さて、続きです。なお、文中では、明治前中期の教育学を「自然科学的教育学」、明治後期の教育学を「社会科学的教育学」とまとめていますが、まったく説明できていません。「自然科学的教育学」については、主に心理学や生理学等の自然科学を親学問としてまとめられた教育学だと思ってもらえればよいです。「社会科学的教育学」については、心理学を基礎としつつも、国家思想・社会理論などによって目的・体系づけられている教育学だと思ってもらえればよいと思います。だいたい。明治20年代のヘルバルト主義教育学を前者に入れるのは難しいところですが… もっと研究が必要なところですね。
引用・参考文献の表記(例):
白石崇人「6 明治中期における教育学説の発展」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.6(2007.1.19稿)。
または、
白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。
白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より
Ⅱ.明治中期における教育学の制度化
以上、制度化の視点からの先行研究を有する自然科学・社会科学(法学・政治学・経済学)・歴史学・社会学を事例として、それぞれの制度化過程を検討し、明治中期における学問の制度化の特徴を明らかにした。その結果に従い、明治中期における学問の制度化の特徴を整理すると、大きく次の3つの特徴を指摘できる。第1に、明治前期から引き続く国内における教育制度の整備が、帝国大学を中心に一応確立したことである。第2に、専門教育を受けた学者が、同様の関心を持つ人々と協力して、学協会を組織化し始めたことである。第3に、学協会の成立・発展過程に関連して、西欧の学説を直接移植するだけに止まらず、自国の実際的な諸問題に対して自覚的立場に立つ学説が現れてきたことである。
では、明治中期における教育学の制度化はどのような特徴があるか。以下、先行研究を用いながら、明治中期における教育学の制度化過程を、教育・組織・学説の視点から明らかにする。まず、従来の日本教育学史研究の主要テーマであった教育学説の発展過程を明らかにし、明治中期における教育学説を位置づける。次に、帝国大学・師範学校における教育学教育の発展過程を明らかにし、明治中期における教育学教育を位置づける。3番目に、教育学者と学協会あるいは教育団体・雑誌との関係を明らかにし、明治中期における教育学の組織化状態を位置づける。[3番目は未完のため公開予定なし]
1.教育学説の発展
(1)自然科学的教育学(明治維新前後から明治20年代まで)
19世紀になって、日本は、アヘン戦争やペリー来航によって欧米諸国による植民地化の危機にさらされた。明治新政府のみならず、自覚を始めた知識人たちは富国強兵の道を模索し、人材養成の必要性を感じて、西欧諸国の教育制度とともに教育学説の翻訳紹介を行った。明治維新前後には、復古主義教育思想と啓蒙主義教育思想の二つの思潮があった。復古主義教育思想は、国学者・漢学者を担い手とした、祭政一致による人民教化の思想であった。復古主義教育思想は、国学派・漢学派の対立と内部抗争に加え、新政府の開明政策の実施にともない、明治3(1870)年ごろを境に主流から退いた。啓蒙主義教育思想は、洋学者を担い手とし、国学・漢学の教育思想に対する批判と英米流の自由思想・実学精神に立って、独立不羈の人間の育成を目指す思想であった。啓蒙主義教育思想は、西欧各国の学校組織・学校制度・教授法の情報に伴って翻訳紹介され、明治10年前後頃までの教育政策を方向づけた。
明治10年代には、主に英米の教育学説・思想の翻訳紹介と体系化が進んだ。明治11(1878)年、文部省からの小学師範学科取調の命を受けてアメリカに留学していた、高嶺秀夫と伊沢修二が帰国した。高嶺は、帰国後、東京師範学校において教鞭を執り、ジョホノット(Johonnot, J.)著 "Principles and Practice of Teaching" (1877)を訳して『教育新論』(明治18年)を著した。高嶺とその指導下にあった東京師範学校附属小学校は、ペスタロッチー主義の教育思想に基づいて、教育の本質を心身の諸力の調和的発達とし、実物提示と問答による開発主義教授法を広めた。若林虎三郎・白井毅著『改正教授術』(明治16[1883]年)は、開発主義教授法の代表的著作である。伊沢修二は、アメリカ留学の際に筆記した教育学と心理学の講義をまとめ、『教育学』(明治15[1882]年・16年)を著した。同著は、智育・徳育・体育の三部に従い、心理学説を基礎とする教育学の体系化を試みたものであり、日本人による教育学書の最初のものとされている。受容された欧米の教育学説・思想は、能勢栄『教育学』(明治22[1889]年)によって、より体系化された。同著は、コンペーレ(Compayre,J.G.)とベイン(Bain,A.)の教育学説を基礎として、広く英米の教育思想・学説を渉猟して著されたものであった。能勢は、同著によって、わが国における教育学の体系を自ら組織した最初の人とされている。
