以前、「教育・教師はAIとどう向き合うか」(2017.12.27記事)という記事を書きまして、AI技術と教育との関係について考えたことがあります。AI技術の進展により、人間の認知能力を補う範囲が広まり、人間のできることが増える可能性について述べました。ただ、現実の社会には、人間の昨今のAI技術の急速な進展が人間の仕事を奪うのではないか、という不安が広がっています。教職もいずれは奪われる仕事の一つとして挙げられており、他人事ではないのが教育関係者です。AIは教師の敵、AI技術の進展と教職者の立ち位置とは相容れない関係にあるかのように感じる人もいるのではないかと思います。しかし、私はAI(人工知能)はさておき、AI技術(人工知能の実現を目指して開発された諸技術)は進展するほど教育を豊かにし、教師の仕事も豊かにするのではないかと考えています。
AI技術には様々なものがありますが、その一つに情報検索技術があります。インターネットにおける検索技術がそれです。ネット検索は年々便利になっていて、あいまいなワードでも検索することが可能になってきました。調べ物をしようとすると、インターネットで検索すれば、おおよそ関連する情報がすぐに手に入ります。そのために、いちいち図書館に行って本を探し、本をめくって情報を探す、という手間が不要になる場面が増えました。今は、本に掲載されている情報がすべてインターネットに掲載されているわけでないため、ネット検索だけで調べたことにならなりませんが、そのうちインターネット上の情報の質量が本の情報の質量を凌駕するようになる可能性はあります。情報検索技術の進展は、情報検索の時間と労力を減らしています。そうなると、人間は、情報を考察・解釈したり情報量を増やしたりすることに、時間と労力を費やすことができます。このように、AI技術は人間の学びを効率化することに貢献しています。ただ、私が「AI技術が教育を豊かにする」と言って言いたいことは、こういうことではありません。
私が言いたいことは、学びの効率化のその先です。AI技術は人間の学びを効率化します。重要なことは、その結果生まれる余力をどう使うかという点にあります。私は、AI技術によって生まれた余力を、学びを楽しむことに使うべきではないかと思っています。学ぶことは本来楽しいことです。人間は、わからないことがわかれば、できないことができるようになれば楽しくなります。疑問に思ったことを追究することや、他人と意見交換しながら新しい解釈に触れることも、楽しいことです。興味・関心のあることを学ぶことも楽しいことです。学びを効率化することで、暗記・再生にかけてきた時間と労力を短縮し、その代わりに学びの楽しさを味わう余裕が生まれる可能性があります。学びを楽しむことは、人間だからこそできることですし、人生を豊かにして福祉・幸福につながります。教育を受ける権利や学習権を保障することも、学びを楽しめるようになってはじめて実現することではないかと思います。AI技術は、人々が学びを楽しめるような教育を実現する可能性があるのです。
これまでの教育現場は、学びを暗記・再生の反復訓練として狭くとらえがちでした。暗記・再生の繰り返しが楽しいという人はあまりいないと思います。学びは苦しいことだと思っている人も多くいます。しかし、AI技術は、単語や年号を覚えていなくても検索すればすぐに把握することを可能にしますし、複雑な数式を覚えていなくても(答えが見つかっている)数学問題の答えを導くことを可能にしますので、学びにおける暗記・再生の位置を引き下げます。細かい概念・単語や数式などを暗記して、練習問題を何度も解いて適切な時に再生できなくても、AI技術が進展してくれば何も困らないという事態が生じる可能性があるのです。暗記・再生の繰り返しには、忍耐力や洞察力、記憶力などの開発という意義もありますが、これらの能力は暗記・再生の繰り返しでしか育たないというわけではないと思います。別の学習方法に時間と労力をかけられるかもしれません。AI技術が進展すると、暗記・再生の反復練習をしなければいけない理由はどんどんなくなっていくのです。
