教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(4)

2011年09月18日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 この数回毎日投稿できているのは、予約投稿を使って投稿しているためです。

 さて、最後の部分です。


(2)目標としての「先生」―先に生きる者
 子どもたちの生活習慣の獲得・改善方法は、教育学では、伝統的に学校管理法(school-management)・訓練(discipline)論のなかで論じられてきた。日本における学校管理法・訓練論は、1880年代頃に、19世紀イギリスで形成されてきたそれらを輸入することから本格的に始まった。19世紀イギリスでは、教師の人格を契機とする規律訓練によって子どもの統制を行い、様々なルールや道徳を身につけていくことが目指された。その際に重要な条件として挙げられたのが、教師の権威(authority)であった。権威は、子どもの教師に対する愛着・尊敬をともなって、始めて十分に機能すると考えられた。たとえば、子どもたちは、尊敬する教師を喜ばせたいために、ルールを守る。そのため、ルールを守らなくてはならないといった拘束力は、依存者(教師に依存する子ども)の意志となって、はじめて発生する。いわば、子どもたちの教師に対する愛情・尊敬・共感が、次第に義務感に転じ、責任感へとつながっていくのである。
 子どもが保育者にいつも依存するように仕向けては別の問題が生じてしまうが、幼児の発達・保育上では、ある程度の依存は必要である。保育者は、子どもにとって、自分にはできない様々なことができる「あこがれ」の存在であり、尊敬の対象になることが目指される。モデリングにしても「まね」にしても、対象への興味・関心が出発点となる。保育者が「あこがれ」や尊敬の対象となった時、保育者はその子の成長の目標となり、常に興味・関心が向けられることになる。そして、子どもは保育者の「まね」をし、様々なことを経験し、学んでいく。子どもの自主性に支障をきたさないように気をつける必要があるが、保育者は、子どものよりよい教育・保育のために、子どもの「あこがれ」や尊敬の対象となりたい。子どもの「あこがれ」や尊敬の対象になるには、普段から子どもたちに見えるところで生活し、常に関わっていくことが大前提だろう。また、保育者自身の得意なこと(歌・ピアノ・運動・製作など)を子どもたちに見せることも有効である。保育者が自分の得意分野を伸ばすことの教育的意義は、ここにある。
 もう一つ、別の観点から考えるために、保育方法の一つ「生活誘導」を取り上げる。生活誘導法とは、戦前日本において、倉橋惣三が、「生活を、生活で、生活へ」という標語の下に提唱し、実践現場へ導入した方法である。倉橋は、幼稚園の生活「を」、子どもたちがさながら(そのまま)に生きている生活に合わせていくこと「で」、目標としての生活を実現「へ」と向かわせることを目指した。すなわち、この場合の幼児教育・保育とは、子どもたちの生活(発達状況・興味関心など)に応じて、園生活(教育・養護)を計画・実行し、望ましい生活へと子どもたちを誘い導いていくことである。
 子どもたちの生活を望ましい生活へ誘導していくには、保育環境が重要になってくる。物や友だち、そして大人の生活といった物的・人的環境が、子どもたちの生活を誘導していく。重要な人的環境の一つは一緒に生活する大人である。園生活で子どもたちと一緒に生活する主要な大人は、保育者である。保育者は、一定の目的・目標を実現するための人的環境として、目的・目標にもとづく望ましい生活を体現していなくてはならない。子どもたちを望ましい生活へ導くには、保育者が、その望ましい生活を子どもより先に生活化していなければならないのである。その意味で、保育者は、子どもにとっての「先生」すなわち「先に生きる者」でなくてはならない。
 なお、保育者はただの生活者ではない。子どもが生活に参加する中で、そのつまずきや困難を乗り越え、成功や喜びを経験する機会を捉え、支援していかなくてはならない。その意味では、「先に生きて、子どもたちを導く者」でなくてはならない。

 以上、保育者の人格・行動様式(習慣)が、どのような教育的意義を持つか検討してきた。望ましい人格・習慣を全て備えた完全な人間は、この世には存在しない。当然、保育者もまた、聖人君子・完全無欠の人格・習慣を得ることはできない。しかし、少なくとも、自らの人格・行動の改善を求めていく必要と責任とを、保育者は有しているといえる。
 保育者の人格・習慣は、無意識的・無意図的に機能する潜在的カリキュラムであると同時に、意識的・意図的に機能させ得る顕在的カリキュラムにもなり得る。保育者の人格・習慣は、子どもを変え得る人的環境であり、教育方法であり、教育内容である。そのため、保育者は、子どもと自らの職務に対して、自らの人格を高め、習慣を整えていく責任を負っているのである。

