教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

つれづれなるままに

2006年03月31日 21時58分55秒 | Weblog
 今日は午前5時起き。ときどきこういうやたら早い時間に目が覚める。いつもは理由がわからないのですが、今日はたぶんおなかがすいたから(笑)。実は昨日から、ダイエットのために19時までに食事を始め、それ以降は朝まで絶対に食事をしないということを始めました。普段は、21時をすぎても平気で晩ご飯を食べていたし、間食も平気でやっていました。なかなか運動も続かないし(やりたいことが多いので時間がとれない)、少しでも無理のないダイエットをしようと思い、19時ダイエット(勝手に命名(笑))を始めたわけです。これをすると朝になるとおなかがたまらなく減っているので、がんばって起きる。うん、生活リズムの改善にもなる。何とか続けたいと思います。
 
 てなわけで今日は午前6時に登校。かっちこっちに凍り付いた車にのって、途中「すき屋」で納豆朝食、ものたりないので7イレブンでダイコンと糸こんにゃくを買って朝食とする。せっかく早朝に登校しましたが、ちょっと集中力が足りない。睡眠失敗してたのかな? 集中できるようになるまで、結構時間を無駄にしました。
 今日も船寄著を読む。むむ、高等師範学校存廃論争ってこんな意味があったのか。アカデミズムの教員観(学識があれば教員になれるという教員観)とプロフェッショナリズムの教員観(教員には独自の学識・技術が必要という教員観)の対立は、教育学史の研究をしたい私にとっても非常に興味深く読ませてもらいました。しかも、論旨がスッと通っていて、かつ全く無駄のない文章。ううん、お手本にしたいくらいすごい。
 さて、今日は久しぶりに論文執筆。とくに〆切に追われるたぐいの論文ではありませんが、とりあえず書き始めました。もともとすでに書いていた論文の全面改訂なんですけどね。ただダラダラと本を読んでいても頭に入ってこないので、必要に応じて勉強していこう、という姿勢に変えました。博士論文も、少しずつ書いていかないと今年中に出来上がらないし。
 あー、そういえばレフェリーつき論文が、もう一本ないと博士論文を書けないことを思い出した(苦笑)。現在審査中の論文の所在、教育史学会、日本教育史研究会。どちらもかつて落選経験あり。昨年の例によれば、日本教育史研究会の結果が4月前半にはわかることが判明。早いなあ。たのむ、通ってくれー…

 昨日は急いでいたため、しまりのない文章を書いてしまった。今日も眠いのでしまりのない文章になってしまった。
 さむい
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おしつけ教育の考え方

2006年03月30日 21時49分32秒 | 教育研究メモ
 今日は午前中のうちに登校できました。
 『教科教育百年史』の続きを読みました。この本を読んで始終気づくことは、「子どもの活動・生活に基づいてその個性を伸ばす教育」というのが理想化されていること。子どもの活動・生活にもとづく教育は、教員の高い力量や周到な準備なしではうまくいきません。そのことは本書でもよくよく気づいているようですが、一方「つめこむ」教育や「おしつける」教育は「そうならないように」と否定されています。はて、これらの教育にも意味はあるのでは? 例えば、子どもに広い知識や価値観と接触させる機会にもなるし、逆に子どもが反発することによって新しい知識や価値観が生まれるかもしれない。もちろん「つめこむ」こと「おしつける」ことが目的になってはいけないけれど、やりようによっては意味のある教育になるのではないかなと思います。
 夕方からは、船寄俊雄『近代日本中等教員養成論争史論-「大学における教員養成」原則の歴史的研究』(学文社、1998年)の序論を読みました。明確な現代的問題意識に基づいた歴史研究(教育問題史)の視点が示されております。私はつねづね歴史研究も現代的意義がないといかんと思ってはおりましたが、ここに具体的な書き方のモデルを見ました。
 あーそれにしても寒い!
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PD申請への不安

