久しぶりに名言を紹介。
かつて、倉橋惣三(1882~1955)という幼児教育・保育学者がいました。倉橋は、東京女子高等師範学校教授で同校附属幼稚園主事を長年務め、極めて素朴な言葉で保育・子どものあり方を語り続けました。彼の主著である『育ての心』(1936年)、『幼稚園真諦』(初版1933年・改題1953年)などは、大正・昭和期の保育現場のみならず、今でも人気の高い保育書です。
今回は、その『育ての心』のまえがきの一部を紹介します。
「育ての心」とは何か。それは、自ら育とうとするもの(子ども)を育てずにはいられなくなる心である。その心によって、子どもと保育者・親とはつながることができ、子どもだけでなく保育者・親も育つことができる。子どもを信頼・尊重し、発達を実現させることもできる。この心は、職務として現れるものではなく、義務として現れるものでもない。自然なものである。
とても力強い言葉です。教育者にとって、自らの存在の確かなよりどころを直感させる言葉でした。最初にこの部分を読んだとき、心底感動しました。なお、この「育ての心」の考え方は、いわゆる「教育愛」の説明としても適用できると私は思っています。また、倉橋が語り掛けたのは幼稚園保母ですが、すべての段階の教育者や保護者にもぜひ受け止めてほしい言葉です。
明日の「教育原理Ⅱ」で取り上げる予定で授業準備していたのですが、ここでも紹介したくなりました。以下、引用です。
「自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。」
倉橋惣三『育ての心』刀江書院、1936年より。
(倉橋惣三文庫3、フレーベル館、2008年、3~4頁)
自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。それは明るい世界である。温かい世界である。育つものと育てるものとが、互いの結びつきに於て相楽しんでいる心である。
育ての心。そこには何の強要もない。無理もない。育つものの偉[おお]きな力を信頼し、敬重して、その発達の途に遵[したが]うて発達を遂げしめようとする。役目でもなく、義務でもなく、誰の心にも動く真情である。
しかも、この真情が最も深く動くのは親である。次いで幼き子等の教育者である。そこには抱く我が子の成育がある。日々に相触るる子等の生活がある。斯[こ]うも自ら育とうとするものを前にして、育てずしてはいられなくなる心、それが親と教育者の最も貴い育ての心である。
それにしても、育ての心は相手を育てるばかりではない。それによって自分も育てられてゆくのである。我が子を育てて自ら育つ親、子等の心を育てて自らの心も育つ教育者。育ての心は子どものためばかりではない。親と教育者とを育てる心である。