教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教師の存在基盤―「人は変わる」という信念

2012年09月29日 14時23分27秒 | 教育研究メモ

 ついに所属校でも来週から授業開始です。10月はやること山積み状態。スケジュールを立ててみたところ、「こなせるのだろうか…?」と疑問に思うくらい入り組んでいました(笑)。まあ、一つ一つ着実に進めていくしかないですね。がんばろ。

 下記は、だいぶ前に書いた記事でしたが、長いことお蔵入りしておりました。10月がんばり抜くための自分への叱咤激励として、少し加除訂正してお披露目します。


 人は変わる。その変化の仕方や要因は、生育履歴や発達状況により個人個人で異なるが、どんな人でも変化する可能性(可塑性)を持っている。
 教育は、「人は変わる」という可能性を出発点としている。「人は変わらない」として変化の可能性を信じないならば、教育など無意味である。教師は教育をする者である。教育をしない者や教育を無意味と考える者は教師ではない。教師とは、「人は変わる」という可能性を信じている者である。(教育愛・教職の基礎としての教育的信仰)

 教育の効果は、被教育者の中に変化(発達)する準備ができた上で、適切な働きかけをしたときに現れる。教師は、様々な教材と方法を駆使して被教育者のなかに変化する準備を整え、具体的に被教育者を観察しながら変化する機会を見極め、ここぞというときに様々な方法で働きかけなければならない。そのため、教師は絶えず被教育者を観察し、教材研究し、授業を工夫することに努める必要がある。

 人は必ず変わるが、変わることはそう簡単ではない。どんなに教育の努力をしても、すぐに効果の現れないことは多い。しかし、そこで早急に「人は変わらない」と考えたとき、教育に注いだ努力(過去の努力も含む)は無駄になり、被教育者に芽生え始めていた変化の機会も永遠に失われる。残念ながら、教員の中には、「お前には無理だ」とか自信ありげに言い放ってしまう者が少数ながら存在する。これは、「お前は変わる可能性がないから教育しない」と断言し、そう信じていることと同じである。この瞬間、被教育者の教育機会は失われるだけでなく、教員はこの被教育者を教育する存在ではなくなる。

 換言すると、「お前は変わらない」と言い放つ教員は、「自分の仕事は無意味だ」「自分は無意味だ」と断言し、そう信じているのである。では、教育が無意味だというなら、あなたはなぜ教職に就いているのか。そもそもそのような発言をする人物は、教職に就いているという自覚すらないのではないか。教育を無意味と言い放ち、その自分の言動を疑問に思わない者を、私は「教師」とは呼ばないし、ましてや「教育者」だとは思わない。

 教員も人間である。教育効果の出ない現実に自信を失うこともあろう。被教育者の無自覚な言動や未熟さに腹の立つこともあろう。感情的になることもあろう。しかし、被教育者は未熟ゆえに教育を受ける。未熟でなく、変わらなくてよいなら教育など受ける必要はない。教育を受けることによって、人ははじめて成熟し、それまでできなかったことをできるようになり、しなかったこともするようになる。未熟のうちに教育を打ち切れば、被教育者の可能性は閉ざされることになる。そして教員はその被教育者にとって教育者ではなくなり、その存在意義を失う。教員が「お前には無理だ」と被教育者を決めつけるのは、いわば教師にとって「自殺行為」なのである。

 教師は、被教育者だけでなく社会に対しても責任を負っている。上記の判断は、社会に対する責任からも考えなければならない。被教育者へ「お前には無理だ」という教員の言葉は、被教育者や教職に対する責任放棄であるだけでなく、社会に対する責任放棄でもある。
 また、個人にはどんな職業生活に向いているかについての適性がある(この適性も長期的な教育によって徐々に形成されるわけだが)。教師は、被教育者・社会への責任として、適性を判断し、場合によっては「向いていない」ことを伝えてやる必要がある。そして、「向いていない」と判断した可能性の代わりに、別の可能性を指し示し、そこへ導かなくてはならない。教師が教師であるためには、この方法をとるほかない。別の可能性を提示・誘導しないのは、これもまた責任放棄となる。「向いていない」という言葉の後に、別の可能性(適性ある可能性)へと導かない場合、実質的には「無理だ」という言葉と同じ意味になってしまう。
 なお、「向いていない」という言葉と、「無理だ」という言葉とは、容易につながりやすい近似する言葉であるが、本来その意味するところは全く別である。「無理だ」という言葉は、先述のように人間の可塑性・可能性の否定である。「向いていない」という言葉は、個人の適性への言及であり、人間の可塑性、その後の努力による変化の可能性を否定してはいない。「向いていない」が、それでも「向くように」努力することは可能である。ただし、適性の形成は長期的なものなので、それなりの覚悟と時間と努力が必要である。

