教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

逃げたい気持ちを乗り越える―「わがまま」をコントロールする

2010年06月30日 23時55分55秒 | Weblog
 逃げたくなるのは、結果を知りたくないから。
 失敗したという現実を見たくないから。
 成功しているかもしれないのに、たとえ失敗であってもたいしたことないかもしれないのに。

 逃げたくなっているときは、だいたいパニックにおちいっている。
 何がなんだかわからなくなって、すべてが嫌になる。
 でも、落ち着いて原因を見極めれば、その原因はただ、結果を知りたくないだけだった。
 それはただ、現実から目をそむけているだけ。

 なんだ、そんなことか。
 わけがわからなくなって、不安に飲み込まれてしまいそうになるけど、
 それはただ、現実を見たくないという、ただの「わがまま」。
 現実は、目を背けても、かわらずそこにある。必ず結果は出てしまう。
 だったら、腹をくくってぶつかっていくしかないじゃないか。

 でも、足が動かない。体が動かない。
 でも、「わがまま」なら、自分の気持ちだから、自分でコントロールできるはず。
 今、制御不能なら、少し時間をおいて、様子をみよう。
 「わがまま」なら、満足すれば、自然に落ち着く。
 落ち着けば、自分は戻ってくる。
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発表要旨用原稿、ようやく

2010年06月28日 23時55分55秒 | Weblog
 日本教育学会第69回大会の発表要旨、ようやくできました!
 粗く論文書きにしていたときにはうまくまとまらなかったのですが、要旨にすることでまとまりました。時代に対応するための教員集団の変化を明らかにできたような気がします。予想外のなかなかの面白さになりました(笑)。内容は要旨集ができてから見てくださいね。
 発表は今年の8月22日午前、会場は広島大学教育学部のA-2(教育史)会場です。
 明治期の教育会、やっぱ意義あるところを研究対象にしているのだなぁ、と改めて思いました。方針変更は何度も何度もしてきたけど、途中であきらめなくてよかった。
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『おおきく振りかぶって』の長期目標設定用紙について

2010年06月27日 01時55分15秒 | Weblog
 研究の方はぼちぼち。粗くですが、主要史料の分析は終わりました。日曜はちゃんと休んで、来週要旨集原稿を仕上げようと思います。

 趣味の話。かつて記事にもした通り、私はひぐちアサ『おおきく振りかぶって』(講談社、月刊『アフタヌーン』連載中)が大好きです。いつの間にか最新の第15巻が出ていたので、購入して帰ってきました。さっき読み終わったところです。相変わらずいとおしい登場人物たちの物語を堪能させていただき、満ち足りた気持ちにさせていただきました。いや、登場人物たちのまっすぐさと成長過程を丁寧に書いているのが好きなんです。
 巻末におまけのページがあったのですが、そこの最後のところに「ありゃっ…」という情報が。コミックスにも収録されている第27回「目標」に、「長期目標設定用紙」というエピソードが載っています。私は、雑誌連載中にこの用紙に非常に感銘を受け、かつて記事(2008.5.30)にしたことがあります。私自身、アレンジして(2008.6.1)、今でもよく使っています。仕事上のモチベーションと計画性・質を高めるのに非常に有効なんです。以前に比べて、すごく仕事がしやすくなりました。
 さて、この用紙について、私は先の記事で「原田隆史氏の陸上競技の指導実践法『長期目標設定用紙』に似ているようです」(2008.5.30の記事)と書いていたのですが、ひぐちさんの巻末「おまけ」によると、ひぐちさん自身は高妻容一氏(東海大学)の公開講座で学んだものなんだそうです。私の2年前の推測は、はずれていたようです。私の不確定の情報のため、ひぐちアサ氏・高妻容一氏の両氏に、もしかしたらご迷惑をおかけしたかもしれません。かなり遅くなりましたが、お詫びとして、改めて記事にさせていただいた次第です。2008.5.30の記事にも追記しておきました。

 ふーむ、それにしてもこの用紙は、いったい誰のオリジナルなんでしょうね。誰が、いつ、どんなアイディアから作ったのでしょうね。高妻氏のオリジナル、ということでいいのでしょうか? 発想の元は、心理学者ベンジャミン・ブルームの期待理論から得たのでしょうか?(もしそうだったら教育学的にも面白いなぁ。ブルームのマスタリー・ラーニングの考え方は教育評価論にも大きな影響を与えているので)
 自分でもお世話になっている技術ですので、ますます興味津々です。正確な情報をご存知の方がいらっしゃったら、ご教示ください。
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発表要旨の準備だいたい整う

2010年06月25日 23時55分55秒 | Weblog

 ふう、日本教育学会の大会発表要旨を作成するため、だいぶ準備が整ってきました。今は、明治30年代の鳥取県倉吉における小学校教員集団の再編過程を研究しています。教員社会の事実をどう学問的に検討するか、なかなか難しいです。まぁ、なんとかなるかな。
 ちなみに、先日のへんな記事は、研究が煮詰まったから書いたのではありません(笑)。

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逃げたくなるのはなぜか―もういやだ

2010年06月23日 23時55分55秒 | Weblog

うぅわぁぁぁぁ
もういやだぁぁぁぁ

現実から逃げたくなることってよくありますよね。
これは、今直面している問題があって、それがその後もたらす結果に直面したくないという気持ちの現れです。
結果を知りたくない、という気持ちの現れなのです。

嫌な結果になることが予想される時、そうなりがちです。
完璧主義者は、たいていの結果が自分にとって嫌な結果になりがちなので、よく感じますね。
悲観主義者は、どんな結果でも嫌な結果にとらえてしまうので、たぶんいつも感じていますね。
他人から見れば、そんなことないのにね。

前を向けよ。
お前が生きているのはこの道だ。
現実を見ろよ。
どんなことであれ、何かのためになるはずだ。

心が現実から逃げたいのなら、いったん逃げていい。
気分転換したら、心が満足して、また現実を直視する力がわいてくるはずだ。

逃げたくなるのは、もう一度、前を向いて歩くためなのだ。

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明治後期の保育者論―保育者に求められる資質とは…?

