになるまで助け導くことを意味します。そして、被教育者側から見ると、被教育者自身も、教育者の教えを受容して、成長することをも意味しています。語源から言うと、「教育」は、教える者が一方的に教え育てることだけでは成り立ちません。「教育」は、教えられる者が、その教える者の行為やその内容を受け入れることによって、はじめて成り立つのです。
 よって、教育の問題は、教育者の行為・内容だけではありません。被教育者が教育者の行為・内容を受け入れる姿勢を如何に引き出すか。ここにも、教育の問題は存在しているのです。

 ということですから、学生が教師に「よい教育」を求めるならば、教師の努力を求めるだけでなく、学生も教師の教えを受け入れる姿勢(内容に含まれる概念・思想等に関する知識、論理を理解する能力、教師の言葉・行為を積極的・肯定的に受け入れる態度…など)を整えるため、予習しておくことが必要なのです(笑)。

<参考文献>
藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光『漢字源』学習研究社、2006年。
江原武一・山崎高哉編『基礎教育学』放送大学教育振興会、2007年。
(※ なお、「教」の漢字は、お告げの様を描いた象形文字であるという説もあります(寺崎弘昭「教育と学校の歴史」藤田・田中・寺崎『教育学入門―子どもと教育』岩波書店、1997年、111頁)。ここでは、最近の説を採って論じました。)


(以上は、白石崇人『幼児教育とは何か』幼児教育の理論とその応用1、社会評論社、2013年に所収しております)



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近況報告のつもりが授業論にいたる

2009年05月10日 19時31分42秒 | 教育研究メモ
 一日の気力が続かず、なかなかブログ更新に至らぬ毎日を送っております。それでも恒常的に訪れてくださる50名~60名ほどの閲覧者に感謝。とりあえず近況報告です。
 かのゴールデンウィークは、研究と休養につぎ込みました。鳥取県の教育会雑誌(『因伯私立教育会雑誌』『因伯教育会報』『因伯教育会月報』および『山陰之教育』の途中、『東伯之教育』まで)、順調に収集しております。思っていた以上に大量にあるのと、収集に時間を使うので、実際に研究を始めるのはもう少し集めてからかな。そのほか、全体的に、研究そのものはそれほど進みませんでした。まだ構想段階にとどまってます。
 連休明けの2日間、何かと「濃い」内容満載でした。そのためか、この土日は若干ボーっとしています。ただ、めざましい進歩とはいかないまでも、少しずつ授業準備も研究活動も前へ進んではいますので、ひと安心。
 さて、来週からわが学科では、教育実習(附属幼稚園にて)が始まります。何が起こるやら。不安を感じます。ただ、学生たちがどう変わるか、何を得てくれるか、楽しみでもあります。
 そして、来週といえば、そろそろ高校訪問などの学生募集関係業務が始まりそうです。未体験の仕事なのでとても不安ですが、楽しみに思うようにしています(笑)。
 
 それにしても、気になるのは授業。それもまた、いつも通り。
 とても興味を持って、熱心に出席・発言・レポートしてくれる学生。はたまた、ついて来ているのか判別つきがたい学生。授業中・授業後の様子を見ていると、受講生の姿はさまざまです。
 今のところ私が受け持っているのは、講義科目がほとんどです。講義とは、知識伝達を主とする授業であると考えると、その形式は一斉授業の形式にならざるを得ないと考えます。ただ、学生全員に内容を理解させ、興味を持たせられる一斉授業というのは、理想ではあっても現実にはありえません(学生の理解形式・関心などはそれぞれ異なるため)。それでも教師は、内容を理解できる・興味を持つ学生が少しでも増えるように、毎回反省しつつ、微調整して工夫していかないといけません。論理的には矛盾しているように思えますが、実際として、工夫改善の手をとどめれば、教師の自己満足にしかなりません。
 とりあえず私は、毎回授業終了間際に小レポートを課しています(次の回の最初に批判・助言・激励を加えています)。その他、教材選択、目的・目標の調整、板書、口頭説明、視覚教材の試行錯誤などをしているだけで、目新しいことをしているわけではありません。なお小レポートは、授業内容を学生自身に振り返らせて、内容理解を深めさせようとするための教育の一部ですが、同時に私(授業者)にとっては、学生の理解度を確認して授業改善の材料としても位置づいています。
 うーん、一斉授業という授業形式を変えればよい、という単純な問題ではありませんので悩みます。そもそも「一斉授業ではない講義」とはありうるのか。「講義・演習・実習・実験」などという区分そのものも問題ではないか。さまざまな形式を取り入れて授業形式を複合化すべきか。どの形式を選ぶか。複合の割合はどうか。複合化すれば講義内容を削減しなければならないが、削減した内容はどうするのか、云々。
 ちょっと書くつもりが、こんなになってしまいました。まだまだ模索し続けなければならないようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする