教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育とは何か―教育を考える基本的枠組み

2012年02月27日 23時13分50秒 | 教育研究メモ

 「忙しいのに掃除を始める」的理論に基づき、ごそごそしていると、また未発表原稿を見つけました。どこかの原稿にするにも小品すぎるし、抽象的すぎるのですが、お蔵入りはもったいないので、さらしておきます。
 執筆時期から想像すると、多分、次のような意味合いでまとめたものだと思われます。当時は就職活動をしていました。もし採用されるなら、自分はどんな役割を期待されて採用されるのだろうか、と問うた時に、自分が担当するなら必ず「教育原理」または「教育学原論」などの科目を引き受けることになるだろう、と考えました。そうであれば、「教育とは何か」を自分なりに答えられるようにしておこう、と考えたのだったかなと思います。
 今から見るとだいぶ固く、抽象的で、わかるようなわからないような…、もう少しで何かに届くような届かないような…という感じ?です(苦笑)。当時の私の、教育学研究法としての「思考マップ」(?)とか「思考枠組み」みたいなものだと思ってもらえればいいかな。今ではもう少し幅広くなっていますが(たとえば今では、教育学=人間学とは単純には考えていません)、基本的な趣旨としては間違っていないと思います。
 この記事名についている副題は、今(2012年2月27日)つけました。

 なお、私の教育観・教育学観については、次の記事もご参照ください。
 「語源から考える「教育とは何か」」(2009年5月12日記事)
 「教育学としての教育史―「教育とは何か」を考える資料」(2010年1月27日記事)
 「教育学者は何をすべきか?―教育学研究と教育学教育」(2010年2月1日記事)


白石崇人「教育とは何か」 (未発表原稿、2008年6月24日作成)