2006年03月29日 18時49分15秒 | Weblog
 今日は、昨日がんばりすぎて寝坊しました(笑)。午前0時半ごろ帰宅したのですが、それから作曲をしてケリがつけられず、午前3時ごろ寝ましたので。実は先日、あるところから作曲を依頼されたので、急に作曲活動に復帰したというわけです。2時間程度やって40小節ほど作りましたが、うーんボツですね。
 そんなことで寝坊して、作曲のことで頭をいっぱいにしながら昼頃出校。2週間くらい前に論文執筆のため借りていた本をとりあえず返そうかなと考えつつ、必要部分を見ただけだったので、少し読もうと思いました。それで、藤原喜代蔵『明治大正昭和教育思想学説人物史』第一巻明治前期編(東亜政経社、1943年再版(湘南堂書店、1980年復刻))を少しと、スペンサー(三笠乙彦訳)『知育・徳育・体育論』(世界教育学選集50、明治図書、1969年)の解説、赤塚徳郎『スペンサー教育学の研究』(東洋館出版社、1993年)の序論、を読みました。藤原著は、教育思想学説の歴史を、人物に焦点をあてて、かつ政治・経済・学術・宗教・文学・思想その他と関連させて、叙述した著作です。ここまで広範な叙述をした教育思想学説史はないでしょうから、期待していたのですが、藤原氏の評論調の叙述がどぎついのと、単純な歴史観(戦前の歴史観ですから仕方ないのですが)にはついていけないので、結局目を通すだけにしました。スペンサーの教育思想に関するものを読むときの視点は、明治日本においてどのようにどんな影響を与えたのか、ということを知りたかったのですが、自由民権運動との関係と訳著の簡単な紹介しかなかったので、こちらも期待はずれ。
 さらに『教科教育百年史』の昨日の続きを読んでいたのですが、それよりもふと6月〆切の日本学術振興会特別研究員(PD)の申請のことが気になり、読書そっちのけで思索にふけることに。うーん、博士論文もまだ書いていない(書けるかどうかもわからない)のに新しい研究計画を立てなくてはいけない、という状況には、なんだか変な気分です。やりたいことはあるのだけど、PDにふさわしいかどうかはよくわからない。さすがに相談できる人がいないのは不安。ちょっと考えないとなあ。DCのときに申請したままではダメだろうし。DC経験者はPDにも受かるという根拠のない噂は聞いたことがあるけれど、はたして大丈夫だろうか?
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教科教育学前史のアナ