<(1)~(4)までの主要参考文献>
倉橋惣三『幼稚園保育法真諦』東洋図書、1934年(『幼稚園真諦』倉橋惣三文庫①、フレーベル館、2008年)
佐藤学『カリキュラムの批評―公共性の再構築へ』世織書房、1996年。
森上史朗・吉村真理子・後藤節美編『保育内容「人間関係」』新・保育講座、ミネルヴァ書房、2001年。
橋川喜美代『保育形態論の変遷』春風社、2003年。
江川玟成・高橋勝・葉養正明・望月重信編『最新教育キーワード137』時事通信社、第12版2007年。
浜口順子編『事例で学ぶ保育内容〈領域〉表現』萌文書林、改訂版2008年(初版2007年)。
ヴォルフガング・ブレツィンカ(小笠原道雄・坂越正樹監訳)『教育目標・教育手段・教育成果―教育科学のシステム化』玉川大学出版部、2009年。

(「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する」了)

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(3)

2011年09月16日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 幼児教育・保育では、子どもの生涯にわたる人格・生き方の基礎となる、習慣的な行動様式・考え方などを身に付けることを目指します。生活習慣に関する指導・支援は小学校以降の教育でも大事ですが、幼児期に形成された習慣の重要性を考えると、幼児教育・保育におけるそれの重要性は小学校以降の比ではないと思われます。保育者は、幼児教育・保育の担い手だからこそ、より「子どものモデルになる」必要があるように思います。


2.子どもに対するモデル―「先生」という教育方法

(1)子どもの「まねる」力にもとづく保育
 保育者は、常に子どもに見られている。そして、まねをされる。幼稚園ごっこの先生役をしている子どもが、実は自分(観察者である保育者)のまねをしていた、というのはよくあることである。「まね」は、創造性のない行為として低く評価されがちであるが、その実、見たり体験したことを子どもなりに理解・記憶・再現するという高度な知的・情緒的行為である。他者の行動を観察しながら、その行動を学ぶことをモデリングという。モデリングは、興味関心をもつ対象へ注意を向け、観察し、同じ事をやってみようとする主体的行為であり、他者から刺激を受けて自分の行動をより豊かにする学習方法の一つである。悪意ある「まね」は論外であるが、ある意味、「まね」はモデリングの別名と言える。子どもは、保育者をまねて、様々なことを学んでいるのである。
 生活習慣とは、基本的には、大人のすることの見よう見まねによって獲得される。生活習慣の指導やしつけは、保育者が自分自身の生活の仕方を子どもに見せることから始まる。保育者は、子どもに生活の仕方(模範)を見せ、人間としてどのように生きるかを示すことについて、これを自らの役割と自覚しなければならない。
 善い生き方を被教育者へ伝える方法は、東洋世界では伝統的に、教育者の「徳」による感化を重視していた。「徳」とは、本性のままの素直な心にもとづく行いを意味する。「徳」という漢字は、「彳(テキ)」と「直(チョク)」と「心(シン)」とで成る漢字である。「直」は、「│」と「目」を足した会意文字であり、まっすぐ目を向けることを示す。「心」は、心臓を示す象形文字であり、すみずみまでしみわたる働き精神をあらわす。この「直」と「心」を足した「悳」は、本性のままの素直な心を意味する。これに「彳」を加えたのが「徳」であるが、「彳」とは、十字路をあらわす象形文字であり、進み行くことや道路をあらわす記号である。「徳」とは、頭でわかっているだけの善い生き方に関する知識ではなく、善い生き方・行為そのものを指し、さらにその行為を習慣的に行わしめる性格や能力をも指す。つまり、被教育者に善い生き方を伝えるには、教育者が善い生き方を説くのではなく、善い生き方そのものを自ら実践することが必要だというのである。
 子どもの「まねる」力や伝統的な感化論に注目すると、普段から何気なく行っている保育者自身の行動や振る舞いを子どもへ見せることは、子どもが生活習慣を身につける方法としてかなり重要な方法であることがわかる。その際に子どもに伝えられる内容とは何か。それは、保育者自身の生活そのもの、すなわち人格や行動様式にもとづく普段の生き方である。保育者の人格や行動様式が、保育内容になるのである。
 この考え方にもとづくと、身につけさせたい生活習慣の内容をただ教えるよりも、保育者自身がその習慣を実践して子どもに見せていくことの方が望ましい。無意識に見せてしまっているものも多いわけだが、見せることの教育的意義を知ったからには、できるだけ意図的に見せていくことを考えたい。例えば、子どもに「ありがとう」と言いましょう、と教えるよりも、保育者自身が子どもに用を頼んで「ありがとう」と感謝する場面を意図的に作ってみたい。
 (以下、続く)