 教育とは何か。教育とは、一定の理想的人間をつくろうとするはたらきかけである。その理想的人間像を示すものが、教育目的・内容である。そのはたらきかけ方を示すものが、教育方法である。これら教育目的・内容・方法を具体化してひとまとめにしたものが、教育思想・制度・実践である。我々が認識できるものは、具体化された思想・制度・実践である。教育学とは、「教育とは何か」という問いを追究する研究とその結果である。つまり、教育学は、具体化された思想・制度・実践を認識して、その目的・内容・方法を分析する研究とその結果である。
 教育思想・制度・実践は、基本的には次の4つの研究方法を用いることによって認識することができる。まず第1に、それらは一定の概念と論理によって言語化されるため、哲学的研究によって認識することができる。第2に、それらは現在のものと過去のものに分けられるが、現在のものは過去のものを改めた結果であり、過去のものは現在の元であり原因であるため、歴史的研究によって認識することができる。第3に、それらは社会のなかに存在するものであるため、社会学的研究によって認識することができる。第4に、それらは他の思想・政策・制度と異なるため、比較研究によって認識することができる。教育学研究は、これら哲学的・歴史的・社会学的・比較という研究方法を、単一または複合的に用いて進めていく。
 教育思想とは何か。教育思想とは、教育に関するある問題・前提・概念およびそれらの関係を、論理を用いて明確化し、厳密化する思考行為・結果である。教育思想に表現される教育目的・内容・方法は、制度に比べて具体的であり、実践に比べて抽象的である。その思考結果を体系化すると、教育思想は教育学説となる。教育学説は、学説の継承者の養成、または学説を練磨する批判者を生み出す際、教育学研究を推進する基盤となる。教育思想を対象とする教育学研究は、特定の個人の教育思想を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
 教育制度とは何か。教育制度とは、ある集団内または集団間において、意識的・無意識的に決定された、特定の教育思想(目的・内容・方法)である。教育制度に表現される教育目的・内容・方法は、集団内・集団間で形成された合意であるため、思想・実践に比べて最も抽象的である。しかし、教育制度の規範性は思想・実践に比べて最も高く、制度に適わない思想・実践を制限し、制度に適う思想・実践を促進する。教育制度は、政治性の高いものを教育政策といい、とくに規範性の高いものを教育法規という。教育制度を対象とする教育学研究は、特定の集団の合意に基づく教育制度を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
 教育実践とは何か。教育実践とは、特定の教育者が特定の教育思想・制度に基づいて、対象・時間・場所ともに極めて特殊な条件下で、被教育者に対して意識的・無意識的に行う教育行為とその結果である。教育実践は、教育思想・制度と比べて最も具体的であり、それぞれ特殊性が高く個別的であり、一過性が高く即時的である。教育実践を対象とする教育学研究は、特定の対象・関係・条件における教育実践を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
 教育思想・制度・実践には、それぞれ主な担い手がいる。教育思想を担うのは、教育思想家・教育評論家・教育学者などである。教育制度を担うのは、教育政治家・団体役員・教育行政官などである。教育実践を担うのは、校長・教員・社会教育主事・教師などである。教育思想家でありながら教員であったり、校長でありながら教員でもあったりするなど、一人の人物が複数の役割を担うこともある。また、それぞれ特有の関係を持ち、様々なメディアを通して、互いに積極的または消極的に刺激・反応し合っている。例えば、教育思想家の著作を読んで教員が自らの教育実践を修正したり、教育政治家や団体役員たちが決定した教育政策案に[を]読んで教育評論家が自らの教育思想を強く主張したり、教員の教育実践書を分析して教育学者が自らの学説を強化するなどのようなことがある。教育思想・制度・実践は、それぞれ独立したものではなく、各種メディアを介して、それぞれの担い手の行為によって相互に連結・作用している。そのため、教育思想・制度・実践の認識を目指す教育学研究は、教育思想・制度・実践の相互関係・作用に注意する必要がある。
 教育思想・制度・実践は、人間やその集団そのものを考える人間科学・社会科学などの思想的条件の進展程度に制限され、または促進される。また、学校制度・教員制度・政治体制・財政的基盤などの制度的条件や、校舎・教員・教具・教科書などの物質的条件に制限され、または促進される。教育思想・制度・実践は、様々な思想的・制度的・物質的条件に規定され、無制限に存在することはない。そのため、教育思想・制度・実践の認識を目指す教育学研究は、それらを規定している思想的・制度的・物質的条件に注意する必要がある。
 教育学の命題は、教育とは何か、である。より具体的には、「つくるべき[形成すべき、の意か]人間とは何か」「その人間をつくる[形成する]にはどのようにすればよいか」を問うために、教育思想・制度・実践について、それらの相互関係・作用、および思想的・制度的・物質的条件に注意しながら、教育目的・内容・方法を認識していく。すなわち、教育学で最終的に問われなければならないのは理想的人間の目的と内容であり、理想的人間に近づく方法である。教育とは何かを問うことは、人間とは何かを問うこと、すなわち人間学なのである。

※[ ]内は2012年2月27日補筆。

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学生・保護者・担任の三者懇談会

2012年02月25日 23時09分43秒 | Weblog

 このところ沈黙が多いので、ただの日記で更新。
 1週間が終わろうとしていますが、私は土日休みなしでこのまま来週に突入です。休みが欲しいですが、まあ今回は仕方ない。

 この土日は、学生(1年生)と保護者と私(担任)との三者懇談会開催中。懇談会はこの水曜あたりから始まって、来週まで断続的に続きます。私の所属校では、1年生の担任は必ずこの時期に設定するようになっています。保護者と会うのがメインなので、土日を使わざるをえないわけです。私は全部で20~30組くらいと懇談します。この土日が終わればあと少しです。
 大学教員=研究者とイメージしている人に対しては、イメージを壊して申し訳ありません(笑)。大学教員も教師であり、進路指導をし、保護者に説明しなければならない時代なのです(うちだけではないよね?)。
 懇談会は、基本的には進路に関する情報共有が目的です。学生に対しては、すでに全員と面談を済ませていますので、メインは保護者との情報共有です。とりあえず、今回は、保護者にも就職活動などのイメージをおおよそ描けた状態で帰ってもらえているようで、何より。おかげで一日に予定していた懇談が終了すると、疲れてしまって、何もする気になれなくなりますが。
 でも、学生のいつもと違う一面が見られたり、仕事に使える話(たとえば地元・職場(=学生の就職先)の動向)をたまに聞けたりと、私にとっても、ちょっと面白い機会になっています。