 教員は、教育機会を提供することによって存在できる。教師は、人間の可能性を信じ、その可能性を実現するために努力する存在である。願わくば、自らの存在基盤を無自覚に自ら破壊する教員が、今よりも少しでも減らんことを。

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雑感―学問の深化・進化と学会参加

2012年09月25日 22時41分53秒 | 教育研究メモ

 教育史学会から帰ってきました。
 帰ったら早々に授業だとおっしゃっていた人も多かったなぁ。お疲れ様です!
 私は、帰って早々、高校訪問のため日帰り出張へ行って帰ってきました。これからは、後期の準備に追われる毎日です。

 発表は、2つとも無事終わりました。とはいえ、さらにやるべきことがたくさん見つかったので、終わった気にまったくなりません(苦笑)。
 幸い、「面白かった」という声をけっこう聞かせていただいたので、とりあえずホッとしております。社交辞令でも嬉しいですし、社交辞令でなければもっと嬉しいです(笑)。
 たくさんご意見・ご感想いただきました。どこまで反映させられるかわかりませんが、投稿めざして頑張ろうと思います。話したい人はたくさんいたけれど、バタバタしているうちに見失ったりしまして、十分交流できなった人も多かったです。逆に、これまで以上によく話せた人もいました。

 なお、とりあえず院生に言いたいのですが、みなさん、学会にめいっぱい「参加」しませんか。仕事をかかえて疲れ果てた現職ならいざ知らず、発表してすぐ帰るとか、自分の発表まで来ないとか、自分の研究対象にピンポイントにあたる発表がないので欠席するとか、もったいないですよ。学会を面白くするのも面白くなくするのも、自分次第です。研究のヒントは、思ってもいない意外なところに転がっているものです。
 学会は、視野を拡げる貴重な機会です。全国学会、その分野の親学会はとくにそうです。現在の教育学では、日々、専門化が進んでいます。しかし、学問の発展のためには、専門化だけでなく関連づけ・総合化が必要です。親学会を徹底的に使って、堪能して、自らの研究を他の研究と関連づけし、総合化していきたいところです。まぁ、どの学会を親学会と思うかは人それぞれですが。
 私も、自分の発表以外も聴いたり、いろんな人に話したりして、これまでも今回も、様々な構想を得てきました。相手にも、私から何かを差し上げられていればいいなぁ。

 学会員の参加は、学会を活発にします。学会の活発化は、学問を深化・進化させます。学問上の発見の意義は、学問の深化・進化によってしか見いだされません。沈滞する学問は、新たな発見の意義を見いだせなくなるのです。そのため、自分の研究を認めて欲しいならば、学問を活発にするために、自ら学会の活発化に寄与する必要はあります。

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「明治13年東京教育会の教師論」「帝国教育会中等教員講習所」

