教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育学と政治・経済

2023年06月05日 19時37分25秒 | 教育研究メモ
 現代の学問は政治・経済に何らかの形で関わらざるを得ない。それは、現代社会において学問はかなりしっかりと制度化・組織化されているため、公的資金や人的資源をどのように分配されるかをめぐって政治・経済の影響を受けざるを得ないからである。教育学の有用性を考察するには、政治・経済にいかに関わるかという問題を避けられない。

 これまでの教育学はいかに役立とうとしてきたか。例えば、教育に関わって政治と経済の交わるところには、人的資本論があったし、これからも関わりが切れることはないだろう。人的資本論との付き合いは長い(いつからだろうか)。なお、教育学はどちらかというと普通教育重視で、専門・職業教育にはあまり熱心ではなかったし、今もそうである。就職の推進よりもできるだけ学校教育を受けさせようとして、学修の長期化・進学を推進し、高学歴化を推奨してきた。高学歴者を増やして将来賃金を増やす社会の取り組みに、教育学は協力してきたといえる。
 しかし、高学歴を必要とする職業は社会にそれほど多くなく、高学歴化を進めすぎると高学歴者が過剰になるだけという考え方もある。教育学は、様々な理由から、過剰な学歴主義や人的資本論に冷や水をもあびせてきた。エビデンスを示し、冷静な政策過程になるようにブレーキをかけることも確かにやってきた。
 また、政策の方向性を変えることも取り組んできた。例えば、教育政策における認知能力から非認知能力への注目はある程度成功した例の一つだろう(教育学よりも情勢変化と心理学の影響の方が強いだろうが)。
 学校の長時間労働についてはどうだろう。教育学は学校・教職の無境界性を高め、長時間労働化に拍車をかけてきた可能性もありはしないか。近年、教育学も教職の長時間労働化にブレーキをかける動きを見せているが、もっと深いところから見直さなければ表面的な対応になってしまうのではないか。どんな立場から教育問題に向き合っていくか。例えば教職や学校という職業や職場の捉え方そのものの見直しなど、政治や経済の立場からでは思いも至らない、教育学ならではの問題設定と考察と取組みが必要であろう。

 澤柳政太郎が『実際的教育学』(1909)で、教育政策や輿論・世論に対する教育学の貢献を強く提唱して100年以上経った。長田新が『国家教育学』(1944)で、道徳実現・文化創造を形成する作用として、政治・経済等と並んで教育の重要性を説き、教育立国を目的化してから70年経とうとしている。
 「教育学は役に立たない」という言説は一般的に根強いが、見方・考え方を変えると、教育学は深いところで政治・経済に役立ってきたともいえるかもしれない。「役に立たない」というスタンスも、一定の時代の中で意識的にとられた一つの戦略でもある(今にふさわしいかどうかは別問題)。教育学はいかなる立場に立って、政治・経済にどのような貢献をしてきたのか(保守・圧力・抵抗・革新等様々な意味での)。教育学史の課題として取り組むことで、今後の取り組みの出発点を定めることができる。おそらく、表面的・一面的な見方では教育学の役割は認識できず、その本当の意義を正確に解釈することはできないだろう。教育を専門的に学問することにどんな意味があるか、多面的に見、深く考える力や確かな問題意識が必要である。
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日本教育史研究における「教育学としての教育史」

2023年06月02日 19時08分26秒 | 教育研究メモ
 皆さまお忙しいですね、お疲れ様です。さて、長い間更新がとどこおっておりますので、自分の業績の紹介で穴を埋めさせていただきます。

 今年3月末に拙稿「日本教育史研究における「教育学としての教育史」」(『広島文教大学高等教育研究』第9号、2023年、1~14頁)が活字化されました。論文構成は以下の通りです。

 はじめに
1 日本における「教育史」の出発点―19・20世紀転換期
(1)翻訳的・国学的教育史―『教育史』・『日本教育史略』・『日本教育史』
(2)教育学・教員養成目的の開化史的教育史―師範学校教育科用教科書
(3)実証史学的日本近世教育史の勃興
2 「教育学としての教育史」の確立―20世紀前半
(1)教育学の方法としての教育史―教育学の科学化、実証史学、国体・マルクス主義
(2)教育史の方法論争―教育運動史、教育制度・政策史、歴史学
3 「教育学としての教育史」の蓄積と葛藤―1960~80年代
(1)「教育学としての教育史」の主流化
(2)教育史の歴史学・社会学への接近―民衆教育史、教育の歴史社会学、教育の社会史
4 「教育学としての教育史」の批判と再構築―1990年代~現在
 おわりに

