教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学会+週前半

2010年08月25日 23時55分55秒 | Weblog
 学会終わりました。関係者の方々、本当にお疲れ様でした。
 学会から今日まで、激動の毎日でした。

 一つひどい目にあったお話を。
 学会からの帰路、伯備線の「やくも」に乗って帰ったのですが、途中で大雨のため水と倒木が出たということで、途中で立ち往生。電車内で待つはめになりました。4時間半程度経って、ようやく運転再開。23時55分ごろ、伯耆大山駅に着。予定ではそこから山陰本線に乗って帰り、21時頃には帰宅するつもりでしたが、すでにもう最終便もなし。JRが用意してくれたタクシーに乗って職場まで帰り、自分の車に乗ってなんとか帰宅できました。帰宅したのは午前1時過ぎ。翌日は朝早い仕事だったので、本当に参りました。目覚めたときは、頭がクラクラしていました(笑)。でも、JRには出来る限りのことをしてくれたので、感謝しています。電車内で待っていた時は、このまま帰れないかと思いました。天災は仕方ないことですから。
 その後、月火水曜と、いろいろありました。来週に向けても、まだまだ気が抜けません。事務能力の低い私としては、かなり苦しいスケジュールになってしまったなぁ…というのが素直な感想。まあ、いつものことですが。

 さて、土日の日本教育学会第69回大会ですが、とても有意義な会だったと思います。私の研究発表についても、興味深く聞いていただいたようで、ホッとしました。私が参加できた範囲ではありますが、他の個人発表も、課題研究も、シンポジウムもよかったです。お疲れ様でした。
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師範学校卒教員と検定教員

2010年08月19日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 夏休みに入ったのに、公務に研究に、毎日忙しくしております。ご無沙汰しております。
 本日、ようやく学会発表の準備ができました。何やかんやでなかなか取り掛かれなくて、間に合うんだろうかとひやひやしておりましたが、間に合ってよかったです。

 今週土日、日本教育学会第69回大会が広島大学で開催されます。22日(日)の午前の部で発表します。題目は「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員集団の組織化過程-師範卒教員と検定教員との衝突・分離・合流」としました。明治30年代といえば、小学校教員をめぐるさまざまな状況がそれまでと大きく変わってくる時代です。教員のサラリーマン化や「師範タイプ」の問題化、社会主義・自然主義・個人主義の流行など、あまりいい評価のない時代ですが、小学校教員の集団のあり方についてはそれほど研究がされていないと思われます。
 副題にある師範卒教員というのは、師範学校卒業の小学校教員、という意味です。今では教員養成は大学で行われていますが、戦前では基本的に師範学校というところで行われていました。師範学校卒業生は、制度上、教員集団の指導的立場を期待された人々です。ただ、当時の小学校教員は待遇が悪く、ほかに転職する道もあったので、師範学校卒業生は服務義務期間を終えるとやめてしまうのでそれほど多くいなかったのが実情でした。服務義務とは、公費で師範学校を卒業した者は、卒業後に一定期間(時期や対象者によって違いますが、5年~10年ほどです)教職に就く義務があったことをさします。
 検定教員とは、師範学校卒業生以外で小学校教員検定を受けて教員免許状を取得して教職に就いた人を指します。当時、小学校教員になるには、小学校教員検定を受けて免許状を取得する必要があったのですが、検定には無試験検定(甲種)と試験検定(乙種)とがありました。無試験検定は、試験をしないで、学歴や人物・品行などの検定のみを行うものです。師範学校卒業生も無試験検定を受けて免許状を取得するのですが、彼ら以外にも無試験検定を受けられる人々(中等教員免許状を持つ人や、時期によっては中学校・高等女学校卒業生など)やがいたので、そういう人たちが免許状を取得して小学校教員になりました。同時代の統計などでは、そういう人たちと師範学校卒業生とは区別されることが多かったようです。試験検定は、学力試験などを行って検定するものです。かなり合格するのは難しい試験だったようです。
 発表は、これら師範卒教員と検定教員とのかかわりを視野に入れて、激しく変動する明治30年代初頭において小学校教員集団がどのように変容したのか、を明らかにするものです。たぶんこういうテーマをしている人はあまりいないんじゃないかな、と思います。教員史研究の分野では、教員養成や教員検定、現職講習の制度を研究されている方が今のところ多いですし、教員社会に興味があっても量的研究や生活史のアプローチが多いところです。