2012年09月19日 22時38分58秒 | 教育研究メモ

 9月22日・23日は、お茶の水女子大学での教育史学会大会に参加してきます。→プログラムほか
 私は2つも発表が…

 22日には、10時から「明治13年東京教育会の教師論―普通教育の擁護・推進者を求めて」と題して、個人研究発表をする予定です。
 明治13年というのは、近代日本教師論の岐路に立っていた時期に位置するとともに、私立教育会結成最初期かつ教育会の全国的統制前という教育会史上にも重要な年です。そして、東京教育会は、大日本教育会・帝国教育会の最も早い前身団体として有名ですが、実は私立教育会としても最も結成の早い教育会の一つです(千葉教育会より結成年月は早い)。「明治13年東京教育会の教師論」というのは、私立教育会(明治10年代に結成され始めた恒常的組織としての教育会)の教師論の原点をさぐる上で重要なテーマとなります。この年が、東京教育会の転換点となったことを示すことができました。それは、ひいては中央教育会たる大日本教育会(帝国教育会)の教師論の出発点ともなっていきます。
 教育会は、「半官半民」「御用団体」と言われたり、「自由民権運動の流れを汲んでいる」などとも言われることがあります。しかし、いわゆる「官」と「民」という二項対立的なとらえ方では、教育会を的確に認識することはできません。教育会を認識するには、官と民の中間にある団体、というより、「官」とも「民」ともつながりつつ異なる、「第三の立場」としてとらえる視点が必要です。その視点は教職の自立性や専門性を意識することから生じると、私は思っています。職能団体といえばそうとも言えるかもしれませんが、それは多分に歴史性や特殊性を帯びていて、理念的な「職能団体」とは異なると言わざるを得ません。今回の研究は、そんな特殊な集団で形成され続けていった教師論の性質の根本にせまるような、そんな研究になったと思っています。
 このテーマは、10年前に東京教育会の研究を始めて(大日本教育会研究の手始めという始まり方でしたが)、ずっと問題意識をもって考え続けていたテーマでした。それがようやく納得する形でまとめられたと思っています。なお、史料は『東京教育会雑誌』第1号~10号をメイン史料として使っていますが、これは2004年の拙稿で使ったきり誰も使っていないものですし、今回ほど徹底的にに使われたこともない史料です。今回は、これを目一杯使っていきます。
 拙稿「全国教育者大集会の開催背景」(『続・近代日本教育会史研究』)や最近の拙稿と重ね合わせて聴くと、より面白く受け止めていただけるかと。歴史の進展と連続を感じ取れるはずです。

 23日には、15時10分から開催されるコロキウム「近代日本における教育情報回路と教育統制に関する研究(1)―明治後半期」で、梶山雅史氏とともに報告者となっています。私の報告は、「明治30年代帝国教育会の中等教員養成事業―中等教員講習所に焦点をあてて」と題して行います。
 明治30年代というのは、中等教員の需要と質への要求が急激に高まった時期です。そんな時期に、全国の教育会の中心的立場にあった帝国教育会は、どんな対応をしたのか。この時期、帝国教育会は、従来の講習会の拡充とともに、中等教員講習所の設置・運営という新しい事業を始めていました。明治30年代といえば、教育会における小学校教員養成の補完的活動の展開期とも言うべき時期です。
 なお、かつての教員養成史研究のように、師範学校以外は教員養成ではない、という観点しか持ち合わせなければ、この講習所は養成史ではまったく研究対象となりえません。しかし、今の教員養成史研究は、師範学校以外の養成ルートに目を向け、教員検定や講習会を利用した養成や、教育会における「もう一つの」教員養成に、注目するようになりました。小学校教員の多様な養成ルートはかなり具体的なものまで明らかにされてきていますが、中等教員の多様な養成ルートについての具体的な研究は、まだまだこれからです。
 実は、この帝国教育会中等教員講習所、まだ誰もちゃんと研究したことがないのです。『帝国教育会五十年史』すら取り上げていません(だからこそ、とも言えるかもしれませんが)。しかし、帝国教育会の機関誌『教育公報』を読んでいると、この講習所はかなりしっかり計画実施され、たしかに教育を行い、修了生を相当数出していたらしいことがすぐわかります。ちなみに、後に報徳運動のリーダーの一人になる佐々井信太郎も、ここで講習を受けた後、文検に合格して中等教員になっています。
 帝国教育会が、講習生をどこへ、どんな風に方向づけようとしていたのか。私個人の研究関心から言えば、帝国教育会は、(論説・口で言うだけでなく)教員(教職)を実際に具体的に改良するために、自ら何をどうしたのか。そしてどうなったのか。コロキウムのテーマに沿わせてみれば、教員養成のために教育情報(およびその受信・発信主体)をどのように活用・統制しようとしていたのか、中等教員養成にまで拡充していく教育会の歴史的役割がどのように機能したのか。そんな問題にかかわる研究になったと思っています。