<主要参考文献>
(略、「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(1)」を参照のこと)

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(2)

2011年09月15日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 人とチームで仕事をするのって、難しいですね。でも、一人ではできないことができるのはすごいことですね。

 さて、以下、昨日の続きです。


(2)潜在的カリキュラムとしての保育者
 保育者の人格・行動様式は、子どもに大きな影響力を有するというのは、伝統的にも実際的にも確かである。実は、保育者(教師)の人格・行動様式が子どもの認知的変容とどのように関係しているのかは、きちんと実証されているわけではない。潜在的カリキュラムの効果は非常に複雑であり、教師の人格・行動様式の影響を特定することは難しいからである。ただ、両者の関係についてわかっていることもある。わかっているのは、子どもたちに現れる教育成果は、教師の行動様式の豊かさに依存しているということである。
 よい教育をするためには、教師が、様々な子どもや環境の状況に応じて、適切に判断・行動することができなくてはならない。保育者は教育の担い手でもあるから、保育者についてもこのように言えるだろう。教師・保育者のこの人格要素がこのように影響する、この行動特性がこのように子どもを変える、などのようには明確にわかってはいない。しかし、少なくとも保育者は、子どもにとっての適切な判断・行動について様々に理解し、それらを自ら実行できる力量が求められることは間違いない。
 保育者の持つ潜在的カリキュラムには、次のようなものが挙げられる。すなわち、①子どもへの接し方、②発言・発問様式、③指導の熱意、④クラス経営の姿勢、⑤服装・髪型・所持品、⑥生き様・生活態度、⑦体験談、⑧口調・行動様式・しぐさ・癖、である。これらが潜在的カリキュラムとして機能し、様々な教育的・非教育的(教育的でない)・反教育的(教育的に反する)影響を与えている。
 子どもへの接し方には、子どものかかわりを促すものと妨げるものの2種類がある。かかわりを促すような(子どもがかかわりたくなるような)接し方の条件には、技術的な面も無視できないが、根本的には、安心感を与えるような受容的態度、共同意識や場の共有による親しみ、子どもの興味を引き出すような魅力などがある。これらは、保育者本人が自覚しているよりも、「優しそうな先生」「おもしろそうな先生」などのように、子どもにそう見えることが重要である。自分では受容的だと思っていても、子どもにそう見えなければ意味がない。かかわりを妨げるような(子どもがかかわりにくいような)接し方の条件には、子どもに不安・恐怖・警戒・無関心を与えるような態度などがある。これらの接し方によって、子どもたちに様々な教育的・非教育的・反教育的影響を与えていることを意識しなくてはならない。
 保育者の発言・発問様式については、子どもの知的発達上、重要な意味を有している。たとえば、「それでいいの?」「どういうこと?」などの発問様式については、子どもが自ら問題解決をしている際に機能する思考様式に影響していく。保育者が物事に関心薄く、あまり問わない場合、子どもたちに物事を問う態度・思考様式は育ちにくくなる。
 指導の熱意やクラス経営の姿勢については、子どもたちの活動意欲や子ども-保育者関係のあり方などに影響するものと思われる。例えば、保育者が子どもの指導やクラス経営に消極的であれば、指導機会が減少するだけでなく、「先生は自分を見ていない」と子どもが感じ、子ども-保育者関係が十分に形成されない可能性がある。保育者が子どもの指導やクラス経営に熱心であれば、子どもが保育者の意図や期待に共感・反応して、活動意欲を高めることもある。ただし、保育者が的確な子ども理解を欠いて、熱心に行う指導や支援が子どもの発達状況に応じていない場合は、子どもの活動は適切に引き出すことはできない。熱心でさえあれば、子どもの活動意欲を高めるわけではないのである。
 服装・髪型・所持品、生活態度、口調・行動様式・しぐさ・癖、およびそれらを口述した体験談などについても、子どもの発達上(とくに生活習慣の形成上)重要である。これについては後述する。
 潜在的カリキュラムは、一般的に、無意識的・無意図的なものである。そのため、コントロールすることは難しい。しかし、保育者の潜在的カリキュラムは自分自身のことである。意識することさえできれば、自分である程度コントロール可能なはずである。意識するには、自分の言動が子どもたちにどのように影響しているのか、常に確認していく努力が必要であろう。自分の言動の教育的意味を知ったとき、よい影響は維持・促進し、悪い影響は改善したいと思うはずだからである。
 (以下、続く)