2006年03月28日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は久々に院生らしい記事です(笑)。
 今日は早くないし遅くもない時間の午前中に登校。まず、広島大学文書館に差し上げる資料群を移動する仕事(めちゃめちゃ重い段ボールを持っていく仕事)を先輩と一緒にこなし、その後は教育学講座付けのコピーカードを使い切るため、戦後出版された各府県市教育史に載っている教育会の論文をコピー(必要だし)。それから、東京高等師範学校の研究活動を調べるために鈴木博雄『東京教育大学百年史』や『茗渓会百年史』を借りてくる。ううむ、高等教育研究センターにもなかったけど、筑波大学って年史作ってないんですか? 東京高師の研究活動の自己評価が知りたかったんだけどなあ。その後、以下の論文を読みました。
 奥田真丈「教育改革の理念と構想」(奥田真丈監修『教科教育百年史』第一部「序論」第一章、建帛社、1985年)を読みました。構成は、「一 国家・社会の発展と教育の改革」「二 第一期の教育改革」「三 第二期の教育改革」「四 第三期の教育改革」です。第一節では、教育の変化と社会の変化を対応させ、初等段階を中心に学校制度改革を叙述するという本章のねらいが示されています。二~四の時期区分である第一期(明治元年明治維新~昭和20年WW2敗戦)・第二期(昭和21年占領期~昭和45年)・第三期(昭和45年~昭和60年)は、昭和46年の中央教育審議会答申前文における時期区分に依拠しています。この章は、教科教育の基礎である近代学校制度の概要を示す形になっていると思われます。内容を見ると、第一期は学制・教育令・小学校令および教則関係の法令の制定・改正の叙述、第二期・第三期は教育視察団報告書・教育基本法・学校教育法・各種審議会答申等・委員会答申等の叙述(初等に限らず)。変化した学校制度の結果だけ簡潔に知るには、良い概説だと思います。ただ、なぜ変化したのかという原因はほとんど不明だし(本論に書いているんでしょうが…)、戦後については答申が述べている原因のみなので不満が残ります。そもそも第一期78年間・第二期25年間・第三期15年間という時期区分とくに第二期・第三期の区分は、政治的な処理を経て成立した中央教育審議会答申に基づいたものですから、学術的な検討による区分ではないですし、内容的にもそんなに劇的に変化しているとは思えません。「うーん、これでいいかなあ…」と疑問が残ります。そもそも単純に第一期に比べて短すぎますよねぇ。
 佐藤照雄「教科教育についての課題の提起」(同上、第一部第二章)も読みました。構成は、「一 教科教育学成立への動き」「二 教科教育学の前史」「三 教科教育の課題の提起」です。第一節は三項立てです。「(一)『教科教育学』の教育全体における位置」では、教科教育学の理論が、実践から抽出し実践を方向付けるものとして実践に帰る性格をもつ理論であることが指示されました。「(二)『教科教育学』成立への経過」では、昭和三十年代から五十年代にかけて、教員養成における理論と実践の統合の問題と、教員養成大学・学部の存在理由の両側面から、教科教育学が意識化されてきたと指摘しています。「(三)教育実践の側からの課題意識-教科教育学の基盤」では、教科教育学は、教師の側からの教育目標・教科設定・教科内容構成・教科編成と、生徒の側からの学習を通した能力育成とを見通したカリキュラムを研究対象とするとしました。第二節は二項立てです。「(一)近代教育における教科教育-教授学の展開」では、明治期から昭和戦前期までの教育方法研究の発達の概要と、知識の伝授つまり教授中心主義の学習観・教授段階方式について触れています。「(二)明治後半期の教授学の確立」では、白井毅『学級教授術』(明治20年刊)と明治30年代の教授法書を取り上げ、知識付与と能力開発、学習主体者としての生徒観、教科統合の思想をもって教科教育に関する学習理論の原型としました。第三節は三項立てです。「(一)教科教育の科学的研究-『教科教育学』への課題」では、教育理論と教育実践との統合、教科教育法研究と教材研究における課題があげられています。「(二)学習の変革-教科教育の構造検討を通して」では、教科教育は、教科内容伝授ではなく、児童生徒の主体的学習活動を中心に考える構造となる必要があるとしています。「(三)現代の課題に応じた教科教育」では、教科教育については、既存の教科内容の学習指導といった技術論だけではなく、教科全体の学習活動を通して人間性と世界認識と学力を身につける具体策まで研究されねばならないと提案しています。以上、一節一項ずつ要約してきました。
 とくに第一部第二章を読んで、思ったこと。とりあえず教科教育学という学問は、学校教育における教科教育における児童生徒の学習活動という限定された領域において、研究・実践両面における教育理論と教育実践の統合をめざす学問であるといえましょうか。なお、本文中では教育の機能を知識付与と能力形成の二つに分けて、教科教育においては能力形成の重視を提唱していますが、それを強調しすぎて、知識付与の位置づけが不明になってしまっているように思います。まあ、そんな話はおいといて、私がいちばん注目するのは、明治後期において教科教育学の原型がみられるという指摘です。明治20年の白井毅『学級教授術』が最初期の原型であるというようにも読みとれますが、この本は教授法研究史のなかでは、開発主義教授法の伝統に位置するものだと思います。ここではそれ以降の明治二十年代のものをすっとばして、明治32年の樋口勘治郎『統合主義新教授法』や森岡常蔵『小学校教授法』などを挙げています。はてこれでいいのでしょうか? 樋口や森岡の研究は、明治二十年代後半の混沌としたヘルバルト主義教授法研究を批判して、さらにすすんでヘルバルト主義教授法を研究したものじゃあなかったっけ。明治二十年代後半のものをすっとばしては、白井と樋口や森岡らの研究は連続したものとしては捉えられないのでは? 実は、次の論文のエッセンスとして、この辺に注目してるんです。
  