2010年06月22日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 本日は、近著の紹介。
 本年6月、白石崇人「明治後期の保育者論―東京女子高等師範学校附属幼稚園の理論的系譜を事例として」(『鳥取短期大学研究紀要』第61号、2010年、1~10頁)が活字化されました。この論文は、当時の代表的な保育理論家であった中村五六・東基吉・和田実・倉橋惣三の代表的論考と先行研究を用いて、明治20年代半ばから大正2年までの保育者(幼稚園保母)論を整理したものです。論文構成は以下の通り。

  はじめに
 1.中村五六の保育者論
  (1)フレーベル原理に基づく保育理論の追求
  (2)改良進歩の主体としての保育者
 2.東基吉の保育者論
  (1)自主的活動としての遊戯の具体化
  (2)保育者の専門的知識・技能と道徳的性格
 3.和田実の保育者論
  (1)幼児教育法の体系化
  (2)「幼児教育法」と「教育的精神」
 4.倉橋惣三の保育者論への影響
  (1)倉橋惣三の保育思想の概要
  (2)保育者の必要条件と十分条件
  おわりに

 基本的な論旨としては、次の通り。明治後期の保育者論は、保育理論・方法・技術の習得へ着目する形で展開し、保母の専門的職業化への志向を強く見ることができます。大正期以降、倉橋が人格的側面を強調する「ほんとうの保母」像を提示していきましたが、そのように論じることは、明治後期に専門的職業化を志向する保育者論が蓄積されたからこそ、可能だったのではないかと考えています。また、明治後期の保育者論には、当時の小学校教員論の影響を想起させる点がありました。明治後期のフレーベル研究と幼稚園研究および実践との進展にともない、次第に「保育者論」としての独自の論理体系をもつようになったのではないか、という仮説も提示してみました。
 拙稿は、保母の専門的職業化を志向する明治後期の保育者論を基盤として、大正期以降の保育者論の展開があったことを示したものです。幼稚園保母の専門的職業化が目指されていた明治後期の保育者論は、保育者の専門性への注目が進む現在、意外に参考になることは多いのではないでしょうか。明治後期およびそれの系譜に連なる倉橋の保育者論を見ると、現在でも保育者に必要な資質を示しているように思われます。内容上は時代の制約がありますので注意が必要ですが、本質的にはやはり保育者としては重要なものです。実は、それらの資質がなぜ必要なのかという理由の方が私としては面白かったので、気になる方は論文を読んでほしいのですが、少し挙げますと以下の通りです。
 たとえば、中村五六の保育者論には、以下のような保育者の資質が挙げられています。

  ① 保育者業務に耐えうる心身の健康
     (幼稚園教育は困難な仕事であり、心身虚弱では本人が苦痛を感じるため)
  ② 幼児の感化モデルとしての道徳的態度
     (幼児は極めて感化されやすいため)
  ③ 幼児に対する愛情と保育者業務に対する熱心
     (進んで事をなさなくては教育効果はあげられないため)
  ④ 普通学・教育学・幼稚園教育理論に関する学識とそれらを改良しようとする意欲・態度
     (幼稚園事業は時世にしたがって改進すべきものであるため)
  ⑤ 実際的な保育方法の熟練
     (幼稚園教育は実行する方法を欠いてはならないため)
  ⑥ 現代社会への理解に基づいて、保護者とコミュニケーションする能力
     (幼稚園と家庭との育児方針を一致させ相互に協力しあう必要があるため)

 中村は、これらを養成完了時に身につけられるとは思っておらず、就職後に引き続いて、研修・研究によって身につけるべきものとして考えていました。こういう考え方も、ある意味「現代的」な考え方でしょう。
 そのほかに 上述以外の東・和田・倉橋の保育者論も非常に興味深い内容になっています。東の論には、保育者は科学・文学などの知識に読書によって通じるべきであり、それは科学・文学などを子どもっぽく表現して子どもの問いに答えるために必要なのだというのもありました(子どもは問いたがるから)。
 明治の保育者論もなかなか捨てがたいな、と思われた方は、ぜひ拙稿を手に入れてみてください(手に入れ方は、最寄りの図書館に相談してみてください)。

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ごたごたしてますが、研究も進めてます

2010年06月21日 23時55分55秒 | Weblog
 なかなか記事にできる内容がないのですが、なんとか生きております(笑)。
 研究もぼちぼち進めています。8月の日本教育学会大会での発表要旨が今月末の締め切り。この学会の発表要旨はPDF化されて公開されてしまうので、生半可な出来ではマズイのです。題目は、「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員集団の組織化過程-師範卒教員と検定教員との衝突・分離・合流」です。史料は、先月地方教育史学会の発表で用いた『東伯之教育』の、当日使わなかった記事を中心に使います。明治32年の東伯郡(今の東伯郡と倉吉市を足した地域)で起きた、郡教育会の解散・再編事件を中心に論じたいと思っています。それを通して、当時の教員集団がかかえていた特有の問題領域があったことがわかるのではないかと思っています。
 教員史研究のまとめもしたいのですが、少しまとめにくい本にぶちあたってしまい、足止めを食らっております。
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「次はお前だ」