<主要参考文献>
(略、「子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(1)」を参照のこと)

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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子どものモデルになることとは?―保育者(教師)自身を計画する(1)

2011年09月14日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

(以下、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

 

 保育者・教師には誰でもなれるわけではない。これは、必ずしも知識・技術面での問題だけで言うのではない。古来より、保育者・教師には、優れた人格と行動が必要とされてきた。現在も、昔ほどではないが、やはりある程度の人格・行動を求められている。
 なぜ保育者・教師は、優れた人格・行動を求められるのか。それは、保育者・教師の人格・行動は、保育・教育方法の一つであり、保育・教育内容の一部であるからである。保育者・教師は、自らを人間のモデルとして、子どもへ示していく。より優れた保育・教育をするためには、優れた教材や教育方法だけでなく、保育者・教師自身の優れた人格・行動も必要である。「子どものモデルになる」ということは、保育者・教師が保育・教育方法及び内容としての自らの人格・行動を自覚し、自らそれを教育課程の中に取り込んで、実行することである。
 ここでは、保育者の人格・行動様式(習慣)が、保育上どのような意味を持つか論じる。まず、潜在的カリキュラムの理論について確認し、保育者の人格・行動様式がどのように教育的影響力を持つか明らかにする。次に、誘導保育の理論を参照しながら、保育者が子どものモデルになることの意味について明らかにする。

1.保育者という保育方法・内容

(1)潜在的カリキュラムとは
 保育者は、保育方法・内容を駆使して保育する主体であると同時に、自らが保育方法・内容でもある。この考え方を理解するために、潜在的カリキュラムという概念を確認しておきたい。
 潜在的カリキュラム(隠れたカリキュラム、ヒドゥン・カリキュラム、hidden curiculum)とは、教育課程や計画などの顕在的カリキュラムとは別に、無意識・無意図的に被教育者へ伝わる知識・行動様式・思考様式などの内容、およびその過程である。例えば、ある保育者が子どもたちには協力の大事さを口頭で伝えながら(顕在的カリキュラム)、同僚保育者と反目し合い、協力し合わないため、子どもたちに「協力とは、先生の前ではしなくてはならないが、本当はそれほど大事ではないのだ」という暗黙のメッセージを発してしまうようなことをいう。この例のように、潜在的カリキュラムにはプラス・マイナスの両面があり、それぞれポジティブ潜在的カリキュラム(PHC)・ネガティブ潜在的カリキュラム(NHC)と呼ぶ。とくにネガティブ潜在的カリキュラムは、非教育的・反教育的経験を含み、顕在的カリキュラム以上に影響力を持つことも多い。
 保育者は、月案・週案・日案などの顕在的カリキュラム(教育課程)を常に編成し、実行していく。潜在的カリキュラムを含めて教育課程を編成することは困難である。潜在的カリキュラムは、事実の中に隠れており、容易には認識できないものだからである。しかし、潜在的カリキュラムの認識・意識化には、子どもの実感から学習経験を広く捉え直すという重大な意義がある。教育目的・目標の実現を形式的なものに止めず、本当に実現するためには、潜在的カリキュラムを意識することは必要である。
 潜在的カリキュラムは多様である。例えば、園風(校風)、園舎・保育室・遊戯室(教室)等の雰囲気、施設設備、クラスの子どもなども潜在的カリキュラムとなりうる。言い換えれば、潜在的カリキュラムは、非教育的・反教育的なものも含む保育環境の教育的意義であると言える。そして、この潜在的カリキュラムのうちで影響力の大きいものは、保育者自身である。
 (以下、続く)