 最近、私がよく居る第二資料室がやけに寒い。備え付けの暖房機は期限がきて使えなくなってしまったし、かといってストーブをつけるのも大げさな感じ。一人で暖房使うのも、大学の光熱費節約運動(?)にケンカを売っているようだしなあ(笑)。
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メディア概念

2006年03月24日 18時06分08秒 | 教育研究メモ
 今日は、普段より異様に早い時間に目が覚める。午前6時ごろ登校。まず、学振の年度末報告書を作りました。〆切は4月20日(しかも受付は1日以降)なので気が早いようですが、受入研究者の佐藤先生が近い内に完全に引っ越してしまうとのことで、先生がいなくなる前に仕上げないといけないのです。というのも、受入研究者のコメントと印鑑(もしくは自著)が必要なので。基本的に考えて書く必要があるところは、掲載論文・学会発表のリスト、研究実施状況の概要、受入研究者のコメント(これは私が書くのではないのだけど)の三点。なかでも研究実施状況はA4一頁程度の文章を書く必要があります。研究実施状況は、私は本年度に活字化した論文の解説を中心に書きますが、論文を並べてみると意外に自分の研究の進捗状況がわかる。なんだか研究が少しだけ前に進んでいる実感が少しだけわいてきました。8時ごろひとまず完成。あとは先生のコメントだけ。
 
 報告書を書いた後、昨年の教育史学会第49回大会のシンポジウム・コロキウムの記録と、メディア史の入門書である有山輝男・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』(世界思想社、2004年)を使って、教育会研究におけるメディア概念の意義を、ぷちぷちパソコンで書いていました。有山・竹山編によると、メディアという概念の意味は多様でありますが、最近ではだいたい三つの意味に絞られてきたそうです。第一の意味は、「あいだに入ったり、媒介する作用や実体」という一般的な意味で、あまり広く適用範囲を取るとメディア概念を使う意味がなくなるので、基本的には人と人とのコミュニケーションにおける媒介作用・実体を意味するようです。第二の意味は、「印刷、音声、視覚などを媒体として区別する」こととありますが、ちょっとわかりにくい説明です。文脈から、媒体としての印刷・音声・視覚、と言い換えれば良いかなと理解しました。新聞・ラジオ・テレビといった具体的なメディアは、印刷・音声・視覚というメディアが社会的変化を受けて実現したもの、というように捉えられるようです。第三の意味は、「何か別のもののためのmedium(媒体、媒介手段)」という意味です。この意味でのメディアは、新聞やテレビなどに限らず、政治的権威を表す宮殿や凱旋門、伝統的価値を再確認する媒介手段としての儀式など、かなり広い対象を含みます。この入門書では、第一・第三の意味は広すぎるので、第二の意味におけるメディアの歴史的研究を行い、その後第一・第三の意味におけるメディア史研究に切り込もうとしています。教育史研究においては、昨年の教育史学会大会で分析概念としてメディアが喧伝され、今井康雄氏のように教育の再定義をするためのメディア概念を使用したり、辻本雅史氏のように近世と近代の教育史や学校教育と「知の伝達」一般を連続させる方法的概念として使用したり、佐藤卓己氏のようにマスコミュニケーション学の内容と教育学の内容を直接リンクさせたり、梶山雅史氏のように教育会研究の分析概念として使用したり、様々な使用例が見られました。
 ともかく、メディアという概念は、現実を説明しているようで実体のよくわからない概念です。まあ、メディアが機能するときは「見えなくなる」(テレビを見ていることは、テレビそのものを見ているのではなくて、テレビに映った映像を見ている、とか)ので、把握し難いことはメディアそのものの特質なのかもしれません。とにかく捉えがたいものなので、メディアを使うときは、きちんと限定・定義して使わないといけません。「これはメディアです」と言うだけでは何の意味もないので、どういうメディアかということを言わないといけません。もちろん、「メディアだ」と誰かが言わなければ誰も気づかない訳で、「メディアだ」ということそのものは意味があることです。「教育会はメディアだ」と言うことによって、教育会研究にメディア研究の方法や視点などを適用可能になるわけです。ただ、「メディアだ、って言えるのか?」という問題もありますから、具体的実証が伴わないと価値は半減してしまいます。上記の通り、梶山氏の教育会=メディアという仮説も、「メディアだ」と言っている意味において価値がありますが、「ホントにメディアなんですか? メディアって言っていいんですか?」という批判(疑問?)に耐えることはできましょうか。うーん。どうでしょうか。
 先日申し立てを出した私の教育史学会投稿論文は、結論が3つあるのですが(もちろん相互関連してる結論です)、その中の一つは「教育会はどういうメディアとして分析できますか?」という問題に対する私なりの答えでもありました。掲載決まってくれると、皆さんにも披露して批判を受けることもできるし、今後研究を発展させていくのに非常に都合がいいんですけどもねぇ(もう2度も掲載不可をくらっているので不安ばりばりです(笑))。
 