学びを楽しむためには、楽しみ方を知る必要があります。ここに教師の出番があります。学びの楽しみ方を知っている教師は、生徒に学びの楽しみ方を教える資質をもっています。あとは、教材や価値、環境などに応じて学びを楽しむ方法を知っており、工夫し、使いこなす能力をもっていれば、生徒は大いに学びを楽しむことができるようになるでしょう。また、教育はコミュニケーションの一種です。学びの楽しみ方を機械に教えてもらうこともできるかもしれませんが、尊敬したり好意をもったりしている人から教えてもらうという行為は、学びの楽しさを彩ります。これは機械にはできないことで、人間にしかできないことです。
今、日本の教育は、実現すべき学びを、暗記・再生中心の学びから主体的・対話的で深い学びに転換させようとしています。主体的・対話的で深い学びは、これからの社会を生きていくために必要な資質能力を育て高めるものととらえられていますが、資質能力の育成だけにその意義をとらえていると落とし穴が待っているかもしれません。資質能力の育成は、たとえば優秀な学習アプリが開発されれば、効率的に進めていくことが可能になるかもしれないからです。主体的・対話的で深い学びを学習理論に基づく資質能力を育成する学びとだけとらえていると、あるいはAI技術を活用すれば教師は不要になってしまうかもしれません。しかし、AI技術が資質能力の育成を効率化し、効果を高めるのであれば、資質能力の育成や評価に費やす時間と労力を減らすことができます。ここでも、学びの楽しさを実感することに意を注ぐ余裕が生まれます。
AI技術は、暗記・再生中心の学びからの学習観の転換を容易にし、資質能力の育成や学習効果の評価を容易にします。学びの目標として「学びの楽しさ」を重視すれば、AI技術は、教師の仕事をなくすどころか、むしろ教師の仕事を(学びの効率化によって)助け、教師と生徒とのコミュニケーションを豊かにするのではないでしょうか。なお、私は、AI技術の進展が今のまま進めば、教育や教師の仕事に資するようになると、手放しに楽観視しているわけではありません。AI技術がただ進展するのを待っていては、どうなるかわかりません。教育に資するようにAI技術を進展させることが最も大切です。その際に重要なのは、教育とは何か、学びとは何か、教師の仕事とは何か、ということをしっかり問い直すことです。学びとは暗記・再生の反復練習のことであり、資質能力を育成すること「だけ」が目標であり、教育とはその機会や環境を整えることだ、と皆が思っていれば、いつまでたってもAI技術が教育・教職を豊かにすることはないでしょう。重要なことは、学びは楽しいことであり、教育とは学びの楽しさを実感させることであると、われわれが理解することです。
AI技術には様々なものがありますが、その一つに情報検索技術があります。インターネットにおける検索技術がそれです。ネット検索は年々便利になっていて、あいまいなワードでも検索することが可能になってきました。調べ物をしようとすると、インターネットで検索すれば、おおよそ関連する情報がすぐに手に入ります。そのために、いちいち図書館に行って本を探し、本をめくって情報を探す、という手間が不要になる場面が増えました。今は、本に掲載されている情報がすべてインターネットに掲載されているわけでないため、ネット検索だけで調べたことにならなりませんが、そのうちインターネット上の情報の質量が本の情報の質量を凌駕するようになる可能性はあります。情報検索技術の進展は、情報検索の時間と労力を減らしています。そうなると、人間は、情報を考察・解釈したり情報量を増やしたりすることに、時間と労力を費やすことができます。このように、AI技術は人間の学びを効率化することに貢献しています。ただ、私が「AI技術が教育を豊かにする」と言って言いたいことは、こういうことではありません。
私が言いたいことは、学びの効率化のその先です。AI技術は人間の学びを効率化します。重要なことは、その結果生まれる余力をどう使うかという点にあります。私は、AI技術によって生まれた余力を、学びを楽しむことに使うべきではないかと思っています。学ぶことは本来楽しいことです。人間は、わからないことがわかれば、できないことができるようになれば楽しくなります。疑問に思ったことを追究することや、他人と意見交換しながら新しい解釈に触れることも、楽しいことです。興味・関心のあることを学ぶことも楽しいことです。学びを効率化することで、暗記・再生にかけてきた時間と労力を短縮し、その代わりに学びの楽しさを味わう余裕が生まれる可能性があります。学びを楽しむことは、人間だからこそできることですし、人生を豊かにして福祉・幸福につながります。教育を受ける権利や学習権を保障することも、学びを楽しめるようになってはじめて実現することではないかと思います。AI技術は、人々が学びを楽しめるような教育を実現する可能性があるのです。
