教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

単級教授法という教育方法

2008年07月31日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 現在、故あって「単級教授法」というものを、仕事の合間合間を縫うように研究しています。
 明治期には、就学児童の数に対して教員の数が足りないため、一人で複数学年の児童を教授する必要がありました。教員数の不足の原因はいろいろありますが、一番根本的な原因は、地方で負担されていた小学校教育費が不足していたからです。各地方は、教育費が不足する中で、小学校教育を行わなければなりませんでした。そこで、人件費を節約するため、教員数を減らし、給料の高い正教員より給料の安い補助教員(「授業生」という、教員免許をもたない非常勤講師のような立場)を雇うという工夫をしました。結果、明治の小学校は、正教員を充分に配置できず、各学校での教育の質も政府や府県が保証できないという状況でした。当時は、小学校教育の意味を理解しない人々が多くいましたので、そんな状況では小学校教育に意味がないととられ、国民皆学などとても実現させられません。そのままで放っておけば、日本は、国民を形成できずにバラバラの人々の集まりのまま、西欧列強と比肩できるような国民国家を構成できず、いずれ弱肉強食の国際情勢のなかで滅びてしまいます。このような危機的状況を打開するため、明治20年代に入ると、単級教授法が政策的に必要とされていきます。
 単級教授法とは、単級小学校の教授法であり、1つの学校に1つの学級しかない小学校で1人の教員が教授する方法です。当時の小学校は3年制または4年制ですから、単級小学校には3学年または4学年の児童がいました。普通は、彼らを3つか4つの学級に分けて、1組を正教員1人、別の2組から3組をそれぞれ補助教員2人から3人が教授を受け持っていました。このような現実に対して、単級教授法の考え方は異なる小学校教育のあり方を突きつけました。すなわち、補助教員にそれぞれ学級の教授を任せるのではなく、正教員が一人で児童全員に教授させるべきであり、その方が教授の効果は高い、とするものでした。これは、補助教員を2人余分に雇う代わりに、高い給料を払って力量の高い(と保証される)正教員を雇う方がよいという論理に基づいています。そのために、1学年ごとの児童を組織してつくられた3つから4つの「組」を1つの学級に設定し、この各組を1人の教員が1つの教室で同時に教授するのです。
 単級小学校で教員が向き合うのは、学年も年齢も違う児童たちです。当然、第1学年の児童には第1学年の、第2学年の児童には第2学年の教育目的・内容を実現しなければなりません。教員は同時に最大4学年の授業をしなければなりませんでした。教員が児童全員に同じことをしていては、まったく授業になりません。低学年に合わせた授業をすると、つまらなくなった高学年の児童は隣の児童の邪魔を始め、高学年に合わせると、低学年の児童はさっぱり理解できなくなります。そこで編み出したのが、1つの組(学年)に直接教授する間に、他の2つの組には自習(自働練習)させ、それを1時間の授業の中で直接教授組と自習組とを順次交代させていくという荒技でした。低学年の組に読本の解説をする内に、他の2組には習字をさせる、というような授業を行うのです。単級小学校の教員は、1時間のうちに、3つの授業を同時に進行させなくてはなりませんでした。
 単級教授法には、学校訓育法としての意味も不可分のものとして含んでいました。すなわち、1つの学校・学級において、密接な共同生活を営み、1人の教員の薫陶を受けながら、自ら事を営む習慣を身につけるという意味です。明治初期の知育偏重教育を批判し、小学校令期の道徳的習慣の形成を目指す訓練に教育的意義があることを示しました。また、教授の効果を上げるという意味に限定されていますが、教授法と学級(児童集団)とを結びつけ、教授法における児童集団の把握を促しました。所与の教授内容の定着という限定内ですが、児童の自治的自律的練習の教育的意義を認めています。明治20年代に洗練されていった単級教授法は、歴史的には、教育費節減・教員数確保や単なる教員の妙技にとどまりませんでした。明治30年代以降には、児童の個性を尊重する教育法が編み出されていきますが、単級教授法にはその萌芽を見出すことができます。
 …というような意味を持つ、「単級教授法」を研究しております。
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久々に休み

