ついに所属校でも来週から授業開始です。10月はやること山積み状態。スケジュールを立ててみたところ、「こなせるのだろうか…?」と疑問に思うくらい入り組んでいました(笑)。まあ、一つ一つ着実に進めていくしかないですね。がんばろ。
下記は、だいぶ前に書いた記事でしたが、長いことお蔵入りしておりました。10月がんばり抜くための自分への叱咤激励として、少し加除訂正してお披露目します。
人は変わる。その変化の仕方や要因は、生育履歴や発達状況により個人個人で異なるが、どんな人でも変化する可能性(可塑性)を持っている。
教育は、「人は変わる」という可能性を出発点としている。「人は変わらない」として変化の可能性を信じないならば、教育など無意味である。教師は教育をする者である。教育をしない者や教育を無意味と考える者は教師ではない。教師とは、「人は変わる」という可能性を信じている者である。(教育愛・教職の基礎としての教育的信仰)
教育の効果は、被教育者の中に変化(発達)する準備ができた上で、適切な働きかけをしたときに現れる。教師は、様々な教材と方法を駆使して被教育者のなかに変化する準備を整え、具体的に被教育者を観察しながら変化する機会を見極め、ここぞというときに様々な方法で働きかけなければならない。そのため、教師は絶えず被教育者を観察し、教材研究し、授業を工夫することに努める必要がある。
人は必ず変わるが、変わることはそう簡単ではない。どんなに教育の努力をしても、すぐに効果の現れないことは多い。しかし、そこで早急に「人は変わらない」と考えたとき、教育に注いだ努力(過去の努力も含む)は無駄になり、被教育者に芽生え始めていた変化の機会も永遠に失われる。残念ながら、教員の中には、「お前には無理だ」とか自信ありげに言い放ってしまう者が少数ながら存在する。これは、「お前は変わる可能性がないから教育しない」と断言し、そう信じていることと同じである。この瞬間、被教育者の教育機会は失われるだけでなく、教員はこの被教育者を教育する存在ではなくなる。
換言すると、「お前は変わらない」と言い放つ教員は、「自分の仕事は無意味だ」「自分は無意味だ」と断言し、そう信じているのである。では、教育が無意味だというなら、あなたはなぜ教職に就いているのか。そもそもそのような発言をする人物は、教職に就いているという自覚すらないのではないか。教育を無意味と言い放ち、その自分の言動を疑問に思わない者を、私は「教師」とは呼ばないし、ましてや「教育者」だとは思わない。
教員も人間である。教育効果の出ない現実に自信を失うこともあろう。被教育者の無自覚な言動や未熟さに腹の立つこともあろう。感情的になることもあろう。しかし、被教育者は未熟ゆえに教育を受ける。未熟でなく、変わらなくてよいなら教育など受ける必要はない。教育を受けることによって、人ははじめて成熟し、それまでできなかったことをできるようになり、しなかったこともするようになる。未熟のうちに教育を打ち切れば、被教育者の可能性は閉ざされることになる。そして教員はその被教育者にとって教育者ではなくなり、その存在意義を失う。教員が「お前には無理だ」と被教育者を決めつけるのは、いわば教師にとって「自殺行為」なのである。
教師は、被教育者だけでなく社会に対しても責任を負っている。上記の判断は、社会に対する責任からも考えなければならない。被教育者へ「お前には無理だ」という教員の言葉は、被教育者や教職に対する責任放棄であるだけでなく、社会に対する責任放棄でもある。
また、個人にはどんな職業生活に向いているかについての適性がある(この適性も長期的な教育によって徐々に形成されるわけだが)。教師は、被教育者・社会への責任として、適性を判断し、場合によっては「向いていない」ことを伝えてやる必要がある。そして、「向いていない」と判断した可能性の代わりに、別の可能性を指し示し、そこへ導かなくてはならない。教師が教師であるためには、この方法をとるほかない。別の可能性を提示・誘導しないのは、これもまた責任放棄となる。「向いていない」という言葉の後に、別の可能性(適性ある可能性)へと導かない場合、実質的には「無理だ」という言葉と同じ意味になってしまう。
なお、「向いていない」という言葉と、「無理だ」という言葉とは、容易につながりやすい近似する言葉であるが、本来その意味するところは全く別である。「無理だ」という言葉は、先述のように人間の可塑性・可能性の否定である。「向いていない」という言葉は、個人の適性への言及であり、人間の可塑性、その後の努力による変化の可能性を否定してはいない。「向いていない」が、それでも「向くように」努力することは可能である。ただし、適性の形成は長期的なものなので、それなりの覚悟と時間と努力が必要である。
教員は、教育機会を提供することによって存在できる。教師は、人間の可能性を信じ、その可能性を実現するために努力する存在である。願わくば、自らの存在基盤を無自覚に自ら破壊する教員が、今よりも少しでも減らんことを。