これまでの教育現場は、学びを暗記・再生の反復訓練として狭くとらえがちでした。暗記・再生の繰り返しが楽しいという人はあまりいないと思います。学びは苦しいことだと思っている人も多くいます。しかし、AI技術は、単語や年号を覚えていなくても検索すればすぐに把握することを可能にしますし、複雑な数式を覚えていなくても(答えが見つかっている)数学問題の答えを導くことを可能にしますので、学びにおける暗記・再生の位置を引き下げます。細かい概念・単語や数式などを暗記して、練習問題を何度も解いて適切な時に再生できなくても、AI技術が進展してくれば何も困らないという事態が生じる可能性があるのです。暗記・再生の繰り返しには、忍耐力や洞察力、記憶力などの開発という意義もありますが、これらの能力は暗記・再生の繰り返しでしか育たないというわけではないと思います。別の学習方法に時間と労力をかけられるかもしれません。AI技術が進展すると、暗記・再生の反復練習をしなければいけない理由はどんどんなくなっていくのです。
学びを楽しむためには、楽しみ方を知る必要があります。ここに教師の出番があります。学びの楽しみ方を知っている教師は、生徒に学びの楽しみ方を教える資質をもっています。あとは、教材や価値、環境などに応じて学びを楽しむ方法を知っており、工夫し、使いこなす能力をもっていれば、生徒は大いに学びを楽しむことができるようになるでしょう。また、教育はコミュニケーションの一種です。学びの楽しみ方を機械に教えてもらうこともできるかもしれませんが、尊敬したり好意をもったりしている人から教えてもらうという行為は、学びの楽しさを彩ります。これは機械にはできないことで、人間にしかできないことです。
今、日本の教育は、実現すべき学びを、暗記・再生中心の学びから主体的・対話的で深い学びに転換させようとしています。主体的・対話的で深い学びは、これからの社会を生きていくために必要な資質能力を育て高めるものととらえられていますが、資質能力の育成だけにその意義をとらえていると落とし穴が待っているかもしれません。資質能力の育成は、たとえば優秀な学習アプリが開発されれば、効率的に進めていくことが可能になるかもしれないからです。主体的・対話的で深い学びを学習理論に基づく資質能力を育成する学びとだけとらえていると、あるいはAI技術を活用すれば教師は不要になってしまうかもしれません。しかし、AI技術が資質能力の育成を効率化し、効果を高めるのであれば、資質能力の育成や評価に費やす時間と労力を減らすことができます。ここでも、学びの楽しさを実感することに意を注ぐ余裕が生まれます。
AI技術は、暗記・再生中心の学びからの学習観の転換を容易にし、資質能力の育成や学習効果の評価を容易にします。学びの目標として「学びの楽しさ」を重視すれば、AI技術は、教師の仕事をなくすどころか、むしろ教師の仕事を(学びの効率化によって)助け、教師と生徒とのコミュニケーションを豊かにするのではないでしょうか。なお、私は、AI技術の進展が今のまま進めば、教育や教師の仕事に資するようになると、手放しに楽観視しているわけではありません。AI技術がただ進展するのを待っていては、どうなるかわかりません。教育に資するようにAI技術を進展させることが最も大切です。その際に重要なのは、教育とは何か、学びとは何か、教師の仕事とは何か、ということをしっかり問い直すことです。学びとは暗記・再生の反復練習のことであり、資質能力を育成すること「だけ」が目標であり、教育とはその機会や環境を整えることだ、と皆が思っていれば、いつまでたってもAI技術が教育・教職を豊かにすることはないでしょう。重要なことは、学びは楽しいことであり、教育とは学びの楽しさを実感させることであると、われわれが理解することです。