「忙しいのに掃除を始める」的理論に基づき、ごそごそしていると、また未発表原稿を見つけました。どこかの原稿にするにも小品すぎるし、抽象的すぎるのですが、お蔵入りはもったいないので、さらしておきます。
執筆時期から想像すると、多分、次のような意味合いでまとめたものだと思われます。当時は就職活動をしていました。もし採用されるなら、自分はどんな役割を期待されて採用されるのだろうか、と問うた時に、自分が担当するなら必ず「教育原理」または「教育学原論」などの科目を引き受けることになるだろう、と考えました。そうであれば、「教育とは何か」を自分なりに答えられるようにしておこう、と考えたのだったかなと思います。
今から見るとだいぶ固く、抽象的で、わかるようなわからないような…、もう少しで何かに届くような届かないような…という感じ?です(苦笑)。当時の私の、教育学研究法としての「思考マップ」(?)とか「思考枠組み」みたいなものだと思ってもらえればいいかな。今ではもう少し幅広くなっていますが(たとえば今では、教育学=人間学とは単純には考えていません)、基本的な趣旨としては間違っていないと思います。
この記事名についている副題は、今(2012年2月27日)つけました。
なお、私の教育観・教育学観については、次の記事もご参照ください。
「語源から考える「教育とは何か」」(2009年5月12日記事)
「教育学としての教育史―「教育とは何か」を考える資料」(2010年1月27日記事)
「教育学者は何をすべきか?―教育学研究と教育学教育」(2010年2月1日記事)
白石崇人「教育とは何か」 (未発表原稿、2008年6月24日作成)
教育とは何か。教育とは、一定の理想的人間をつくろうとするはたらきかけである。その理想的人間像を示すものが、教育目的・内容である。そのはたらきかけ方を示すものが、教育方法である。これら教育目的・内容・方法を具体化してひとまとめにしたものが、教育思想・制度・実践である。我々が認識できるものは、具体化された思想・制度・実践である。教育学とは、「教育とは何か」という問いを追究する研究とその結果である。つまり、教育学は、具体化された思想・制度・実践を認識して、その目的・内容・方法を分析する研究とその結果である。
教育思想・制度・実践は、基本的には次の4つの研究方法を用いることによって認識することができる。まず第1に、それらは一定の概念と論理によって言語化されるため、哲学的研究によって認識することができる。第2に、それらは現在のものと過去のものに分けられるが、現在のものは過去のものを改めた結果であり、過去のものは現在の元であり原因であるため、歴史的研究によって認識することができる。第3に、それらは社会のなかに存在するものであるため、社会学的研究によって認識することができる。第4に、それらは他の思想・政策・制度と異なるため、比較研究によって認識することができる。教育学研究は、これら哲学的・歴史的・社会学的・比較という研究方法を、単一または複合的に用いて進めていく。
教育思想とは何か。教育思想とは、教育に関するある問題・前提・概念およびそれらの関係を、論理を用いて明確化し、厳密化する思考行為・結果である。教育思想に表現される教育目的・内容・方法は、制度に比べて具体的であり、実践に比べて抽象的である。その思考結果を体系化すると、教育思想は教育学説となる。教育学説は、学説の継承者の養成、または学説を練磨する批判者を生み出す際、教育学研究を推進する基盤となる。教育思想を対象とする教育学研究は、特定の個人の教育思想を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
教育制度とは何か。教育制度とは、ある集団内または集団間において、意識的・無意識的に決定された、特定の教育思想(目的・内容・方法)である。教育制度に表現される教育目的・内容・方法は、集団内・集団間で形成された合意であるため、思想・実践に比べて最も抽象的である。しかし、教育制度の規範性は思想・実践に比べて最も高く、制度に適わない思想・実践を制限し、制度に適う思想・実践を促進する。教育制度は、政治性の高いものを教育政策といい、とくに規範性の高いものを教育法規という。教育制度を対象とする教育学研究は、特定の集団の合意に基づく教育制度を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
教育実践とは何か。教育実践とは、特定の教育者が特定の教育思想・制度に基づいて、対象・時間・場所ともに極めて特殊な条件下で、被教育者に対して意識的・無意識的に行う教育行為とその結果である。教育実践は、教育思想・制度と比べて最も具体的であり、それぞれ特殊性が高く個別的であり、一過性が高く即時的である。教育実践を対象とする教育学研究は、特定の対象・関係・条件における教育実践を、哲学的・歴史的・社会学的・比較的方法によって認識しようとする。
教育思想・制度・実践には、それぞれ主な担い手がいる。教育思想を担うのは、教育思想家・教育評論家・教育学者などである。教育制度を担うのは、教育政治家・団体役員・教育行政官などである。教育実践を担うのは、校長・教員・社会教育主事・教師などである。教育思想家でありながら教員であったり、校長でありながら教員でもあったりするなど、一人の人物が複数の役割を担うこともある。また、それぞれ特有の関係を持ち、様々なメディアを通して、互いに積極的または消極的に刺激・反応し合っている。例えば、教育思想家の著作を読んで教員が自らの教育実践を修正したり、教育政治家や団体役員たちが決定した教育政策案に[を]読んで教育評論家が自らの教育思想を強く主張したり、教員の教育実践書を分析して教育学者が自らの学説を強化するなどのようなことがある。教育思想・制度・実践は、それぞれ独立したものではなく、各種メディアを介して、それぞれの担い手の行為によって相互に連結・作用している。そのため、教育思想・制度・実践の認識を目指す教育学研究は、教育思想・制度・実践の相互関係・作用に注意する必要がある。
教育思想・制度・実践は、人間やその集団そのものを考える人間科学・社会科学などの思想的条件の進展程度に制限され、または促進される。また、学校制度・教員制度・政治体制・財政的基盤などの制度的条件や、校舎・教員・教具・教科書などの物質的条件に制限され、または促進される。教育思想・制度・実践は、様々な思想的・制度的・物質的条件に規定され、無制限に存在することはない。そのため、教育思想・制度・実践の認識を目指す教育学研究は、それらを規定している思想的・制度的・物質的条件に注意する必要がある。
教育学の命題は、教育とは何か、である。より具体的には、「つくるべき[形成すべき、の意か]人間とは何か」「その人間をつくる[形成する]にはどのようにすればよいか」を問うために、教育思想・制度・実践について、それらの相互関係・作用、および思想的・制度的・物質的条件に注意しながら、教育目的・内容・方法を認識していく。すなわち、教育学で最終的に問われなければならないのは理想的人間の目的と内容であり、理想的人間に近づく方法である。教育とは何かを問うことは、人間とは何かを問うこと、すなわち人間学なのである。
※[ ]内は2012年2月27日補筆。