2008年07月27日 19時42分39秒 | Weblog
 昨日今日はゆっくり休めました。久々の休日の最後は、久々に散歩。
 夏の夕暮れを撮ってみました。カメラ(携帯)を持たずに歩いてたので、取って戻ったときはすでに遅し。ベストショットを撮れなかったッス。それに、携帯ではうまく色合いが出ないなあ。個人的に雲に映えるオレンジ色と、オレンジ色が染み込む青空の色がとても好きでした。…どっちも出てねーや。
 まあ、こういうのは一瞬ものなので、これでいいや。写真からあの色を思い出せればいいのだ。
 さて、来週も忙しいなぁ
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忙しさの質

2008年07月23日 19時26分50秒 | Weblog
 先週の土日は、教育情報回路研究会(教育会史の研究会)に出席するために東北大学へ行ってきました。そして、帰広後の今週は、とっっても忙しいです。
 前任の先輩たちがこの仕事を「忙しい」と言っていた中身がわかるような気がします。4月から5月の頃も同じくらい忙しかったのですが、当時は何もわからなかったので「忙しさ」を自覚できませんでした。今はこれまでの仕事生活を比較対象にできるので、今週の忙しさは本当に忙しいことがわかります。
 今日は、次から次に予定外の新しい仕事が舞い込んできて、とくに忙しく感じました。予定していない仕事が重なってくると、何からやればいいのかわからなくなりますね。何とかこなせましたが、実際かなり混乱していました(苦笑)。かなりムダな動きをしてましたよ(笑)。
 物理的な忙しさよりも、精神的な忙しさの方が、体にキますね~。
 明日も明後日も同じくらいの忙しさになりそう。
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「教育研究活動」とは何か

2008年07月15日 19時49分58秒 | 教育研究メモ
 以下、単なる読みにくいメモです。理解しがたいこと、いろいろ矛盾や論理のブレなど多々あるかと思います(^_^;)。

 概念「教育研究活動」とは何か。
 その意味は、文脈によって異なります。大学の文脈では、「大学教職員による教育活動と研究活動」という意味を持ちます。一方、大学以外の学校や教育団体の文脈では、「教育研究の活動」という意味を持ちます。私は、教育会における研究活動を語る時、後者の意味でこの言葉を使います。
 「教育研究」という言葉は、「教育学研究」の観念的性格を批判する言葉です。この言葉は戦前からあり、著名なものは、阿部重孝「教育研究法」『教育科学』(岩波講座第20冊、岩波書店、1933年)です。ただ、明確に特殊な価値を付与されていくのは戦後に入って以降であり、宗像誠也『教育研究法』(河出書房、1950年)において、従来の観念的な教育学研究を批判し、教育諸問題の科学的研究を指して使われたのが「教育研究」の本当の始まりでした。その後、教職員組合や教育研究団体では、現実的な教育問題の解決を目指す教員たちの研究活動を「教育研究活動」と呼んでいきます。教職員組合はたびたび研究会を開き、教育研究団体は次々に創立され、「教育研究活動」はどんどんと拡大していきます。そして今では、教育学研究の「教育研究」化および左翼的イデオロギーの低迷にともない、価値的な意味を次第に隠して、一般的形式的な言葉となっているように思います。
 私が「教育研究活動」とは何か語る際には、次の二つの概念が重要になります。すなわち、「教育学研究」と「教育研究」です。単純化しすぎだとも言われると思いますが、教育学研究と教育研究を次のように定義します。ここでは、教育学研究とは、教育に関する事実を認識し、認識の結果得られた知を体系化することを目指す研究とします。教育研究とは、教育諸問題に関する事実を認識し、認識の結果得られた知を用いて問題解決を目指す研究とします。
 私が「教育研究活動」に注目する理由には、大きく二つあります。第1の理由には、大学や師範学校における教育学研究活動と、教育団体における教育研究活動とを区別するためです。大学と教育団体における研究活動は、同じではありません。両者の違いを認識することによって、教育に関する知の体系化を目指す教育学研究と現実問題の解決、および現実的な教育問題の解決を目指す教育研究と知の体系化との隔たりについて、問題化することができると考えます。知の体系化と問題解決を遂行するには、それぞれ専門的な知識・技能・経験を必要とし、一人の研究者、一つの機関がカバーできるものではありません。教育学研究と教育研究は区別されるべき概念です。
 私が「教育研究活動」に注目する理由の第2には、教育学研究と教育研究とを連結させて、相互を補完するよう捉えるためです。問題認識を志向してもその解決を必ずしも志向しない教育学研究は、社会から孤立し、教育実践や教育行政の現場から無用視されます。知の体系化を志向しない教育研究は、それぞれの研究が互いに無関係となり、不毛な作業を繰り返して、研究者のエネルギーを非効率的に消費していきます。教育学研究と教育研究とは、それぞれ十全に機能するためには、互いに欠点を補完し合うべきなのです。
 教育学研究と教育研究が出会う場面は、教員養成・研修・収容といった教員の資質形成・向上の過程、または教育政策の形成・決定・立法・実施といった政治過程にあります。そのような過程は、教育会における教育研究活動に見出せると考えています。
 私がこの両義的な言葉を使うのは、次のような意図からです。教育団体に関わる大学人には、自らは教育研究を行っているのだということを自覚して欲しい。実践家には、教育学研究を無視して教育研究を行うことがどれほど不毛か気づいて欲しい。私にとって、教育研究活動という言葉は、教育学研究と教育研究をつなぐ言葉であり、両者の理想的関係を現す言葉です。冒頭で述べた「教育活動と研究活動」という意味の教育研究活動は、「教育・研究活動」とでも称して欲しいくらいです。
 私は、学校や研究所を超えたところにある教育団体において、その理想的関係が実現する可能性があるのではないかと考えています。だから、教育会における研究活動を分析する視点は、なるべく「教育研究活動」という言葉で表現しようとしています。純粋に歴史的事実を説明する時は、単に研究活動と称してきたつもりです(ブレがあるかもしれませんが…)。私が教育会研究において「教育研究活動」という言葉を使うとき、その言葉は、そのまま私の問題意識を含んでいる研究視点なのです。
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日本科学史学会編『科学史研究』に掲載されるまで