 まあ、そんなこんなでまとまらないレポートらしきものを作り(最後の方は書いてないけど)、久しぶりに運動へ。一時間の運動後、汗を流しに帰宅。洗濯物を干して昼過ぎに再度登校。昼飯を食べて、広大の図書館に資料収集に出かける。地方教育史の教育会論文を集めつつ、教科教育学関連の本を借りる。
 さらに、ふと思いついて、来年度から主任指導教員としてお世話になるY先生のところへ、来年度の予定を聞きに行くついでに、先日18日に発表した博論構想のレジュメをもって行く。渡してから気がついたけど、当日先輩方にもらった意見を反映させて書き直したレジュメをもっていけばよかった… 後悔先に立たず。
 
 まあいっかー(^^;)。
 ちなみに今日Y先生と話した感じでは、ちゃんと指導してくれそうで少しホッとする。問題は専門外であることと、問題関心が違うこと。
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研究会

2006年03月21日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は松山での歴史系研究会。名前は史錬会。年一二回の会合で、もう20回以上を数えている会です。去年、高等女学校の制服の発表をされるということで、たまたま私のHPを見た事務局長が来てみないかと言ってくださったのが関係の始まりでした。高校教員のN先生が事務局長をされていて、高校教員や地域の歴史家、E大教員・学生、高校生などが参加します。9:30からE大の学部4年生が卒業論文の内容を発表していて、おお大学における研究が地域に還元されようとしている、などと思ったりしました。そのほか、教員による日本史科教育の実践報告などもあり、なかなか多様性に富んだ会でした。近世伊予に関する発表がほとんどであり、四国遍路に関する講の話や、幕末から明治初期までにおける裏千家と藩との関係、近世武家における結婚の形式、明治十年代ごろにおける城下町の変容など、興味深い話ばかりでした。明治以降の教育史ばかりやっている人間としては、「おお、こんな研究方法や課題もあるのか」と気づくことができる良い経験をしました。フェリーの時間があるので、15時半ごろ研究会を抜けさせていただきました。
 フェリーに乗って呉へ。往路もそうでしたが、フェリーはいつもよりなんだか乗客が多い。横になることができず少し疲れ気味。今日は車で来ていないので、JRに乗って西条まで帰り、22時少し前にようやく帰宅。つかれました。
 写真は、松山の堀之内の堀。白いのは白鳥です。
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佐藤先生記念