 来週頭にも大きな仕事があります。まだ最後の詰めができてません。明日懇談会が終わったら仕上げなくちゃ…。
 もう寝よ。

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昨日の大雪

2012年02月19日 14時29分53秒 | Weblog

山陰は金曜日から大雪でした。
写真は、昨日の昼過ぎの様子です。このあとももう少し降りました。

うちは平地にありますが、今朝、車をみたら、15~20センチくらい積もっていました。雪を「掘って」、車を救出。
今日はいい天気です。雪も少し溶け始めてくれています。

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「夢を持つこと」とは何か?―人間として成長・発達すること

2012年02月12日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

>夢 (迷える子羊) 2012-02-11 01:55:48
>何故先生の先生になりたいんですか?
>僕は夢がありません。
>何をとってもなんでそれがしたいか理由が出てこないんです。
>最終的に求めるものはなんですか?

 2009年3月7日の記事「「夢」とは何か―生きるための原動力」に、とても重いコメントをいただきました。
 「迷える子羊」さん、コメントありがとうございます。シンプルですが、苦しみが聞こえてくるような書き込みですね…
 ブログを見返してみると、この件についてちゃんと説明したことがありませんでした。おそらくこのような疑問を持っている人は「迷える子羊」さんだけではないとも思いますし、長くなりそうだったので、独立させました。

 正直、私が「先生の先生」になりたい理由を公開するのは、とても恥ずかしいです(私の生い立ちやら失敗やら無知やら、いろんなものが関わっていますので)。しかし、私の記事が疑問を生み、その疑問が読者の人生を考える(変える、とは言わない)きっかけになる可能性があるとしたら、私は答えたいと思います。
 「迷える子羊」さんの苦しみにも応えたいので、説明できる範囲で説明させていただきます。ぼやかしている所が多い+うまく説明できないので、長文+わかりにくい文章なのはお許しを。

 実は、私は元々、子どもたちによりよい成長・発達を提供できる、優れた教師になりたかったのです。その裏には、次のような素朴かつ漠然とした疑問がありました。私の周囲を見回し、自分を含めて、なぜこんなに苦しそうに生きなくちゃならないのだろう、なぜこんな人間になってしまったのだろう、もっと違った選択肢があったのではないか、人生は教育が変われば変わるんじゃないか、などの疑問です。自分が優れた教師になれば、こんな苦しみを感じなくて済む人が増えるのではないか、と思っていました。
 ただ、一教師になっただけでは、一年につき担当クラスの数十名にしか関われない、と、あるとき思いました。いつだったかはっきり覚えていませんが、中学生頃には漠然と思い始めていたと思います。
 教師を育てる「先生の先生」になれば、育てた教師がそれぞれ子どもたちとかかわることになります。そうなると、間接的ではありますが、私一人ではかかわれない多くの数の、子どもたちにかかわることができます。自分が教師になって、自分のかかわれる範囲でじっくり子どもたちとかかわることも魅力的です。しかし、自分だけではかかわれない多くの子どもたち(というより人々)のよりよい成長・発達を実現させたい、教育を今より良くしたい、という思いの方が私の中では大事でした。
 ですので、私が「先生の先生」になることで最終的に求めるものとは、より多くの人々のよりよい成長・発達の実現です。そのため、上限なく、常によりよい先生を育て、その先生たちにがんばってもらえるようフォローしていかなくてはなりません。非常に範囲が広く、かつ一生終わりのない夢だと思います。常に自己改革を続ける必要があるため苦しみも多く、抱くだけで重い責任を負うことになる夢です。自分の出来る範囲を見定めていくことが、今後の課題だと思っています。