2010年06月13日 23時55分55秒 | Weblog

 めずらしく先週は毎日更新してみました。次のネタを充填している間に忙しくなってしまい、打ち止めになってしまいましたが(笑)。
 土日は友人の結婚式でした。坂本龍馬が大好きな友人らしいところが出ていました。落ち着いていて、とてもいい式でした。お幸せに!
 なお、別の友人から「次はお前だ」とせっつかれました。まぁ、たしかに。しかし、自分なりにがんばってきた上での今の独り身なわけですから、そう簡単にはいかないのでは…(笑)。最近は、過去における自分の「見事な」スルー能力を思い起こし、苦笑せざるを得ません。私、悪気があるわけではないのですが、素でスルーしますので…

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研究をよりよく進めるには(4)―差異による論文の価値

2010年06月09日 23時01分50秒 | 研究をよりよく進めるには

 今日は、旧HPテキストの補完。久しぶりに目を通して思ったこと。…執筆当時のうめき声が聞こえてくるようだ。


差異による論文の価値

(1) 概念説明の必要性
 君の論文には概念説明が足りないと、言われたことがあります。概念というのは、事物の本質的特徴とその連関のことで、事物を認識するための枠のようなものです。人間は、概念によって事物を認識します。ですから、論文の執筆者は、研究対象を認識するために適切な内容で概念を規定しないと、対象をまちがった形で認識する危険があります。その危険は、論文の読者にも及びますから、自分でわかっているだけでは十分ではなく、論文にきっちり説明しておかなくてはなりません。また、概念は歴史的・文化的な性格を帯びたものであり、その中に様々な特殊な意味や問題が含まれていることがあるので、使用する概念がどんな文脈においてどんな意味で使われてきたか、ということも確認しておく必要があります。例えば、大日本教育会を研究しようとすれば、「大日本教育会」という概念が今までどのように使われてきたか確認する必要性がある、ということです。これは、先行研究の整理という作業につながるものです。
(2) 論文の「価値」の所在
 自分の論文にどんな価値があるのか、わからなくなったことがあります。「価値」ある論文ってどういうものなんでしょうか。
 価値という概念には、事物そのものの本源的な力という意味と、他の人々に妥当するという二重の意味があります。マルクス『資本論』では、この二つの意味が、それぞれ「使用価値」と「交換価値」とに区別されて使われています。使用価値とはものの持ち主にとって有用な価値のことであり、交換価値とは他のものとの関係から現れる相対的な価値のことです。商品は生産者にとっては交換価値を持ちますが、購買者にとっては使用価値を持たなくてはなりません。だから、商品が存在するには、使用価値と交換価値とが常に相互交換できる必要があるのです。
 論文を商品とをそのまま重ねることはできませんが、自他両方から必要とされるか否かという意味では共通するものがあると思います。私にとって価値がある大日本教育会の研究は、読者にとっても価値がなくては存在できません。私の価値と読者の価値は、交換が可能なように共通性・関連性を持ってないといけないのでしょう。なお、このとき、読者とは誰か、ということが問題になります。読者が一般人か学者か、それも教育学者か教育史研究者か日本教育史研究者かで、何を価値あるものとするかという価値観がかなり違うので、誰を読者と想定するかによって研究の内容が変わらざるをえないからです。私の博論は、どうやら教育学者を想定しないといけないようです。日本教育史研究者として育てられてきた私は、教育学者たちと交換できる価値を持つ研究論文を書けるのでしょうか。
 価値は、個々の要素の統一体である体系の中で見いだせるという考えもあります。ソシュールは、価値を言葉に基づいて考えています。すなわち、言葉は、他の言葉との差異の関係だけにおいて意味を持つ、すなわち価値が見いだせるとしました。価値は、言葉の本源的な力の中にではなく、ある一定の言語体系の中において発生するものと考えたのです。一つの体系は、個々の要素が集まって成立します。この体系は要素なしには存在しないのですが、逆に個々の要素は体系が存在しなければ価値を持たないのです。価値は、その本源的な力という側面と他の個体との差異という側面が統一されたところに見いだすことができるというわけです。論文の価値は、自らの論文と他の論文とで構成された一つの体系のなかで、自らの論文と他の論文の差異から見いだすものなのです。
 概念説明をしなくては研究が正当なのか間違っているのかもわからず、論文の本源的な力が何か認識できません。また、論文の価値は、読者との対応関係と先行研究との差異からしか見いだせません。つまり、概念は自分で何となくわかっているだけではダメで、しっかりその意味と概念同士の関係を論文に書かないといけないわけです。そして、学者が読む学会誌や紀要における価値ある論文とは、過去の学者たちの業績である先行研究の整理によって、自らの論文と他の論文との差異を明確にすることができている論文です。
(3) 論文の「差異」を見いだす際の注意点
 論文の価値は、先行研究との「差異」にあります。差異とは、個体そのものの価値の肯定に基づいて成立するもので、他の個体との関係の上で認識されるものです。
 では、論文の差異を見いだす視点は、どこに成り立つのでしょうか。普通、論文の差異を見いだす際、文章化された内容のみから差異を見いだします。この方法そのものはいたしかたないと思いますが、そこに問題がひそんでいることも、自覚する必要があるのかもしれませせん。
 論文は、ある問題に対する書き手による思考の結果を、文章(言葉)で表現したものです。人間は、文章(言葉)で問題への思考過程や結果を表現するとき、かならず「疎外」という過程を経ます。疎外とは、自己を他のものにすることであり、自己を外部に表現することです。表現の際に用いられる文章(言葉)は、そもそも他人がつくったものであり、文章(言葉)を用いるには一度自分を失う必要があります。私の論文は、自分の思考の結果を自己でない他のものにして表現したものなのです。先行研究の場合も同じです。
 先行研究との差異は、論文を人間の行為として認識した場合、次のようなことも考える必要が出てきます。私の論文とAさんの論文は、書かれた環境が違い、問題を考察し執筆する際に体験する内容も違います(現在)。そして、その問題を見いだし執筆に至る私とAさんの経緯(過去)、問題を考察し執筆した後の私とAさんの変化(未来)も違います。論文の差異は、書き手の状況(過去・現在・未来)において見いだすこともできるのです。
 論文の差異を文章化された内容のみから見いだすことは、人間の行為の結果としてではなく、当然そこに存在する「もの」として認識していることのようです。逆に言えば我々は、論文を書くことによって、物になってしまう可能性があるのです。
(2006年10月1日・2日初稿のものを2008年6月28日・2010年6月9日若干修正)
(参考文献:中山元『思考の用語辞典』筑摩書房、2000年)
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寺崎昌男編『教師像の展開』―近代日本における教師像の歴史的形成過程