<主要参考文献(続きの内容の分も含む)>
倉橋惣三『幼稚園保育法真諦』東洋図書、1934年(『幼稚園真諦』倉橋惣三文庫①、フレーベル館、2008年)
佐藤学『カリキュラムの批評―公共性の再構築へ』世織書房、1996年。
森上史朗・吉村真理子・後藤節美編『保育内容「人間関係」』新・保育講座、ミネルヴァ書房、2001年。
橋川喜美代『保育形態論の変遷』春風社、2003年。
江川玟成・高橋勝・葉養正明・望月重信編『最新教育キーワード137』時事通信社、第12版2007年。
浜口順子編『事例で学ぶ保育内容〈領域〉表現』萌文書林、改訂版2008年(初版2007年)。
ヴォルフガング・ブレツィンカ(小笠原道雄・坂越正樹監訳)『教育目標・教育手段・教育成果―教育科学のシステム化』玉川大学出版部、2009年。

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「子どものモデル」という教師・保育者論

2011年09月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 一昨日・昨日の記事は、若干異質な論が同一記事内にあるように感じたので、分割・統合しました(統合時に少し修正)。

 保育者養成において、小学校以上の教員養成ではあまり強調されないテーマの一つに、「子どものモデルになる」というテーマがあります。保育者養成に携わるようになって、私が一番面食らったのがこのテーマでした。もちろん私も感覚的にはそう思ってはいましたが、そんなに切実には考えていませんでした。しかし、保育者養成校では日常的テーマであり、とくに実習先で強烈に求められます。責任の重い実習担当・理論系科目担当として養成現場にいる者として、私も切実に考えざるを得ない状況になりました。

 このテーマは、戦後教育学の先行研究を調べれば調べるほど、十分に説明されていないと感じています。教師は子どものモデルである、ということは一般的に言われ、確かにそういう事実は存在します。そして、合理的な否定をすることもおそらく困難でしょう。しかし、戦後の教育学ではあまり研究されず、教員養成でも合理的には教えられてきませんでした。
 その理由はいろいろあるでしょうが、大きくは3つあるだろうと思います。第1には、教育学や教育現場が戦前の聖職的教師像を避けるあまり、人格主義的な教師像全般を適切に位置づけることを避けてきたからだろうと思います。
 第2には、戦後ずっと教育学の主流を占めてきた、教育科学の影響が強いのではないかと思います。戦後の教育学は、大学内部における地位向上のため、自ら科学であろうと努力してきました。「子どものモデル」というテーマを考えようとすると、人格主義的・精神論的・非合理的な論考になりやすく、また因果関係が複雑で分析しにくく、数量化するのはおそらく不可能です。そのため、教育学で真っ向から取り上げるのは、避けられ続けてきたのではないではないでしょうか。
 第3に、「子どものモデル」であるという事実がもっている重さ、教師の実感からくるあきらめです。明治末期から大正期頃、「自分は子どものモデルになり得ない」と自己批判して苦しむ教師や教職を離れる者が現れるとともに、子どものモデルとはいえない教員の現実から、その欺瞞性・偽善性に苦しむ教師が現れました。そういった人々が新教育にのめり込んでいきます(浅井幸子『教師の語りと新教育―「児童の村の1920年代』東京大学出版会、2008年)。昭和戦前期には抽象的概念や超国家主義的思考によって少し状況が変わった(ごまかす?)ようですが、実態的には「教師が子どものモデルになることは理想だが、実際には無理がある」という思考様式は続いたのだろうと思います。この教師の実感からくる「あきらめ」の思考様式は、戦後教育界にも引き継がれたのではないでしょうか。

 「子どものモデルになること」は、保育者養成の現場で強く求められています。近年の教育政策や教育委員会が掲げる「求められる教師像」には、人格を重視する項目が目立ちます。実際の社会においても、保護者の人格的未発達、家庭・地域の教育力不足、代表的モデルとしての英雄・偉人の不在など、身近なモデルが不足しています。これまで養成現場で避けてきてもそれほど問題にならなかったのは、学生の一般的資質がある程度確保されていたために「言わなくてもわかるだろう」が通用したからであるとともに、社会が教員の人格的問題を見過ごしてきてくれたからでしょう。しかし、今の養成現場では「学生が変わった」と学生の質が、今の日本社会では教師の人格的問題が、日常的な問題となっています。「子どものモデルになる」というテーマは、教員・保育者養成の要の一つである教育学の責任として、研究すべきテーマなのではないでしょうか。