 内容は思っていた以上にかなり面白くなりました。というより、かなり重要なことがわかった、と自分では思っています。倉吉という特殊な地域を事例にしてはいますが、「師範卒教員対検定教員」という対立図式の歴史的意味や、小学校教員集団の変容実態について、予想していた以上に明確に出てきたので、自分でも驚きました。郡教育会解散・再編問題が内容の肝ですので、私お得意の教育会の話も聞けます(笑)。
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教室にこんな道具があればなぁ―ふたを開けっぱなしでも使えるペン

2010年08月08日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 更新する内容と時間がない毎日を送っておりました。ごぶさたしてます。今日は、教室にこんなのがあれば便利なのになぁ、というお話をしましょう(笑)。

 最近、教室には次第に黒板がなくなり、ホワイトボードに切り替わっています。黒板は、明治以後、学校における一斉教授法をささえる重要な装置でしたが、ここにきてついに役目を終えようとしているのかもしれません。
 ホワイトボードは、黒板のようにチョークの粉が舞わず、非常に衛生的です。教師としても、手がチョークまみれにならなくてよいのでうれしい教具です。黒板だった時は、一時間授業をした後にチョークまみれの手でノートやら出席簿やらをもつので、持ち物が汚くなって困るんですよね。かつて、黒板が普及し始めた明治の頃、教師や児童生徒の健康を害し、大きな問題となっていたこともあります。ホワイトボードに切り替われば、そんな心配はいらなくなります。
 ただ、ホワイトボードにも欠点はあります。私が聞いたことがあるものには、ホワイトボードの文字は、遠くから見ると、黒板に比べて見えにくいというのがあります。私個人としては、ホワイトボードの最大の欠点として、書くものとして「ペン」を使わなければならないことを挙げたいと思います。
 ホワイトボード用のペンは、フタをしばらく開けっ放しにしておくと書けなくなります。インクが揮発するからでしょうか。ですので、授業中、板書(ばんしょ)しようとするとき、チョークには必要ない作業が2つ発生するのです。書くためにふたを開けることと、書いた後にふたを閉めること。チョークはそのまま置くだけでいいので、この作業は必要ありません。まぁ、別にこの2つの作業は、授業を妨害するほどの問題でもありませんが、教師としては面倒ではあります。
 ただ、話しながら書く、ということがしにくくなるという意味では、逆にいいことなのかもしれません。被教育者にはいろいろいます。「話を聞きながらノートを書く」という、音声のことばと書きことばとを同時に処理することができない人がいるのです。社会生活(とくに職業生活)で必要な「話を聞きながらメモをする」技術を身につけられるよう、それくらいはできるようになってほしいですが、できないことを急にできるようにすることは難しいので、教師としては対応せざるを得ません。そういう意味では、ホワイトボードを使うことで、教師が話をしながら書かないよう気をつけやすくなるのはよいことかもしれません(笑)。
 しかし、気をつけていてもフタをし忘れる人は少なくないのが現状です。授業中、さあ板書しようとすると、かすれて見えにくい、ということはよくあります。そして、ちゃんと書けるペンを探し、何本も試し書きをするはめになります。何分もかかるものではないので、一瞬のできごとですが、ちょっとイラッとします(笑)。学生も「早く次に進んでくれ」と思っているでしょうし。
 教育現場にホワイトボードが増えるのは歓迎するのですが、あのホワイトボード用のペンの欠点はなんとかならないのでしょうか。ふたを開けっ放しでもかすれないペン。ボールペンなんか、開けっ放しでも使えるじゃないですか。そんな感じのペンは作れないんでしょうかね?
コメント (2)
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