2010年06月07日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 うっ屈した日常を打開するために(笑)、久しぶりに先行研究をまとめたいと思います。テキストは、寺崎昌男「解説 教師像の展開」寺崎昌男編『教師像の展開』(近代日本教育論集第6巻、国土社、1973年、9~31頁)です。なお、研究対象としての人物名には「氏」はつけていません。
 重要なことが多く、あまりに長くなったので、途中でやめたくなりました…(;_;) 余裕がないのでやりっぱなし、文章は読みにくく、難しいままです。先に言っておきます(笑)。



 本論文は、明治~昭和戦前期に発表された教師論、教育実践記録、および教師の社会的あり方に関する評論について、教師の生活や意識にかかわる時代背景を踏まえて論じたものです。戦前日本において教師はどのようにあるべきとされてきたか、という観点から、日本教員史を通史的に描いた論文だと思います。比較的短いわりに、今でも目の覚めるような論旨を含んでおり、教員史研究を志す方だけでなく、教育史を学ぼうと思われる方にもぜひ読んでみることをお勧めします。
 この論文では、戦前の教師論(または教育者論)を、国家側からの教育界の指導者たちによる教師向けの啓蒙的教説という性格を強く持ち、権力の末端機構に位置づけ、本格的な知的階級としてみなされなかった教師のあり方の反映だと位置づけています。教師論以外の記録・評論を対象としたのは、これらの資料が明治以降の国家社会によって形成されてきたものとして教師像(ビルト)を歴史に位置づける手がかりとなるからであり、国家側・指導層からの教師論だけでは見極められない内容を明らかにするためでした。そのことによって、教師像を近代日本の国家・社会において歴史的に作られたものとして明確化し、その教師像を作りだしたものの論理を対象化し、その論理的矛盾を明らかにしようとしたそうです。以下、順を追ってまとめていきたいと思います。
 まず、啓蒙期の教師について、「師匠」から小学校「教員」の造出へのという流れで述べられています。明治公教育の出発にあたっては、新しいタイプの学校(近代学校)を全国に5万余校設立・運営するため、大量の小学校教員を組織的・安定的に供給する必要がありました。しかも、その教員たちは、科学重視・近代実学内容の小学校教育を担うにふさわしい学力をもち、幕藩時代の郷学・寺子屋教育にあった地域的・私的性格を払拭した中央単一支配下の新しい身分に取り入れなくてはなりませんでした。そのため、政府は、幕藩時代にほとんど見出すことのできなかった「教師は養成されるべきもの」という思想を選び取り、師匠を否定して教員を造出するという教員養成の方針をとりました。ただ、実態としては、師匠→教員という過程は、なめらかには進んでいません。結局、各地域では、寺子屋・私塾の師匠や神官・僧侶・士族などの和漢学の心得のある者を教師に任命して、師範学校などの教員養成機関において「伝習」「講習」を受けさせて、急激な教員需要に対応しています。
 明治初年の教師論(たとえば文部省『小学教師心得』明治6(1873)年)には、知識伝達者としての啓蒙的・主知主義的教師像が中心であり、国家的意義から演繹した教師の役割は説かれませんでした。また、小学校教員は次の問題に直面していきます。すなわち、教師は知的教授者という位置にとどまりうるのか、啓蒙的教授内容は真に実用性をもっているのか、という問題です。そもそも、幕藩時代の民衆の生活において寺子屋・私塾師匠は、地域・父母の教育要求に即自的に対応した主として読書算を担当する知的指導者として、幼児期養育を担う子守や老人、青少年期職業指導を担う宿親・親方などのさまざまな「教師」とともに教育の世界を分かち持っていました。この慣行の中に押し入ってきた学校教員は、その立場と役割とを自らの実践的問題として問わざるをえなかったのです。それらに対する問題意識は、明治20年代以後、学校を臣民教化機構化・擬似的共同体化しようとした教員政策とあいまって、小学校教員たちを訓育・徳育担当者や一村一区の人格モデル・指導者としての立場へと移行させていきます。