 どちらも、日本教員史・教育会史研究ひいては教育史研究の発展に寄与しますように。

 研究の進捗を公開するため、適当に短く紹介しようと思ったはずが、また長文になってしまった…

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進捗状況

2012年09月16日 23時55分55秒 | Weblog

 研究⑦および⑪完了。
 そして、研究④コロキウム発表の準備完了(印刷はまだだが)。

 まだまだ整えたいところはたくさんあるけれども、前に進めることも大事。

 ということで、研究③および⑨も完了。
 いつも発表内容が多いので、内容を削るのに一苦労する。それを避けるために、かなり対象やテーマをしぼったはずなのに、結局やっぱり多くなってしまう。なんでだろうね。

 週末の教育史学会に行く時の荷物は、めちゃくちゃ重くなりそうだぞ…(資料が多い×発表2つ分、なため)

 7月16日に確認した研究系のやるべきことも、だいぶ達成してきた。
 とくに残っていることは、こんな感じ。

①博士論文の執筆 →来年秋
②教育情報回路研究会発表のための研究 →11月
③テキスト第1巻(幼児教育の原理、旧第2分冊)の仕上げと入稿 →11月
④テキスト第2巻(保育者の専門性、旧第1分冊)の仕上げ(入稿済) →11月
⑤教育原理Ⅱの板書案・資料づくり(残り分) →11月~1月

 まだまだ重たいものが残っている…まだ気は抜けんぞ!

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保育者が「専門職」であるには?―専門的知識・技術だけでは足りない

2012年09月15日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 ⑤の原稿を仕上げていて、ちょいと広く投げかけたいなと思った部分があったので投下。
 内容は、テキスト『幼児教育の理論と応用』でいうと、第11章第3節にあたる部分です。このテキストの出版にむけて少々訂正したものを以下に挙げてみます。授業では、2年後期の科目「保育者論」で教えています。
 保育者養成の教材を作るため、いろいろ調べていると、保育の世界では、「専門職」という言葉が表面的に使われているなぁと感じることがあります。また、保育現場での話を聞いていると、まれに、専門職であるために必要なことが欠けているなぁ…と思うこともあります。そこで、「専門職」概念をもう少し深く考えることができたら、保育者の資質・地位向上のためにやるべきことがもっと広く見いだせるんじゃないかなと思いました。
 卒業を控えて保育者集団に入っていく準備をしている学生たちに、「自分だけの問題」としてではなく、広く「自分たちの問題」として、保育者の専門性をとらえる視点と姿勢を持って欲しい。以下の部分は、そのような問題意識から書き上げたものです。


第3節:保育者が専門職であるには? ―「教師の専門職性」論を踏まえて

 保育者は「専門職」であるべきか。「専門職」を、専門の職業という意味合いで使えばもちろんそうだろう。保育者すなわち幼稚園教諭と保育士は、専門の公的資格を必要とし、専門的な知識と技術とによって専門的職務を遂行する必要があるからである。
 「保育者は専門職である」と言うとき、そこで問題になるのは保育者独自の専門性である。しかし、実は、「専門職」概念をただ「専門の職業」と理解するだけでは、保育者の専門性について十分に考えることはできない。「専門職」という概念は近年はあまり厳密に論じられなくなったが、教育の世界では、1960年代以降の「教師(教職)の専門職性」論の中で、長年議論されてきた蓄積ある概念である。もちろん現代の保育者独自の「専門職」論があってもよく、必ずしも「教師の専門職性」論の文脈で語られる必要はない。ただ、保育者独自の専門職性を追究する上で、近接領域で蓄積ある「教師の専門職性」論から学べることはあるのではないか。
 そこで、本節では、「教師の専門職性」論ではどのような論点があったのかを検討し、保育者の専門性とは何かを考える上で、一定の示唆を得たい。