2008年07月08日 23時55分55秒 | 研究業績情報
 仕事が忙しくなってきました。
 さて、ご存知の方もおられると思いますが、ようやく私の2本目の全国レフェリー論文(審査を経て全国誌に掲載された論文)が活字化されました。

 題目:「1880年代における西村貞の理学観の社会的役割―大日本学術奨励会構想と大日本教育会改革に注目して」
 掲載誌:日本科学史学会編『科学史研究』第47巻No.246、岩波書店、2008年6月、65~73頁。

 題目にある「理学」というのは、明治期における“science”の一般的訳語で、今でいう科学のことです。本論文は、科学の制度化が世界的に同時進行していた1880年代において、専門諸理学(科学)の連携を想起たらしめた西村貞の理学観を、その社会的役割、すなわち組織(大日本学術奨励会・大日本教育会)形成・改革における役割に注目して明らかにしたものです。
 論文内容は、日本科学史の問題意識に基づいて構成されていますが、日本教育史・日本教育学史の問題にも基づいています。西村は、イギリスの大英学術振興協会(BAAS)を参考にして大日本学術奨励会を構想しましたが、そこに当時BAASにはなかった「教育部門」を立ち上げようとしました。この独特の科学組織の構想は、西村独特の教育理論における理学観を基盤として構成されています。そして、このような理学観を基盤とした科学組織の構想は、大日本教育会の改革の思想的背景の一つになっていました。
 と、おおざっぱに述べれば、こういう論文です。この論文は、多くの方々に支えられて活字化されました。そもそもこの論文は、2005年春から2006年春にかけて、『教育学研究ジャーナル』や『日本教育史研究』に投稿した内容が出発点になっています。この間、多くの先輩からアドバイスや直接の指導をいただき、両誌の査読者から貴重な意見をいただきましたが、結局、両誌ともに掲載できませんでした。
 その後、いろいろ考えた末、『科学史研究』へ投稿しました。2006年8月に受理されましたが、その後もすんなりいきませんでした。『科学史研究』の最初の審査結果は、大幅修正後の再審査。さらに2回の大幅修正の指示をうけ、論文を大幅に修正。当時は頼れる人もおらず、ほぼ孤軍奮闘状態でしたが、時々先輩に感想をいただくことができました。また、『科学史研究』の編集委員や審査員には、審査の度に有益なアドバイスや批判をいただきました。幅広い人材をカバーする日本科学史学会の会員構成、『科学史研究』の刊行回数の多さ、審査受付期間の長さ、審査基準の明確さなど、制度的な部分にも物理的・精神的に助けられた思い出もあります。今回の論文は、そういった過程を経て、足かけ約2年(前史を含めれば約3年)かけて、やっと、やっと、活字化にこぎつけることができたものです。
 直接声をかけてくださった先輩方や先生方、各学会・研究会の審査員および編集委員の方々の支えなくして、この論文はありえませんでした。忙しい中、私の研究につきあってくださり、本当にありがとうございました。こんな場ですが、ひっそりと感謝の言葉を述べたいと思い、記した次第です。
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中島泰蔵―教育学者でもある心理学者