 明治中期の教師論については、文部大臣であった森有礼と井上毅のそれが取り上げられています。明治18(1885)年、森有礼が文部大臣に就任しました。森文政期には、教師・教員養成改革が重要な政策目標として取り組まれ、師範学校令制定によって順良・信愛・威重の三気質が教員養成の目標とされました。森が養成しようとした教師は、天皇制国家の臣民育成を担う直接的責任者として、「学問」とは区別される「教育」を担う知識伝達者とともに、子どもに道徳的薫陶を及ぼす人格の持ち主であり、僧侶のように政論に中立である「天皇制国家の教育の担い手」でした。ただ、少なくとも森自身が意図していた理想の教師とは、国体への忠誠心を自発的にもち、読書算の教授だけでなく身をもって子どもに行動を示して道徳律に気付かせ、学力とともに忠良なる臣民の資質を備えて精神共同体にその一員として参加しうる子どもを育成する教師ではないかとされています。それは、教育の本質から教師の任務と役割を説き、「国体」の形成への教職を通じての献身と禁欲を説いたキリスト教的・西欧近代思想の反映であり、儒教主義思想とは異なるものです。当時の民権運動に対する政治的意味を否定することはできませんが、森の教師論には「教職の専門性論と、教師聖職者論との契機を同時にふくんでいた」とされています。ただ、明治23年の教育勅語渙発などを経ると、森の教師論のような発想は文部行政から見られなくなりました。井上毅文部大臣のころには、進展する国際社会における資本主義的競争への危機感に裏打ちされた実業教育論のもとに、国家・天皇に対する論理だけを媒介して教師の地位を説く教師論が発表されていきます。
 日清戦後から明治30年代にかけては、教師を新しい状況がとりまいていきます。すなわち、義務教育就学率の急上昇にともなう小学校教員数の増加、それに占める女教員と農民層の増加の一方で、劣悪な待遇によって教員集団の社会的地位が下落していったのです。政府は、待遇改善への決定的な対応ができない一方で、教員の政治的活動を規制し、教育内容・方法の画一化を進めて、教員の自由を狭めていきました。これらを受けて、教員たちは内的自発性の成立条件を喪失し、教師としていかに生きるべきか思い悩み、「教師たることへのよりどころ」を求めていきます。しかし、国家としては、大日本帝国の対外膨張に対応して進取敢為の積極的国民を育成するには、教師がただの職業人になってしまうことは避けられるべきことでした。そのなかで、教師は子どもへ献身するために、教室王国の主権者・主宰者として教科書を超え、価値内容を子どもたちに付与する慈恵的姿勢をとることを要求されていきます。このような状況下で、教師の目は、教育界の内へ内へと導かれていきました。
 明治末期から大正期にかけては、聖職的教師論という建前を逆手に取った居直りの教師論が現れます。官僚制・資本主義化の進展のなかで、その国家的役割を逆手にとって、教師の劣悪な法制的・経済的地位を再検討しようとする意識が、教師論のなかにも芽生えていきました。その一方で、教師自身が自己の経歴を内省しつつ、現実をいったん受容してのちその現実を越えようともがく、モノローグ(独白)的な教師論も現れます。大正期教師論は、教師論の建前と教師の現実との大きな矛盾に直面したがゆえに、自我の伸長を軸とした脱制度論的公教育批判の様相をもち、内観による「修養」概念の再発見によって教育実践の再生を展望していきました。
 教育運動を通じた教師像も検討されています。明治30年代には、社会主義運動の影響を受けて、経済的不平等による教育機会の差別や、教育費の全面的国家負担の要求、学齢児童の就労禁止などの労働者からの教育要求が現れています。明治期においてはこの流れに沿った教師の運動は停滞していましたが、大正・昭和期を通して教育労働運動が勃興すると、新しい教師論を生んでいきました。ただし、それらの運動と教師論は15年戦争の進展の中で弾圧されたため、本格的に展開するのは戦後に入ってからになります。なお、これらの動きと関連しつつ、大正期の運動を批判的に継承して、生活綴方教育運動や教育科学運動が展開しました。また、それらの運動とは離れたところでも、着々と教師のあり方が模索され続けていました。斎藤喜博などのように、子どもと同僚との緊張をはらんだ実践と教育研究とに向けた心構えなどを語り、「子どもとのきり結びをばねとした創造的・専門的教師像への地平をひらく視点」を見出す者も現れました。そして、敗戦を迎え、戦後も教師たちはそれぞれ生き続けていくのです。
 なお、戦前の教師像といえば、「師範タイプ」という像があります。師範タイプとは、師範学校を卒業した教師の一般的性格傾向を示す言葉であり、誠実ではあるが視野が狭く、従順ではあるが権威に弱い、偽善・卑屈・偏狭・陰鬱というの性格傾向を指します。そのような師範タイプの教師を生みだした師範教育については、明治以来とくに昭和期において、批判的認識および改革実践・論議が重ねられていました。師範教育を保っていた要因には、教師になるためには一般大学の学問的教授だけでは達成されない特別の教養が必要であり、それは長期的な教職専門教育が必要であるという認識があり、明治以来構築してきた師範学校の強力な閥的組織の維持要求がありました。師範教育は、戦後、開放制によって廃止されました。しかし、師範学校卒業生は、国民の生活現実から切り離されていく中学校―高校―帝国大学というエリート・ルートを経ず、「自らの将来を小学校教師へと閉鎖的に限定せざるをえなかった」がゆえに、「日本の子どもとそれをとりまく現実へのとりくみを可能とする位置に立った」のではないかという考え方もあります。