1.教師の専門職性

(1)professionと専門的知識・技能
 教師の専門性とは何か。科学的真理にもとづく専門的知識・技能か。高度な教育内容か。しかし、このような把握では、上級学校や専門高等教育機関の教師ほど権威は増し、教壇に立たずに科学的研究や技術訓練に熱心な者ほど権威が増すことになる。そうなると、幼稚園教員<小学校教員<中学校教員<高校教員<大学教員という権威の階層が形成され、各学校段階によって異なるはずの教師の専門性の違いが不問に付されてしまう。とくに、最も幼い子どもを対象とする幼稚園教員の専門性が、正当に認識されなくなる。また、子どもとかからわらず、教育をせずに研究のための研究をくり返す教師や、現場と交流しないで研究室や大学にこもっている「理論家」「思想家」「技術者」の方が、高い教師の専門性を有しているという、実態に合わない論旨につながってしまう。そうなると、現場における教育実践を、専門性の中に位置づけられなくなる。教師の専門性を、科学的真理にもとづく専門的知識・技能や教育内容のみに帰着させることは、実態に合わない結論を導いてしまいかねない。
 教師が専門的知識・技術を有していることや、専門職を名乗っていること、社会に専門職であると見なされることとは、同じではない。専門的知識・技術を有していれば、または名乗りさえすれば、社会が専門職として認めるわけではないのである。では、専門職として認められるには、どのような条件が必要なのか。まず、専門的知識・技術の有無は、専門職の唯一の条件なのか、検討してみよう。

(2)専門職の条件 [略]

2.教職の自律性
(1)教師の職権範囲 [略]
(2)教師の専門職性と教師集団
 [略]
(3)「教師の専門職性」論から学ぶこと―保育者が専門職である/になるために
 以上、「教師の専門職性」論をおおまかに検討してきた。ここから、保育者が専門職である/になるためには、どのようなことが必要なのかを考えてみよう。
 専門的知識・技術は専門職の重要な条件ではあるが、それだけでは専門職にはなり得ない。必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。保育者が専門職である/になるためには、専門的知識・技術の向上だけでなく、他にも努力すべきことがある。
 他にも努力すべきこととは、次のようなことである。まず、保育職の範囲と機能とを明確にすることである。保育職には他の職種と協力してやるべき職務もあり、どこからどこまでが保育者の職務かについて明確にしていく作業が不可欠である。
 また、専門的判断・措置について、利用者や上司・雇用者から信頼して任せてもらえるように、保育現場における判断・措置を適切に行うための資質を身に付けるように努めなければならない。なお、この資質は、一部の保育者だけでなく、すべての保育者が身に付けなければならない。保育の専門的知識・技術についても、広く深い一般的教養と専門的・批判的研究にもとづいて、高度化していかなくてはならない。
 さらに、現行法令の範囲内で、保育者の資格・養成・待遇・研修等について有効な自主規制・維持改善を行いうる保育者集団を形成・育成しなければならない。また、普遍的精神のもとに、営利的立場に陥らずに社会へ奉仕し、己の職務に没頭することのできる文化・倫理を形成していかなければならない。
 これらのことは、一人ひとりの保育者がそれぞれ努力していくだけでは実現できない。保育者個人の努力に加えて、集団として、協力・協働して実現させるものである。

<主要参考文献>
市川昭午『専門職としての教師』明治図書、1969年。
奥田真丈・永岡順編『教職員』現代学校教育全集第16巻、ぎょうせい、1980年。
永岡順・熱海則夫編『教職員』新学校教育全集26、ぎょうせい、1995年。
佐藤学『教師というアポリア―反省的実践へ』世織書房、1997年。

 (以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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ペ氏とフ氏

2012年09月11日 23時55分55秒 | Weblog

 先日、⑥新規授業づくりが遂に一段落したので記念書き込み(笑)。
 全15回中8回分くらい板書案も資料もまだ作れていませんが、一番プレッシャーの大きい教材メモができたので、ひとまずホッとしました。まだまだ先は長いので、とりあえず次へ行くことにします。
 先日の記事で申し上げた通り、エレン・ケイやらモンテッソーリやらをまとめていたわけですが、翻訳原典も読んだ上でその思想をまとめてみるとその思想家が等身大で見えてきて面白いです。思想の可能性と限界との両面を何とか見極めると、ペスタロッチやフレーベルなども「一人の人間」として見えてきました。また、思想の背景や論理を見ると、「子どもの権利論ってこんな論理から発生しているのか…」とか、「モンテッソーリ思想って特別支援の系譜から出てきたものがあるのか」とかわかって、これまた面白いです。
 それから、近代教育学の文脈から19世紀・20世紀の幼児教育思想を見てみると、思想の系譜が見えてきてまたまた面白いです。オリジナルの思想だと思っていたものが、実はペスタロッチっぽかったり、フレーベルっぽかったり。「これペスタロッチの方が深いなあ」とか、「これフレーベルやないの?」とか、たびたび思いながらまとめていました。ペスタロッチ・フレーベルの偉大さを改めて実感する機会にもなりました。