明治20年代には、ヘルバルト主義の教育学説の翻訳紹介と体系化が進んだ。明治20[1887]年、帝国大学にドイツ人ハウスクネヒト(Hausknecht,E.)が着任し、ヘルバルト主義教育学に基づく中等教員養成が始まった。ハウスクネヒトは明治23[1890]年に帰国したが、特約生教育学科にて彼に指導を受けた谷本富・湯原元一・稲垣末松・山口小太郎・岡田五兎らは、ヘルバルト主義教授法を、中等教育だけでなく初等教育に適用できるものとして紹介していった。また、文科大学哲学科卒業生の大瀬甚太郎は、『教育学』(明治24[1891]年)を著し、ヘルバルト主義教育学説を体系化した。大瀬『教育学』は、教育学の教科書として広く用いられ、その後の教育学説の組織・体系化において大きな影響を及ぼしたという。ドイツへ留学した野尻精一は、帰国後、帝国大学や高等師範学校で教育学を講義し、ヘルバルト主義の教育学説を紹介した。ヘルバルト主義の教育学説は、その他にも訳書・著書や雑誌において盛んに翻訳紹介された。
(2)社会科学的教育学(明治30年代から大正・昭和前期まで)
明治20年代後半ごろから、開発主義教授法とヘルバルト主義教育学説は、その教師中心主義と個人主義の点から批判され、その意味でその後の教育学説の基礎となっていく。樋口勘次郎は、『統合主義新教授法』(明治32[1899]年)を著し、パーカー(Parker,F.W.)の学説を翻案して、児童の活動を中心とする立場から開発主義教授法・ヘルバルト主義教育学説の教師中心主義を批判した。また、教育勅語渙発以後の天皇にすべての根源をおく国家思想の要請、明治27[1894]年~28[1895]年の日清戦争による国家意識の昂揚などにともない、明治30年代には、熊谷五郎・吉田熊次などによって社会有機体論に基づく社会的教育学説が紹介された。明治20年代においてヘルバルト主義教育学説を熱心に説いていた谷本富も、方針転換し、『将来の教育学-一名国家的教育学卑見』(明治31[1898]年)を著して、「一国の維持と繁栄を目的とする教育」を説いた。谷本は、『新教育学講義』(明治38[1905]年)、『系統的教育学綱要』(明治40[1907]年)、『新教育者の修養』(明治41[1908]年)などを著し、今後の国家・社会を担う個人を教育する「新教育」とその教育方法である自学輔導法を説き、大正期のいわゆる新教育思想の先駆となっていった。
明治40年代には、乙竹岩造『実験教育学』(明治41年)や吉田熊次『実験教育学の進歩』(明治42[1909]年)などにより、ヘルバルト主義の観念的教育理論・方法の基礎理論への批判に基づいて、観察・実験・統計などの実験的実証的方法による教育学説が紹介された。実験的教育学は、大正期に至って、実証的教育学へと発展した。また、小西重直『学校教育』(明治41年)、吉田熊次『系統的教育学』(明治42年)、沢柳政太郎『実際的教育学』(明治42年)などが著され、教育学説を総合大成する傾向が見られるようになった。
大正期には、わが国の教育学説は大きく3つの流れに分かれた。第1に、明治後期に盛んだった自然科学主義の教育学説に対する批判が現れ、理想主義的教育学説の潮流が形づくられた。理想主義的教育学説は、中島半次郎の人格的教育学、篠原助市などの新カント学派の批判的教育学説、長田新などの精神科学派教育学説(文化教育学)などとして形となり、昭和初期ごろには教育学説の本流をなすようになった。第2に、先進諸国における新教育への動向と接し、自由主義的・児童中心主義的見地に立つ教育思想と試行が展開した。新教育の学説は、大正7[1918]年にデューイ『民主主義と教育』が翻訳されたことを画期として、多くの新学校・新教育の実践を生んだ。第3に、教育の実証的研究が緒につき、実証的教育学説がいた。この実証的教育学は、明治末年のドイツ実験教育学説の紹介とは違い、アメリカに発達した教育測定・学校調査・教育診断の影響を受けて、日本における教育の実際を対象とした研究として発展し始めた。
昭和前期には以上の流れに加えて、さらに2つの流れが加わった。第1に、労働運動・社会主義思想文化運動と関連し、プロレタリア教育思想とそれに基づく教育活動・運動が展開された。第2に、ドイツ・ナチズムにつながるクリークらの民族主義的教育学説や、日本精神・国体明徴思想に結びつき、日本教育学が急速に拡がっていった。
(3)明治中期における教育学説の特徴
明治中期における教育学説の特徴は、明治前期におけるような、多様な外国教育情報の中の一部ではなく、一個の体系を有す全体としての学説であった点にある。明治中期における教育学説は、欧米留学によって教育学を学んだ者たちにより、欧米の教育学説の翻訳・編集されて成立した。[略]
(以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011.4.6附記)
<参考文献>
①大日本学術協会編『日本現代教育学概説』モナス、1927年。
②海後宗臣『日本教育小史』日本放送出版協会、1940年。
③教師養成研究会編『近代教育史』学芸図書、1962年。
④日本近代教育史事典編集委員会編『日本近代教育史事典』平凡社、1971年。
⑤尾形裕康『日本教育通史研究』早稲田大学出版部、1980年。
⑥教師養成研究会編『資料解説教育原理』改訂版、学芸図書、1981年。
⑦中内敏夫『教育学第一歩』岩波書店、1988年。
⑧中野光・平原春好『教育学』有斐閣、1997年。
⑨中内敏夫『教育思想史』岩波書店、1998年。