 以上、寺崎論文をまとめてきました。寺崎論文は、近代日本における教師像の歴史的形成過程からみた、小学校教員の歴史的特徴(地域的・私的性格の質的転換、国家的役割の漸次的付与、内省的性格の深まり、法制的・経済的地位への自覚化、国家から子どもへの献身対象の変化など)を明らかにしたものだと思います。戦前日本教員史の通史(とくに思想史として)として、分量としては短いですが、非常によくまとまっている論文だと思います。本文中には、以後発表されていく日本教員史に関する研究論文の主張を思わせる論旨があちらこちらに見られ、以後の教員史研究の先駆のようにも感じました。なお、自由民権運動と教員との関係、女教員についてはほとんど論じられていません。
 寺崎論文は、海後宗臣・波多野完治・宮原誠一監修「近代日本教育論集」シリーズの第6巻『教師像の展開』の総解説です。同シリーズは、「明治百年」(シリーズ発行が開始されたのは1969年)かつ戦後20年あまりが経過した中で、、明治以降に発表された教育に関する論説を復刻するとともに、それに関する解説を編纂したものでした。編纂当時、明治以来の教育学・教育研究は、諸外国の教育思想・理論・方法の輸入・祖述にすぎないとして省みられていなかったそうです。しかし、そこには諸外国の教育研究の摂取と内発的な発送をもとに創造的な努力が営まれ、教育現場に一定の影響を及ぼすとともに独自の歴史的系譜を形成していると意味づけ、「日本における教育研究の遺産の継承、なかんずく明治以降におけるそれの発展的継承が、少なからずおろそかにされている」と指摘します。寺崎論文は、この問題設定のもとに書かれたものでした。「近代日本教育論集」シリーズの問題設定は、30年経った今でも生きているような気がします。過去のことなど省みるに値しない、という傾向がなくなったわけではありません。しかも、そういう人たちに限って、過去のことを真剣に見つめたことがない、というのも事実ではないでしょうか。教育史の出番はそこにこそあるような気がします。
 なお、日本教員史の通史的研究として、もう少し新しく、戦後も含めたものとしては、寺崎昌男・前田一男編『歴史の中の教師Ⅰ』(日本の教師22、ぎょうせい、1993年)と同編『歴史の中の教師Ⅱ』(日本の教師23、ぎょうせい、1994年)があります。これらもお勧めです。叙述の戦前部分は、上の寺崎論文の内容を基礎としつつ、時代に合った形で再構成されていると思います。いずれ、また紹介したいと思います。
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研究をよりよく進めるには(3)―文献史料の読み方

2010年06月06日 23時55分55秒 | 研究をよりよく進めるには

 うーん…いいことがおこれば、嫌なこともおこる。そういう風に世の中はできているのだな。


文献史料の読み方

1.史料の文章そのものを理解する。
(1) 史料の著者は、何を問題としているかを明確にする。
(2) 史料の著者は、その問題に対する自分の意見を、読者に対して、どのように説得しようとしているか、を明確にする。
(3) 史料の著者の意見を、自分の知識・経験と対照させて、共通点や相違点を明確にする。
    ※ (3)はとばしてもよい。

2.史料の文章の意味を理解する。
(1) 概念史のレベルで意味を理解する。
・ その史料上における重要な概念を、史料上において実際に用いられている意味を明確にする。
・ その史料上における重要な概念がいくつかある場合は、史料上においてどのような関係にあるかを明確にする。
・ その史料上における重要な概念の、当時の意味と当時の意味に至るまでの意味の変化を明確にする。
・ その史料上における重要な概念の、現在の意味と現在の意味に至るまでの意味の変化を明確にする。
・ 史料上に用いられている意味と、当時の意味・現在の意味の違いを明確にする。
 ※ 外国の史料ならば、日本における意味(同時代および現在)との違いも、可能ならば明確にしたい。
(2) 研究史のレベルで意味を理解する。
 ※ 誰がその史料を書いたのか、ということが直接の執筆背景を明確にするポイント!
・ その史料が書かれた同時代の思想的背景(思想・学説等)を明確にする。
  → その史料の内容と、思想的背景を対照させて、問題関心・方法・内容などにおける関係性を明確にする。
・ その史料が書かれた同時代の社会的背景(制度・経済・文化等)を明確にする。
  → その史料の内容と、社会的背景を対照させて、問題関心・方法・内容などにおける関係性を明確にする。

3.史料そのものの意味を理解する。
(1) 史料の筆者は、その史料を書くことによって何を考えようとしたのか明確にする(思想として)。
(2) 史料の筆者は、その史料を書くことによって何をしようとしたのか明確にする(行動として)。

    (2006年4月13日稿)
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研究をよりよく進めるには(2)―研究会の組織と利用