 今日、直近の研究以外の仕事のうち、一番プレッシャーを感じていた仕事も一つ仕上がったので、なおさらホッとしています。
 あとは、来週末の教育史学会が終われば、ようやく次のステージに行けそうな気がする。

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教師失格者を出さないための学校の責任

2012年09月09日 21時12分37秒 | 教育研究メモ

 教師の最も主要な職務は、教育(被教育者の学習支援)である。

 被教育者の学習を支えるための工夫をしようとしない教員は、教師失格である。
 教師は、学習を支えるための授業づくり・教材研究(その基礎研究たる学術研究含む)を行わなければならない。

 学習支援のために工夫しようとしている教員を支えない学校は、教育機関失格である。
 学校は、教師が授業づくり・教材研究(その基礎研究たる学術研究含む)の意欲と時間とを捻出できるよう、組織体制を整えなければならない。


  最近、ときどき学校経営関係の雑誌などをペラペラとめくっていると、合理化による会議数の減少によって教員の教育時間の増加をねらう学校改革の事例を見ることがあります。会議合理化による時間創出の取り組みは、企業ではもう少し前から行われているような気がします。企業でも、小中高校でも行われている会議の合理化による時間創出…。さて、大学・短大はどうでしょうね。
 教員の仕事の質・能率が高まれば、誰の利益になるか。教員が良い仕事ができるようになって自己充実感を得られる職場環境が実現すると同時に、よい教育を受けることができて学習者の利益になる、というのは当然です。それだけではなく、あそこの学校はよい教育をしていると学校の評判が良くなり、かつ教員に余裕が出てきて地域貢献などの教育・研究・運営以外の仕事に力を振り向けることができて地域の活性化につながります。教員・学習者・学校・地域、すべての利益になるのです。
 ずいぶん前から言われ続けていることですが、どの段階の学校現場でも教員が多忙化し、教育に向ける時間をいかに確保するかが大きな問題になっています。教員のエネルギー・時間を、どこに集中させ、仕事の質や能率を高めるか。教員の本当にやるべきことを核にして、合理化していきたいところです。教員は、自らの役割をしっかりと見据えた上で合理化の努力をし、捻出した時間を有効に活用する必要があります。
 ただ、運営に関わる会議の合理化については、教員の個人的努力だけではどうにもならないものが多くあります。そこは、運営管理者の腕の見せ所ですね。

 ※ 私については、いろいろ努力しながら、なんとか捻出はさせてもらえています。

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明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈

2012年09月03日 19時50分01秒 | 教育会史研究

 諸事情あってなかなか報告できませんでしたが、最近、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈―教育会共同体の実態に関する一考察」と題した論文を活字化しました。広島大学教育学部日本東洋教育史研究室発行の『広島の教育史学』第3号の掲載です。私の出身研究室に鈴木理恵先生が着任されて、1年後に創刊された紀要です。研究室所属の学生の卒業論文を活字化し、関係者へ研究室の活動を共有することを主な活動としているため、あまり出回らない紀要です。私は、この紀要の質がより高まり、同研究室の活動がより活発になればと思っているので、執筆しました。

 さて、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈」は、明治期の道府県教育会が行っていた雑誌(機関誌)交換・寄贈に注目し、その交流関係(教育会共同体)の実態について検討することを目的としています。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.明治20年代前半における教育会雑誌交換・寄贈の範囲とあり方
 (1) 機関誌を有する道府県教育会
 (2) 教育会雑誌の積極的な交換―大分県共立教育会の場合
 (3) 教育会雑誌交換関係の範囲―信濃教育会の場合
 (4) 教育会雑誌の交換・寄贈頻度―広島県私立教育会の場合
2.明治30年代以降における教育会雑誌の寄贈―佐賀県教育会・山口県教育会の場合
3.交換・寄贈された教育会雑誌の活用
 (1) 機関誌交換・寄贈に対する教育会の意識―情報交換と関係形成
 (2) 機関誌掲載の教育情報の転載
 (3) 教育会と教育雑誌社との雑誌交換・寄贈―教育関係者への地方教育情報の間接的提供
 (4) 教育会員・地域住民に対する他府県教育会雑誌の公開
 おわりに