 なお、今思うと、夢を持った頃の私は無知でしたので(今も無知ですが)、この夢の意味をよく理解していませんでした(理解しようとしていなかったようにも思いますが…)。夢の意味をよく理解していなかったため、今何をしなくてはならないかがわからず、それがわかるまですごく時間がかかりました。恥ずかしながら、本当に夢の実現につながる生き方ができ始めたのは、大学院生時代、しかも博士課程後期の時代でした。
 また、夢の実現につながる生き方ができはじめたとはいうものの、その道筋は一直線ではありません。実は、このブログを始めた頃は、自分が何を目指していたかわからなくなって迷走していた時期です。あまりに内容のない記事やひどい記事は削除しましたが、過去の記事を見ると私の紆余曲折を見て取ることができますので、興味のある人は、ちょっとのぞいてみてくださいね。なお、自分の夢への道筋が明確に見え始めたのは、2007年6月~7月に高校の非常勤講師を務めたあたりからです。

 ここから以下、少し一般的な話をしましょう。
 夢が見つからない(ない)人は、普段、「自分がかかわったって何も変わらない」と思っていないでしょうか。夢は「こうしたい」「こうなりたい」という意欲や意思の束ですから、自分から他にかかわろうとする意欲や意思を失った状態では、夢は持てません。私が夢を持てたのは、とくに根拠もなく「教育を変えたい」という意欲・意思をもてたからだと思います(客観的に見ると、だいぶ滑稽ですが)。「自分がかかわったら何か変わるかもしれない」、「今の自分を変えたい」とまで思わなくても、「これだけは守りたい」「これはゆずれない」でもいいでしょう。少なくとも「自分がかかわったって何も変わらない」というあきらめからは脱しなければ、夢は持てません。
 なお、「自分がかかわったって何も変わらない」と思うことは、悪いことではありません。冷静に現実(自分のできることも含む)を見据えることができるようになった証拠でもあるからです。間違いなくあなたは成長しています。
 しかし、そのままでは前へ進めませんし、生きることに充実感を感じられません。人も物も社会も、かかわれば必ず微妙に変化します(たいていは目に見えない程度に)。次に目指したいところは、少しの変化に気づくことができるようになる(観察力・感受性・推察力など)、または変化するまでじっと我慢するようになる(忍耐・努力の習慣など)ことなどでしょうね。そして、「変えられる自分になる」にはどうしたらよいか考え(構想力・計画力など)、実際に実行していくこと(実行の意思・意欲・実行力など)が必要です。
 今何も夢が見つからない人は、「今」をしっかり生きていますか。今しなければならないことを避けていないでしょうか。「何も変わらない(と思う)」から「何もしない」という状態になっていないでしょうか。自分の力では何も見つからないのであれば、「今しなければならないこと」をひたすらやってみてはどうでしょうか。「今しなければならないこと」(勉強やら宿題やら運動やら)は、周りの人があなたのためによかれと思って勧めていることです。それに乗っかってみることも、一つの手です(もちろん、後で後悔しないためにも、自分でしっかり判断して欲しいですが)。何もしなければ、何も起こらないのは当たり前、成長しないのも当たり前です。

 こうして考えてくると、ある意味、「夢を持つこととは、人間として成長・発達することでもある」とも、言えるかもしれません。夢を持つこととは、今の自分をしっかり見据え、かつ今の自分ではない存在に変わろう、今の自分にないものを得よう、という意思を持つことだと思います。今のままでいいや、と思えないから、夢を持つのです。「迷える子羊」さんは、おそらく、自分を変えたいがどうすればいいかわからないのでコメントしたのだと思いますが、どうでしょうか。(変えろと強制されているのかもしれませんが、それはそれで、人間としてまた一つ成長する機会です)

 人間は前にしか進めません。今の自分を見据え、そして乗り越えようとしてみてください。「準備」がしっかりできている人はすぐ乗り越えられるかもしれません。私のように10年以上もかかる人もいるかもしれません。どちらにしても、自分だけでは難しいはずですので、支えてくれる他人に支えてもらって下さい。他人に支えてもらいながら、いずれ自分で判断できるようになってください。そして余裕があったら、自分も他人を支えてやってください。普通の人は、自分だけ良ければいい人を支えてやりたいとは思いませんので。
 自分を助けてくれる他者なんていない、と思う人は、そう思い込んでいるだけだと思います。自分で視野を狭くして、自分の人間関係を狭く見積もっていませんか。

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