2010年06月04日 23時49分19秒 | 研究をよりよく進めるには

 ふぅー、ようやく一週間が終わりましたね。崩れ気味の精神のバランスを保ちながら、それぞれお互いにがんばりましょう。
 さて、今日はまたも旧HPテキストの補完。今ではちょっと変な表現がありますが、とりあえずテキストに手を入れない方針をとり、当時のままにしています(「我々院生」とか)。落ち着かない今の私には、たいしたことは書けません(笑)。なお、本文中の大日本教育会研究組合について詳しくはこちら


研究会の利用

(1) ある研究会の目的
 集団を効果的に維持するにはある一定の目的・方向性が必要です。平成17年1月から平成18年2月まで、一年間私が中心となって運営した教育史研究会(広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会)の「申合」を例にとって挙げてみましょう。
教育史研究会申合
   第一:本会は、会名を広島大学教育学研究科教育学教室内 教育史研究会とする。
   第二:本会の目的は次の通り。
    (1) 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
    (2) 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。
   第三:本会には、本会の目的に賛同する者は、いかなる者でも参加することができる。
   第四:本会は、隔週一回30分から90分程度会合を開き、教育史研究に関する意見を交換する。
   第五:本会に幹事若干名を置き、事務を処理する。
 同教育史研究会の目的は「申合」第二項に定めました。すなわち次の通り。

    <広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会の目的>
      1 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
      2 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。

 同研究会の目的は、あえて説明しなくてもよいと考えます。申合にある目的を参加者個々人が自由に解釈し、様々な形で教育史研究会を利用してもらえればそれでよいと思うためです。また、ある解釈を示すことで、その方向に囚われてしまうことを恐れます。ただ、これらの配慮が参加者(もしくは参加を考えている人々)に対して混乱を与えるとしたら、それは私の本意ではありません。
 ということで、参考までに、教育史研究会の目的理解とその意義について私個人の考えを述べたのが以下のものです。なお、以下の主張は、私個人の経験に則って構成した勝手な主張であることはお断りしておきます。

(2) 研究会で向上させられる教育史研究の能力
 上記の研究会で向上させることのできる「教育史研究の能力」の中で最も重要なものは、「論文の読解力」だと思います。最も重要だと考えるのは、論文を読むことは参加者全員が共通に行う作業だからです。当該論文を読みとるには、次のような論文構造に関する諸点を明確にする必要があります。

 <論文を読みとるために理解が必要な注意点>
    1 何を論じ、なぜ論じているのか。(課題設定)
    2 何をどのように論じているのか。(論文構成・展開)
    3 結果として何が言えるのか、結論はどういう意義があるのか。(結論)

そして、上記の論文構造に関する諸点の妥当性を問うには、次の諸点についての知識理解が必要です。

 <論文の妥当性を問うために理解が必要な注意点>
    1 現実問題や先行研究では、何が問題となっているのか、なぜ問題なのか。
    2 先行研究では、何が明らかにされているのか。
    3 先行研究を通して、何が課題として残されているのか。

 これら諸点についてどれだけ理解できるかが、「論文の読解力」の程度を計る指標になろうと思います。また、これら諸点は自らが論文を書く際に注意すべき点と重なるのであり、「教育史研究の能力」として基礎的な能力であると思われます。能力向上の方法として繰り返しが有効であることを考えれば、教育史研究者にとって教育史研究会のテキスト読解は基礎的能力の形成にとって有意義な機会となります。また、レジュメ作成は、論文を意識的に分析し上記の諸点を明確にする作業であり、自覚的に能力形成を行える有意義な機会となります。
 ただし、以上のようなテキスト読解は一人でもできます。では、なぜ多人数が集まって、研究会を組織する必要があるのでしょうか。私が研究している大日本教育会では、明治26(1893)年12月に研究組合という組織的研究機関を設置しました。研究組合設置の意義には、「偏見固陋の危険性の排除」と「研究資料の交換」という意義が見いだされていました。私が考える本研究会の組織の意義も大きくはここにあり、まとめると次のようになります。

 <研究会の会合によって得られるもの>
    1 自分にはなかった発想・意見・知識を確認すること。
    2 自分の誤解を確認すること。

 自分のものとは違う発想等は、自分のものとは違う知識・経験から生み出されることが多いのではないか、と私は思います。また、自分の誤解を確認することは、次なる成長の動機となりうるのではないか、とも思います。だからこそ、多人数で研究会を組織する意味があるのであり、異なる意見・知識を極端に追究すれば「自身の専門領域・地域を超えた知的交流」は重要だと思うのです。
 以上、討議の意義など述べ切れていない部分もありますが、教育史研究会の目的と意義の私個人の見解を述べてきました。私は、この研究会では、参加者個々人が論文の読解力を向上させ、異なる発想・意見・知識を得ることができればよいと思っています。そして、多少なりともみなさんの論文作成能力の向上や新たな視点の形成に、教育史研究会が資することができれば、なおよいと思います。教育史研究の実体は個々の研究で成り立っています。教育史研究のさらなる進歩は一人の研究者によって達成されるものではありません。研究者個々人が優れた論文を書くことで研究は進歩するのであり、研究者のタマゴである我々院生の研究能力の向上は教育史研究の進歩と無関係ではありません。教育史研究会は、参加者一人一人の能力向上・研究の進展を目指すものだと思います。ここに、研究会の発起・参加の意義があるのだと思っております。

(広島大学教育学研究科教育学教室内教育史研究会第四回例会報告書(2005.2.26発行)を訂正し、2006.4.13作成)
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研究をよりよく進めるには(1)―教育史研究論文を書くまでVer 1.2