2006年03月18日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は佐藤尚子先生退職記念拡大特別研究会でした。
 佐藤尚子先生と私の関係は、学部時代から始まりました。佐藤先生は私の学年のチューターでして、公私問わず相談に親身になっていただきました。学部3年になると広島大学教育学講座では所属する研究室を決めるのですが、私は教育方法学・教育社会学・社会教育学の研究室に行きたいと思っていました。佐藤先生は研究室選択の進路相談の際、私の行きたい研究室を聞いて、まったく聞いていなかったかのように(笑)、「白石君は歴史好きかな?」とおっしゃいました。私は「へ?なんでそんな質問が?」と思いましたが、歴史は好きだったので「はい」と答えました。すると、佐藤先生は「じゃあ日東(日本東洋教育史研究室のこと)に来なさい」と言われました。私はそれに対してなぜか「え?ぇ、はい」と言ってしまいまして、今の研究室とのおつきあいが始まったわけです。実は学部当時、私はほとんど学校へ行っておらず、引きこもり状態にありました。さらに感情的で聞き分けのないところが多分にありました(今でもそんなに変わりませんが…(笑))。佐藤先生の真意はよくわかりませんが、おそらくチューターとして私を心配してくださったのかなあと、思います。何だかひょんなことから始まった日東研究室との縁ですが、今ではいろんな意味でよかったなあと思います。学部三年のときの佐藤先生の強引な(笑)勧誘がなくては、今の自分はありませんでした。
 佐藤先生退職記念拡大特別研究会は、佐藤先生が直接お世話をされたOB・OGを加えて特研(ゼミ)をしようという催しでした。普通、教授の退職記念行事は最終講義という形をとりますが、佐藤先生のたってのご希望によりこういう形になりました。OB・OGたちとは学会等で会うこともありますが、なかなか研究に対する率直な御意見はいただけませんので、われわれ院生にとってもたいへんうれしい機会となりました。発表者は私白石とOB一人、それから佐藤先生の3人でした。私は博士論文の構想を発表させてもらい、有益なご意見をたくさんいただくことができました。研究の歴史的意義の目算が見えにくいことに対するN先生のご指摘や、用語に対する慎重な態度をとらなくてはいけないとするK先生のご指摘は、肝に銘じました。とくに論文構成に出ていた迷いに対するT先生のご指摘は、迷いがはれた心地がしました。佐藤先生、OB・OGの先生方々、そしてこの会を準備してくださった先輩・後輩たちに感謝の意を表したいと思います。
 一時間ほど予定時間をオーバーし、18時から懇親会がありました。先輩・後輩たちとざっくばらんに話ができ、また思い出話なども聞くことができて、とても楽しい会でした。
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時代区分・時期区分

2006年03月15日 18時34分48秒 | 教育研究メモ
 小春日和かと思いきや、やったら寒くなったこの数日、皆様いかがおすごしでしょうか。
 今日は『日本教育史研究』投稿の〆切日なので、ついに論文を投函してきました。英文題目は昨晩考えた題目で、自分でGOサインを出しました(笑)。論文は消印有効ですが、いちおう速達で出しましたところ、簡易書留と合わせて1,110円もかかりましたよ~。
 さて、一つ論文が終わったのでやれやれと思いきや、実は18日の佐藤先生退官記念行事で発表しなくてはなりません。発表テーマは、博士論文の構想です。昨年7月の一次審査会から教育史学会・中国四国教育学会・日本教育史研究会と学会投稿してきましたので、その成果を踏まえてOBたちの前で発表します。いちおう、博論のことは常に考えてきたので、なんとなくイメージは出来上がっております。発表レジュメや投稿論文にそれぞれその一部を反映させてきたので、それらを組み合わせれば簡単にできるだろうと軽く思っていました。うーん、そんなに甘くはないなあ(笑)。組み合わせるだけでは、分量が膨大になってしまって冗長かつ雑多な内容になってしまうのです。ちょっと難儀なことになっておりまするよ。
 まあ、ちょっと風邪気味&両肩の調子もよろしくないので、早めに帰りまする。
  
