仕事をしていると、いろんな問題が起こるもんですね。来週、がんばって乗り越えます。
さて、本日は、沢柳政太郎のこの名言を紹介。
「教科書に使役されて、教科書を授けるための教師となってはいかぬ。」
「教科書は使うものであり、使われてはならない」とは、授業者としての教師のあり方を示す言葉として、今でも現場でよく言われる言葉です。私も授業実践をしていていつもこの言葉の大事さを思い知らされます。
この類の言葉の早い使用例が見られるのが、沢柳政太郎の『教師及校長論』(1908年)です。沢柳は、教科書をそのまま教えて満足している教師に対して、「そういう教え方をしている君。子どもはこう思っているぞ。『この先生より教科書の方がえらい』とね」と警告しました。また、次のようにも言っています。教育においては、教師が主であり、教科書はその道具である。教師は教科書の奴隷ではない。教科書を使いこなさねば生きた教育はできない。教科書を自由に使いこなすには、教科書の十分な研究(教材研究)が必要である。
これは、教育内容や教室における教え方に関する教師の自律性を示す言葉です。教師の専門性を考える上では、無くてはならない言葉だと思います。沢柳が初めて言ったのかどうかはわかりませんが、当時の教師に対して強い影響力をもっていた沢柳がこれを言ったことの意味は大きいでしょう。なお、沢柳のこの名言の意味は、教師の勝手に教科書・教材を扱って良い、という意味では決してありません。しっかり教材研究し、教材を使いこなすべきという意味なのには注意してください。
教師は、教科書(教材)を十分研究して教科書(教材)を使いこなすことで、はじめて子どもたちを本当に教育することができる。よりよい授業実践を求めて教壇に立っている教師なら、誰もが理解・共感できる言葉だと思います。
ちなみに、教育史研究者として、この発言のどこが面白いかというと、国定教科書時代・権威主義的時代にこういう風に言っているというところです。この部分の掲載されている『教師及校長論』は、当時の教員社会の大ベストセラーの一つです。ということは、後の教育社会のリーダーとなる沢柳が、国定教科書に使われてはならない、使いこなすのだ、と主張し、それを多くの教師が同調・共感したわけです。
この言葉の直接の対象は主に中等教員のようですが、初等教員も読んでいたはずですから、国定教科書の話をもってくるのもあながち間違いとも思えません。(国定教科書を直接批判してはいけないので、中等教員対象に見せかけた可能性もあるかもしれません) 国定教科書時代、教育目的・内容へのアクセスができなくなったと通説では言われていますが、学説・現場レベルではどんな感じで受け止められ、運用されていたのでしょうね。…というより、国定時代だったからこそ、大事にされた言葉なのかもしれませんね。
「教科書に使役されて、教科書を授けるための教師となってはいかぬ。」
沢柳政太郎「教師と教科書」(『教師及校長論』同文館、1908年)より。
(『教師と教師像』沢柳政太郎全集第6巻、国土社、1977年、86~90頁)
※句読点・濁点は付け直し、旧字体はなるべく新字体へ書き直した。
教師は主で教科書は器械でなければならぬのに、教科書が主で教師は恰[あたか]も生徒に向て教科書を解釈取次するものに過ぎないやうな有様が実際存して居る。しかも何人もこのさまを見て怪まない。教師自身もかく思うて居る。考へて見ると驚くべきことである。この弊は中等の学校に於て特にひどい。教師自身が教科書の奴隷を以て甘んずる次第であるから、生徒が教師よりは教科書をえらいと考えるのは無理もない。
教師が教室にのぞんで今日は何枚目からはじめると宣告するのは、即ち教科書の取次者たるを表明するものである。この学期には予定の如く教科書を終ることの出来たのは満足であるといふのも同様の思想から出て来て居る。[略]
教科書を授けるのが教授ではない。教科書の内にかいてある事項や理屈を教へるのが教授である。否、教科書の内にのって居る材料をかりて生徒の思想を開発拡充するのが教授である以上は、教師は成るべく直接に生徒の思想に向て働くことをせんければならない。教科書とにらみ合をし、首引をして居り、もし教科書をとられたならば仕事が出来ないやうではいけない。[略]つまり教師は教科書に拘束されて少しも自由自在に且、臨機応変に働いて行くことが出来ない。前に申したやうに、教師は教科書を講釈する道具にすぎない観がある。洵に憐むべきである。
全体、教師は生徒を教授するものであり、生徒は教師より教授を受くるものである。即ち、教授は教師と生徒との関係である。唯、方便として図書、器械、標本等を使用することがあるのである。然るに実際に於ては、教授は教科書と生徒との関係で、教師は唯その教科書を生徒に理解せしむる媒介者に過ぎない。故に教師は生徒を教授するものにあらずして、教師は生徒に教科書を紹介するものであるといふ有様である。教師は直接に被教育者に対するものにあらずして、中継ぎ人たるに過ぎない状態である。果して然らば教育の定義にいふが如く、教師は被教育者に直接に影響を及ぼすものでない。これ即ち教師が教科書の奴隷となり居るためである。軽重本末を誤て居るためである。少しく酷にいふと中継媒介者ならばまだしもよけれど、書物に使役されて居るものに過ぎない観がある。[略]
教師も生徒も教科書に拘束されて居るやうでは本当でない。[略]教師は教科書を見ずして自由自在に教授してもらひたい。生徒も皆教師を見つめて教師の教授に注意して本を開くに及ばないやうにしたい。唯教科書は復習のとき、教師が前に居ないときに参考する位にしたい。分らぬ事柄があったら事柄そのものを取て教師に質さすやうにするがよい。[略]教師たるものはかく質問するやうに生徒を指導してもらひたい。
教師が教科書に使役されずにこれを使役しやうとするには、教科書を放棄して置いては出来ない。能く教科を諳誦する位にこれをのみ込まねばならぬ。教科書を見ずに教へるには、予め充分よく教科書を研究して置かねば出来ぬ。既によく教科書を研究して諳誦する位になれば、そこで初めて教科書を自由に使役することが出来る。かくて教授は活発に自在に面白く為すことが出来る。教科書に束縛されて居る間は、とても活発な面白い教授は出来ない。洵に活気のない死んだ教授より出来ない。畢竟、教科書に使われるは、それを使ふだけによく研究してないからである。[略]教科書の効能はこれを利用して現はれ、これに使役されては没する。
[略]もし教科書に誤があった時には、教師は訂正して教ふることが出来るか。[略]次に教科書の内にあることを加除して教ふることが出来るか。[略]かく教師はその見込に依り教科書を活用して行かなければならぬが、教材を加除し順序を変更するが如きは軽々しくなすべきではない。能く研究して確乎たる見込がある場合に限るべきであって、決して容易に勝手にしてよいというふ次第ではない。要するに、従来よりも一層能く教科書を研究し、よく之を活用すべきである。決して教科書に使役されて、教科書を授けるための教師となってはいかぬ。