2010年06月03日 23時55分55秒 | 研究をよりよく進めるには

 旧HPには、純邦楽以外にも研究関係のテキストを掲載していました。そのことを、さっきまで忘れていました(笑)。HP休止(2009年5月)まで公開していたものについて、気が向いたときに(笑)貼っていこうと思います。今では少し手直ししたほうがよいかもしれませんが、手直しをし始めるとキリがないような気がしますので微修正にとどめようと思います。
 以下は、記号と最後の( )内の文章を修正しましたが、本文内容は一切変更していません。内容は大学院生(学部生)向けだと思います。
 現職教員などにも、学術論文を書くときは参考になるのではないかと思います。ただし、教育研究(授業研究・教材研究・校内外研修など)の場合は、少しニュアンスが変わってきます。そちらは、また機会があれば別途論じてみたいです。


論文を書くまで Ver 1.2 (2005年4月改訂)

1.テーマ(話題)を設定する。
(1) 教育に関する通史を、疑問の目で批判的に読む。
(2) 「これはホント?」「ここ、もう少しわからないか?」と思うところを見つける。
(3) 自分の関心・現代の問題などへの接点を考えながら、テーマを設定する。
  <日本東洋教育史研究室所属生に求められるテーマとは?>
   ☆ 「教育の特質」「日本の特質」などにせまるテーマ。
     (例:日本教育の画一性、理論と実践の関係、とか)

2.先行研究(先達の研究成果)を調査する。
(1) 1で設定したテーマについて、先行研究を調べる。(GeNii 学術コンテンツ・ポータルなどの利用)
(2) 先行研究の概略をまとめ、自分なりのコメントをつける。(特研で発表)
(3) 先行研究の参考文献などから、次に読む論文を見つける。
(4) (1)~(3)の繰り返し。場合によっては1に戻る。

3.史資料を調査する。(2と並行)
(1) 1で設定したテーマに関する史料を、何でもよいので集めまくる。
(2) 史資料を読み、内容別・年代順などに整理する。
(3) 史資料を時系列に並べ、年表を作る。

4. 論文を書く準備をする。
(1) 先行研究の成果と史資料調査の成果を見比べながら、自分の研究との相違点を見いだす。
(2) 論文題目を設定し、研究の目的(何を論じるか)をハッキリさせる。
(3) 研究の目的を達成する方法(論旨)をハッキリさせる。(「など」は厳禁)
(4) 章→節(→段落)の順に書くことを明らかにし、論文構成を作る。

5.論文を書く。
(1) 4で設定した論文構成に沿って、書いていく。
(2) 書き終わったら、読む側の立場に立って、もう一度読み直し、書き直す。
(3) 特研で意見を聞き、必要があれば書き直す。
(4) 完成。先生に見せることを忘れずに!


 <なぜテーマを設定するのか?>
☆ テーマを設定するのは、自分の問題意識を明確にするため。
  問題意識とは、現実の把握を通して自分が問題であると認識する考え。
  「なぜ、自分が、研究活動を行うのか」という問いに対して答えられるようにすること。
<なぜ先行研究を調査するのか?>
☆ 設定したテーマについて、どこまで研究の蓄積がなされているか確認するため。
☆ 先行研究と自分の研究の相違点を明確にするため。(一般に「研究の位置づけ」と呼ばれる)
  先達が行った研究と同じ内容を明らかにしても、その研究は単なる「自分のための勉強」である。
  先達の研究と自分の研究の相違点に、「社会的意味」があればある程、その研究の意義は高まる。
<なぜ史資料が必要なのか?>
☆ 自分の研究・論理の根拠を示し、妥当性を付与もしくは高めるため。
  史資料とは、基本的には客観的事実を表すものである。
<なぜ論文構成を前もって作成するのか?>
☆ 論理展開の順序を示し、証明の方法を明確にし、研究を効果的に進めるため。
  章・節構成は、論文の最も単純な構造(論理展開をも含む)を示す、「見取り図」である。
  そのため、一読してその論文の基本的な構造が理解できるようになっている必要がある。
  自分でも理解しがたい論文構成ならば、他人に理解できる論文には絶対にならないので、再考すべし。
☆ 論文構成は、人が理解する順序を示すものである。
  人は、順に必要な情報を得、それぞれ妥当であると判断できなければ物事を理解できない。
<なぜ自分で完成を認めた論文を、他人に見せるのか?>
☆ 論文の論理展開や史資料解釈などについて、妥当性を高めるため。
  論文は「自分のための勉強」ではないので、他人が読んで始めて意味のあるものとなる。
  他人が理解できるかどうかが、最低限の論文の価値である。
☆ 自分の指導教員は、自分を指導する権利と義務を有し、自分とは違う思考・豊富な知識を有する者。
  指導教員には、敬意をもって接し、より正確で意義ある指導を受けましょう。
<論文の注意点>
「根拠のない文章」「結論(考察)のない文章」「論理がつながっていない文章」「やたら長い文章」「言いたいことがわからない文章」「みんなわかっている内容しかない文章」「装飾が多い文章」「自分だけわかっている文章」 に注意!!

 ※ 論文執筆は自己満足で終わってはいけません。
  人に見せるためのもの、ということを肝に銘じましょう!!

 (恩師のご指導を参考にしながら、自分の経験を加えて作成)

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