 ところで、昨日の『毎日新聞』で、国立歴史民俗博物館主催で「弥生の始まりと東アジア」というテーマのフォーラムが開かれたという記事を読みました。なんでも、国立歴史民俗博物館の研究を基にした弥生時代の開始時期を従来紀元前5世紀頃としていたものをさらに500年ほど遡らせようという説を出発点として弥生時代を考えようというフォーラムだそうで、炭素の分析を使った科学的証拠から導いたもののようです。その説の導き方等を疑問視して反論している学者も少なくないそうで、すぐには通説にはなりそうにないようですが、興味をもって読ませてもらいました。まあ、分析方法など詳しいことは私にはよくわかりませんが、私がこの話にくいついたのは、「~時代」という時期区分がいつからいつまでか、という論争に単に興味がわいたからです。日本史の新しい同校に対する興味でもありますが。
 最近科学史の本などをかじっていると、日本における近代科学の思想的概念的受け皿は17・18世紀からすでに芽生えていたんだ、という主張にぶつかりました。日本教育史でも、寺子屋や藩校などの発達が近代学校制度の準備をしたということはあるような気がします(これ、誰が言ってたんだっけ?)。そう考えると、我々がよく使う「近代日本教育史」ってなんだろうと考えてしまいます。常識的には、江戸時代=近世、明治時代以降=近代、と考えられていると思いますが、上記のように分析・評価の視点が違えば時代区分も変わってくるので、そのような常識はあまりに短絡的な評価だということになるでしょう。時代区分と歴史的評価は一心同体であって、時代区分が変われば歴史の評価は変わり、歴史の評価が変われば時代区分も変わります。時代区分をする意味をあえて言えば、区分することによって、ある特定の歴史認識を形成する、もしくは形成するための枠組みを作ることと言えるでしょうか。だから、いつから弥生時代が始まるかという問題は、日本史の根本的な問題になるわけです。
 そういえば以前、ある学会に投稿した際、題目に「明治中期」という言葉を使いました。結果掲載されてませんので、今宙に浮いている論文ですけど。ともかく、問題はこの「明治中期」という言葉。正直言いますと、あまり深く考えて設定した言葉ではありませんでした。単に明治期45年間を三等分して、だいたい明治15年くらいから明治30年くらいまでを指していただけで、私の研究対象としていた大日本教育会の活動時期とちょうど一致したので用いた、という短絡的なネーミングでした。もう少し事実関係の解明を深めれば、面白い歴史的意義も出てくるような気もしていますが、今のところたいした根拠もないので、ここでは「明治中期」にはこだわりません。ともかく、自分のものさしで安易に時期区分するのは、歴史研究の姿勢としてよろしくない、ということが言いたいわけです。
 ただ、時代区分=評価ですから、誰かが設定した時代・時期区分に、何の疑問・批判もなしに乗っかるのもおもろしくないですね。

 今日の記事は、なんだか散漫とした文章だなあ。
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内部史・外部史

2006年03月06日 19時30分05秒 | Weblog
 今日は論文執筆。どうも集中できず、あまり進みませんでした。
 かつ後輩と読書会。トーマス・クーンの論文集である『科学革命における本質的緊張』の第五章「科学史」を読みました。科学内部史(internal history)と科学外部史(external history)の連結への意欲と、科学史の意義を簡単に説明した、クーンによる科学史の概論です。この内部史と外部史はこの論文においては連結可能性を示しているだけですが、実際に連結しようとしたのが、以前私が熱心に読んでいた中山茂氏なんでしょう。そして、私も教育会研究の上からこのあたりに興味がある。今回書いている論文も博士論文も、実はこの方向上にあります。
 掲載されればいいのだけど。まだ書ききっていなので、皮算用ですが(笑)。
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