 戦前期の小学校教員たちは、教育会雑誌の共同体的読書(回し読みなど)によって「地域社会の一員としての意識」を培ったと言われています(永嶺重敏 ※商業的教育雑誌も同様の役割を果たしているという)。つまり、教育会雑誌は教員の共同意識形成に関わるものであり、その流通実態は教員の共同体を認識しうる一視点ともなりうると考えられます。本稿では、教育会を介して形成される、教育会員(教員を含む)の共同意識や社会関係を「教育会共同体」と仮称しました。
 教育会共同体は、明治期以降、全国・地区・都道府県・郡市・町村ごとに独自にネットワークを形成し、それぞれ複雑に絡みあって機能したと考えられます。教育会共同体の有り様は、まず、連合会議の開催や教育会の組織改革の過程から認識することができます。ただ、この点のみを強調すると、教育会共同体は、連合会議のような一過性の交流や、教育会の組織改革のような事件性のある交流のみによって形成・維持されていたように錯覚してしまうおそれがあります。教育会の間には、もっと連続的・日常的な交流はなかったのか。この問題意識にもとづき、雑誌交換・寄贈という連続的・日常的交流をとりあげて、教育会共同体の実態にせまってみよう、というのが本稿の趣旨です。
 なお、梶山雅史氏の「教育情報回路」に特にまつわる問題としては、教育会雑誌の交換・寄贈を検討する際には、単に交換・寄贈の行為が重要だったのか、交換・寄贈される雑誌掲載の記事・情報が重要だったのか、といった問題にかかわると思っています。

 対象時期は、主に、雑誌交換・寄贈の慣習が形成されはじめる明治20年代半ば(明治20年~25年)です。史料としては、全国網羅することはできませんでしたので、大分・長野・広島・佐賀・山口の5県教育会を事例として取り上げました。本文ではあまりはっきり述べませんでしたが、大分・長野については県教育会雑誌が活発であった県の事例として、広島は雑誌発行が途切れ途切れだった県の事例となっています。佐賀は明治20年代に形成された交換・寄贈慣習がどのように展開したかを示す事例として、山口は明治30年代に交換・寄贈慣習の形成が始まった特例として位置づいているように思います。
 第3節では、具体的な雑誌活用事実の整理をしました。うえの5県以外の事例も用いています。

 団体機関誌の交換・寄贈は今でもよくやりますが、その感覚でいくとすべての道府県教育会へ配られていたように思いがちです。また、明治24(1891)年に全国教育連合会(翌年全国連合教育会)が開催されたことを知ると、それを境に、全国的に画一均質な教育会共同体ができたような歴史イメージを持ちがちです。しかし、本稿での研究により、かなり教育会ごとに交換・寄贈関係に差があることがわかり、そのような歴史像は見直す必要があることがわかりました。ともかく、雑誌交換・寄贈関係から、連合会議だけでは認識できない、教育会間の豊かで多様な関係性や共同意識を見て取れました。

 私のもっている教育会への興味は様々ですが、その最も重要なものの一つに、近代日本における教育社会(教員社会)の形成過程にかかわるものとしての興味があります。そのような興味をもつのは、日本における教員・教育関係者の専門性の特質にかかわる問題だと思うからです。日本において教員の専門性がいかなる「場」で形成されたか、この拙稿で直接考えることはできませんが、そんな問題にせまっていくための基礎研究として重要な論文を活字化できたと思っています。
 ちなみに拙稿は、口頭発表業績13番の「明治期における教育会の情報交換」(全国地方教育史学会第29回大会、2006年5月発表)を大幅に改稿したものです。学会誌に投稿するには広すぎるテーマであるため、ずっとお蔵入りしていたのですが、ようやく活字化できました。6年もしまったままになっていたのは驚きです。

 なかなか手に入らない紀要に載せましたが、必要な方は私(siraisi☆ns.cygnus.ac.jp ☆を@に変換して送って下さい)へ連絡をとってみてください。私のところにもまだ残部があります。
 なお、拙稿以外の掲載論説は、田中沙弥「東京高等師範学校出身者による新教授法実践の広がり―『英語の研究と教授』の分析を通して」(2011年度卒業論文)、鈴木理恵「明治16年『広島教育協会雑誌』第6・7号」(史料翻刻)の2本です。

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