 ということで、何回かに分けて「子どものモデルになることとは?」と題し、記事にしていきます。記事の内容は、最近、時間をひねり出して必死で書いている講義用テキストの内容の一部です。研究というよりレポートみたいなもので、殴り書きのため練られた文章ではありませんが、現職教員・保育者の参考になったり、教員・保育者志望者の自覚を促したりすれば幸いだと思うので、公開します。ついでに、誰か本格的に研究する教育学者が出てこないかな、または私が知らなかった研究情報が入らないかなと期待もしております(笑)。

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長い出張でした…

2011年09月04日 21時46分40秒 | Weblog

 何とか帰り着きました。

 午前中は岡山にいました。鳥取に帰るには、因美線で鳥取市へ行くか、伯備線で米子市へ行くしかないのですが、本日も両方とも運休状態…
 夜中の最終便のやくも号だけ運行する予定にはなっていました。しかし、鳥取空港に車を置いたままだったので、いったん鳥取市に行かないといけません。そうなると、夜中に米子に着いてもどうしようもないので(便がない)、電車(山陰的には「汽車」ですね)は見限り、高速バスにしました。

 高速バスの方も、鳥取市への直通便は全部運休でした。仕方ないので、米子へ。米子から山陰本線に乗って、鳥取市へ。飛行場へ車を回収しにいって、帰宅。天候はそれほどきつくなかったです。何で何日も足止め食ったんだろうとつい思ってしまいそうな、普通の状態でした。
 これまで降っていた大雨がすごかったんでしょう。川の濁流からかろうじて想像できる程度でした。ニュースになっていた崩れた川の堤防も、バスの車窓から少し見えました。
 川の氾濫などで被害にあった方には、謹んでお見舞い申し上げます。
 後で知ったのですが、因美線は線路あたりに土砂が出て、止まってたそうです。そりゃあ、台風が過ぎていても簡単には復旧しないよね。

 とりあえず、今日の飛行機が始発から飛んでいたことにショック。今回の正解は、「とくに余計なことを考えず、せず、東京に2泊して飛行機で帰る」だったのですね…少しでも何とかしなくちゃ、と思うのが当たり前じゃないですか…わかんねーよ、そんなの!(>_<)
 電車で中国山地を越えるリスクは、去年の夏(2010.8.25)とこの間の年末年始(2011.1.6)に味わっていました。今回で3度目。「電車に乗れば何とかなる」という、なんだかよくわからない確信がこれまでの私にはあったのですが、今回ばかりは本気で考え直しましたよ(苦笑)。
 はぁ…それにしても高い授業料だった。

 土日何もなかったのが不幸中の幸い。しかし、貴重な休日を返上…

 来週も長い出張あり。今度は研究じゃなくてお仕事です。この流れきつい。やるしかないので、がんばるけどね。うぅ

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台風の影響で足止め

2011年09月03日 15時48分44秒 | Weblog
 ごぶさたしてます。
 この週末は東京に資料調査・収集に出かけてました…というより、台風12号の影響で、鳥取に帰れないので、まだ出かけてます。(^_^;)
 昨日、飛行機が結論をぎりぎりまで引き伸ばして欠航。仕方ないので東京で一泊。今朝起きて飛行機を確認すると、すでに欠航。ニュースを見ると、明日の午前中の便も微妙な台風の進路…思い切って陸路で帰ることに。
 しかし、JRの駅に着いて愕然。山陰行きの電車が全て運休していたのです。昨日から決めていたそうです。知っていればヘタに動かなかったのに…飛行機はもう解約していたので(痛恨の判断ミス…)、帰れるところまで帰ることにし、新幹線に乗って西へ。今日は岡山で一泊です。この土日は珍しく休みだったので、他へ迷惑かけないだけは不幸中の幸いですが…はあぁ…せっかくの休みがぁ
 そもそも今回行く前の見通しは、台風に東京で出会って帰る日には台風一過で無事帰れるはずだったのに。気がついたら西へ西へ、しかもやたらゆっくり移動しやがる。誤算だらけでした。自然災害なので文句をいっても仕方ないけど。
 資料調査・収集はそこそこうまくいきました。最後まで気分よくいかないのが、いつも通りの私の人生なのを忘れてました(苦笑)。
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