2008年07月03日 21時41分58秒 | 教育研究メモ

 仕事の内容を書けないので、ほぼ毎回「大日本教育会・帝国教育会の群像」(略して「群像」)の話題ばかりになるこの頃。
 数日ぶりに「群像」の記事を追加。今日は「中島泰蔵」という人物。彼は、明治大正期の実験心理学者です。会員であった期間はハッキリしてないのですが、帝国教育会の高等学術講義会で心理学を講じ、かつ帝国教育会編『公徳養成』の起稿者としての役割を果たした人物です(『公徳養成』については、白石崇人「明治期帝国教育会における道徳教育研究活動」中国四国教育学会第58回大会レジュメ、2006年11月を参照のこと。※このレジュメは、ネット上のある場所に期間限定でPDFを公開しております)。「群像」の記事を書き始める時はそれほど気にしていなかった人物なのですが、まとめてみると印象が一変しました。今ではとても興味深いなと感じています。
 中島の専門は心理学なのですが、『公徳養成』を起稿した当時、慶應義塾で教育学の講師もしていました。後には倫理学の講師をすることもあったようです。つまり、中島は単に心理学者として捉えられない専門性を持っていたようです。そもそも、明治期の東京帝国大学の教育学は、哲学の一部でしかありませんでした。同じように、心理学も倫理学も哲学の一部でした。教育学も心理学も倫理学も、今ほど専門分化していなかったのです。心理学を専門とする中島が、教育学を講じられたともいえます。ただ、『公徳養成』の起稿者が誰でも良いわけはありません(文部省諮問から端を発した全国連合教育会の依頼が背景にある程の事業ですから)。わざわざ中島を選んだ、というところにミソがあるのかもしれません。
 中島が『公徳養成』の起稿者に選ばれた理由は、資料不足および私の専門的知識不足(とくに心理学)のため、詳しくはまだよくわかりません。ただ、アメリカで心理学を修め、帝大教授・元良勇次郎の下で研究を積み重ね、慶応で教育学を講じていたという彼の履歴が関係していたのは大きいでしょう。心理学に通じているだけでなく、教育学も教えられる程の知識があることを、中島の履歴は示しているからです。また、直前に開かれていた高等学術講義会で講じていた「近世心理学」の内容も、その選考材料だったのかもしれません。その内容は『教育公報』にも別に著作にもなっていないのでハッキリしません。ただ、従来の心理学の性格が哲学的・倫理学的心理学と説明されているように、「近世心理学」もまたそのような内容だったのではないかと思われます。さらに言えば、それまでの教育学は、心理学的教育学とすら呼ばれるほど、心理学の成果をそのまま内容の大半とする場合もありました。それらを総合して考えると、新しい社会的道徳を養成する理論・方法をまとめる役割を、心理学・教育学に通じた中島に求めた理由もわからないでもありません。
 まとまらない考えをぶちまけてみました。『公徳養成』の分析で何か言うには、まだまだ資料と研究が足りないなぁ。

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