教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

AL授業を進めるにあたっての課題

2016年10月31日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 やればやるほど、どんどん課題が見つかってくる。
 思い切った実践をしてみて再確認したことがいくつかあったのでメモしておく。

 ALをするにしても、一斉指導(講義)はしなければならない。ALのための資料や課題・手順を説明しなければならないためだ。資料・課題・手順の説明を、学生の理解力や基礎知識に応じて丁寧に行わなければ、ALは成立しない。学生はどう取り組んでいいかわからない問題を前にして立ち往生して、困惑するだけだ。
 ALにおける一斉指導は、今までの一斉指導とは質が異なる。これまでの一斉指導は、一方的に答えを教師から学生に与えるものであった。しかし、ALのための一斉指導は、答えを与えるのではなく、学生が考えるために必要な準備を与える。その準備は、資料をただ提供したり、話し合う場を設けたりするだけではできない。資料・手順を説明する一斉指導が必要である。

 ALは、他者の考えに触れさせるだけでなく、他者の考えを踏まえてもう一歩さらに考えを進める機会を提供しなければならない。興味をひく課題を出すだけでは十分ではない。他にこういう意見が出ているよ、と紹介するだけでは十分ではない。他者の考えを考慮せざる得ない課題を出さなければ、学生の考えはアクティブにならない。AL課題の必要条件は、学生の興味関心を引き出すことだと思っていたが、それ以上に、学生が他者の考えを考慮せざるを得ない状況をいかにつくるかにあるのではないか。

 また、最終的には解説しないと、学生の学びは総括されにくい。解説しないと、まとめがないまま終了するような状態になる。そうなると、学生が自分で学習成果をまとめる必要がある。この状態は、自習と何ら変わらない。授業のため、教師のいるところに集まってくる意味が半減する。
 学生の思考が多様になっていること自体は問題ない。だが、解説をしないと学生はこれでいいのか不安なまま授業を終える。そうなると、学びの充実感を十分感じることができない。次の学びの意欲につながりにくい。
 もちろん、解説後に、学生が自分の学びを総括する時間が必要である。授業時間内に設定するか、事後学修として必ず総括するように課題化するか。

 これらをすべて1回の授業時間内でやろうとすると、あっという間に90分が過ぎていく。時間が足りない。

 こう考えてくると、3年前から徐々に確立してきた私の「保育者論」の実践は、ALの条件を無理なく実現しているように思った。資料・課題・手順については最初4回にわたって教育内容に沿いながら説明し、次の10回にわたってグループ発表や質疑応答時間の確保によって他者の考えを考慮せざるを得ない状況をつくり、解説は最終回で行い、毎回の事後学修では学生に自分なりの総括を含むノート作りを課している。
 今悩んでいるのは、今年度から担当することになった「道徳教育指導法Ⅰ」と「教育原理」である。科目自体はもう8~9年担当しているが、対象学生が大きく変化したことがきっかけで、今回の悩みが生じた。今まで担当していて学生の授業評価で問題はなかったとはいえ、単に学生が我慢していて私が気づいていなかっただけかもしれない。
 思い返してみれば、「保育者論」がALを可能にしているのは、授業にぴったり合ったテキスト(拙著『幼児教育とは何か』『保育者の専門性とは何か』)があることが大きい。悩みの2科目は、開講までにちょうどいいテキストを準備することができなかった。ここが明暗を分けたように思う。テキストは今更どうにもならないので、出来る範囲のところで改善していくしかない。

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「産み」の苦しみ―授業スタイルの改善努力

2016年10月30日 23時55分55秒 | Weblog

 授業改善がうまくいきません。とはいえ、ただでは起きないのが私のいいところ(^^;)。課題と改善点を明確にしました。次の一手も打っておきました。次の月曜の授業でさらなる改善をします。

 このしんどさ、初めて大学での教鞭をとった、S学院大での非常勤以来です。学生との間にしっくりこないものを感じながら、これでもかと改善を繰り返し、ついには今の授業スタイルの原型を作り出した、あの約10年前の実践。私の授業を受けて「意味が分からない」と感想を残し続けた学生が、最後の方の回で「だんだんわかるようになってきた。ありがとうございました。」と感想を残すようになったあの科目。まさに「産み」の苦しみというべきか、あの煩悶と毎回の緊張、そして大きな落胆と少しの達成感とがない交ぜになったあの感覚。

 授業改善は容易ではありませんが、「これがいい」「いつも以上に理解が深まった」という学生がいる中では、逃げるわけにはいかない。少しずつでも改善していかなければなりません。やり始めてしまったのだ、やり切るしかない。

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授業の仕方を変えなくては、という逼迫感

2016年10月27日 23時59分30秒 | Weblog

 ご無沙汰しています。以下独り言です。

 

 仕事の種類・数と責任にやられて、やる気減退、ストレス減らない、体重も増えて体調不良で、気絶しそうです。日常業務の問題だけでなく、自分で引き受けた学会や研究関係の仕事も多いので、自業自得ですが… 

 何より、日常の授業について、うまくいっていない感が強いのがダメージ大きいです。今年度から望んで新しい立場になって担当科目が変わったのですが、科目内容自体は何年も前から担当してきたものなので大丈夫、と思っていました。対象の学生が変わっただけなので、とくに問題ないはずが、何かかみ合っていない感がぬぐえない。しかも、教室設備までも、自分のやろうとしている授業になんだかハマってこない感も強く感じています。教育対象と教育環境に対応できていない感じです。改善しようにも、膨大・多種多様な仕事のため物理的時間・エネルギーが足りず、かつ毎日の授業や卒論指導、委員長職、論文執筆、学位論文出版、県史編纂などのプレッシャーのため、やる気もなかなか出てこない。なんかおかしいなーという日々が続いています。

 このままじゃあいけないので、この土曜にある月曜振り替え授業から、思いっきり授業のやり方を変えようと思いました。学生が変わったんだ、同じ科目だからって同じ事をしていて万事オッケーなんてことはありえない。授業のやり方を変えたらシラバス(契約)違反のような、負けのような気がしてストレスを感じていたけれど、そんなのは自分のエゴや思い込みなんじゃないか。

 いままで一斉授業とアクティブラーニングを組み合わせた独自の手法(悪く言えば中途半端なやり方)を試していましたが、アクティブラーニングをもっと積極的にやってみようと思います。事前学修の意義説明や指示はこれまでずっとやってきたし(やる学生はしっかりやっているようだし)、幸い、内容に対する学生の関心も高まっているような気がする。実行の準備は整っているんじゃないか。うまくいかなければ元に戻すのは簡単だから、やってみる価値はある、ような気がする。

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