 構成の通り、本稿は、19・20世紀転換期から現在まで(1870年代~2022年)の日本の教育史(特に日本教育史)が、教育学や他の学問とどのような交流を持ちながら研究されてきたかを通史的に整理した論文です。その問題意識は、1990年代以降の教育(哲)学・教育思想史におけるポストモダン的状況と、2000年代の教育社会史・文化史の台頭を経て、教育史研究が今後どのように進められるべきか、特に「教育学としての教育史」(教育史研究・教育がすなわち教育学研究・教育になるという立場)を再構築する方向性を探るところにあります。また、現在、近代・戦後教育学批判を経て新しい教育学の模索が続けられていますが、もともと教育学の揺らぎをつくった当事者(領域)の一つが教育史研究であり、だからこそ教育史研究は教育学との関係を結び直さなければならない、という問題意識が背景にあります。なお、先に申し上げておくと、「教育史は教育学だ」と決めつけたいわけではありません。「教育史は教育学でもある」ということを正面から見据え、かつ排他的な立場を避けたいという立場から書きました。
 この問題に取り組むために、まず本稿では、明治日本に始まった「教育史」を冠するまとまった研究(著書)が、どういう立場や問題意識で書かれたのか、実証的に研究しました。その結果、2000年代によく言われていた「教育史研究は教育学や教員養成のために始まった」という言説は、少なくとも日本教育史研究においては必ずしも事実ではないことを明らかにしたつもりです。次に、「教育学としての教育史」はどのように誕生・確立したのか、研究しました。「教育学としての教育史」は、師範学校教育科用教科書を皮切りに、教育学の科学化や国体主義的・マルクス主義的な教育学の模索を経て徐々に確立し、実証史学(アカデミズム歴史学)や民衆史・民俗学・社会学の研究との緊張関係の中で、1960・70年代ごろに主流化したとみています。それから、1990年代以降の「教育学としての教育史」に対する批判の動向を整理しました。そこから、教育思想史研究と教育社会史研究の間(個々の研究者間も)では、若干批判のトーンが異なっている節があることを確認しました。結論としては、「教育学としての教育史」もやはり歴史的な構築物であり、これから再構築する必要のあるものだということです。
 
 本稿ではあえて時間軸が長いので少ない資料でかなり大雑把な整理を試みましたが、2000年代の教育史研究の雰囲気の中で教育史家として育ってきた私たちの世代として、これからどうやって研究していけばいいか考察するためには欠かせない作業だと思っております。我々の世代は、実証史学・歴史学(ポストモダン的思想史、社会史)・歴史社会学などにルーツを持った教育学・教育史批判の繰り返しの中で、研究をどう進めればいいか迷い続けてきました。あれから20年以上経っていますので、いい加減、次の方向性を見極めなくてはならないと思っています。後輩たちも困っています(と私は認識しています)。
 教育史は、遅まきながらポストモダン的状況をくぐり、新しい歴史学や社会学の問題意識を共有してきました。だからこそ、今の教育史は新しい教育学の模索に貢献すべきです。「教育学としての教育史」の研究は、教育哲学(教育思想史)や教育方法学などの領域で先行しているように思いますが、それらの研究を歴史的な視点・考え方からより深めていくために、「教育学としての教育史」は課題化されなければならないと考えます。教職課程や大学教育における「教育の思想と歴史」などの教育や、地域の歴史遺産を継承してきた学校を担うための市民教育・教師教育のためにも、教育史研究、とくに「教育学としての教育史」の再構築が急がれます。2000年代に一世風靡した「歴史学としての教育史」の探究が終わったとは思いませんが、批判されつくした感のある「教育学としての教育史」を今改めて構築し直さなければなりません。この仕事は、教育学者として今こそ取り組むべき課題だと思っております。

 ちなみに、今回、教育史研究史をまとめてみて、たくさんの研究課題があることに気づきました。たくさんの取り組むべき謎が残っています。本稿には不十分なところがたくさんあるので、そこを乗り越え、新たな研究が出てくることを期待しています。私個人としても、1950・60年代の教育学史における教育史の位置づけや、20世紀を通じた社会史・文化史との交流についても、もっと広く資料をとって考え直したいです。
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