教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「夢を持つこと」とは何か?―人間として成長・発達すること

2012年02月12日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

>夢 (迷える子羊) 2012-02-11 01:55:48
>何故先生の先生になりたいんですか?
>僕は夢がありません。
>何をとってもなんでそれがしたいか理由が出てこないんです。
>最終的に求めるものはなんですか?

 2009年3月7日の記事「「夢」とは何か―生きるための原動力」に、とても重いコメントをいただきました。
 「迷える子羊」さん、コメントありがとうございます。シンプルですが、苦しみが聞こえてくるような書き込みですね…
 ブログを見返してみると、この件についてちゃんと説明したことがありませんでした。おそらくこのような疑問を持っている人は「迷える子羊」さんだけではないとも思いますし、長くなりそうだったので、独立させました。

 正直、私が「先生の先生」になりたい理由を公開するのは、とても恥ずかしいです(私の生い立ちやら失敗やら無知やら、いろんなものが関わっていますので)。しかし、私の記事が疑問を生み、その疑問が読者の人生を考える(変える、とは言わない)きっかけになる可能性があるとしたら、私は答えたいと思います。
 「迷える子羊」さんの苦しみにも応えたいので、説明できる範囲で説明させていただきます。ぼやかしている所が多い+うまく説明できないので、長文+わかりにくい文章なのはお許しを。

 実は、私は元々、子どもたちによりよい成長・発達を提供できる、優れた教師になりたかったのです。その裏には、次のような素朴かつ漠然とした疑問がありました。私の周囲を見回し、自分を含めて、なぜこんなに苦しそうに生きなくちゃならないのだろう、なぜこんな人間になってしまったのだろう、もっと違った選択肢があったのではないか、人生は教育が変われば変わるんじゃないか、などの疑問です。自分が優れた教師になれば、こんな苦しみを感じなくて済む人が増えるのではないか、と思っていました。
 ただ、一教師になっただけでは、一年につき担当クラスの数十名にしか関われない、と、あるとき思いました。いつだったかはっきり覚えていませんが、中学生頃には漠然と思い始めていたと思います。
 教師を育てる「先生の先生」になれば、育てた教師がそれぞれ子どもたちとかかわることになります。そうなると、間接的ではありますが、私一人ではかかわれない多くの数の、子どもたちにかかわることができます。自分が教師になって、自分のかかわれる範囲でじっくり子どもたちとかかわることも魅力的です。しかし、自分だけではかかわれない多くの子どもたち(というより人々)のよりよい成長・発達を実現させたい、教育を今より良くしたい、という思いの方が私の中では大事でした。
 ですので、私が「先生の先生」になることで最終的に求めるものとは、より多くの人々のよりよい成長・発達の実現です。そのため、上限なく、常によりよい先生を育て、その先生たちにがんばってもらえるようフォローしていかなくてはなりません。非常に範囲が広く、かつ一生終わりのない夢だと思います。常に自己改革を続ける必要があるため苦しみも多く、抱くだけで重い責任を負うことになる夢です。自分の出来る範囲を見定めていくことが、今後の課題だと思っています。

 なお、今思うと、夢を持った頃の私は無知でしたので(今も無知ですが)、この夢の意味をよく理解していませんでした(理解しようとしていなかったようにも思いますが…)。夢の意味をよく理解していなかったため、今何をしなくてはならないかがわからず、それがわかるまですごく時間がかかりました。恥ずかしながら、本当に夢の実現につながる生き方ができ始めたのは、大学院生時代、しかも博士課程後期の時代でした。
 また、夢の実現につながる生き方ができはじめたとはいうものの、その道筋は一直線ではありません。実は、このブログを始めた頃は、自分が何を目指していたかわからなくなって迷走していた時期です。あまりに内容のない記事やひどい記事は削除しましたが、過去の記事を見ると私の紆余曲折を見て取ることができますので、興味のある人は、ちょっとのぞいてみてくださいね。なお、自分の夢への道筋が明確に見え始めたのは、2007年6月~7月に高校の非常勤講師を務めたあたりからです。

 ここから以下、少し一般的な話をしましょう。
 夢が見つからない(ない)人は、普段、「自分がかかわったって何も変わらない」と思っていないでしょうか。夢は「こうしたい」「こうなりたい」という意欲や意思の束ですから、自分から他にかかわろうとする意欲や意思を失った状態では、夢は持てません。私が夢を持てたのは、とくに根拠もなく「教育を変えたい」という意欲・意思をもてたからだと思います(客観的に見ると、だいぶ滑稽ですが)。「自分がかかわったら何か変わるかもしれない」、「今の自分を変えたい」とまで思わなくても、「これだけは守りたい」「これはゆずれない」でもいいでしょう。少なくとも「自分がかかわったって何も変わらない」というあきらめからは脱しなければ、夢は持てません。
 なお、「自分がかかわったって何も変わらない」と思うことは、悪いことではありません。冷静に現実(自分のできることも含む)を見据えることができるようになった証拠でもあるからです。間違いなくあなたは成長しています。
 しかし、そのままでは前へ進めませんし、生きることに充実感を感じられません。人も物も社会も、かかわれば必ず微妙に変化します(たいていは目に見えない程度に)。次に目指したいところは、少しの変化に気づくことができるようになる(観察力・感受性・推察力など)、または変化するまでじっと我慢するようになる(忍耐・努力の習慣など)ことなどでしょうね。そして、「変えられる自分になる」にはどうしたらよいか考え(構想力・計画力など)、実際に実行していくこと(実行の意思・意欲・実行力など)が必要です。
 今何も夢が見つからない人は、「今」をしっかり生きていますか。今しなければならないことを避けていないでしょうか。「何も変わらない(と思う)」から「何もしない」という状態になっていないでしょうか。自分の力では何も見つからないのであれば、「今しなければならないこと」をひたすらやってみてはどうでしょうか。「今しなければならないこと」(勉強やら宿題やら運動やら)は、周りの人があなたのためによかれと思って勧めていることです。それに乗っかってみることも、一つの手です(もちろん、後で後悔しないためにも、自分でしっかり判断して欲しいですが)。何もしなければ、何も起こらないのは当たり前、成長しないのも当たり前です。

 こうして考えてくると、ある意味、「夢を持つこととは、人間として成長・発達することでもある」とも、言えるかもしれません。夢を持つこととは、今の自分をしっかり見据え、かつ今の自分ではない存在に変わろう、今の自分にないものを得よう、という意思を持つことだと思います。今のままでいいや、と思えないから、夢を持つのです。「迷える子羊」さんは、おそらく、自分を変えたいがどうすればいいかわからないのでコメントしたのだと思いますが、どうでしょうか。(変えろと強制されているのかもしれませんが、それはそれで、人間としてまた一つ成長する機会です)

 人間は前にしか進めません。今の自分を見据え、そして乗り越えようとしてみてください。「準備」がしっかりできている人はすぐ乗り越えられるかもしれません。私のように10年以上もかかる人もいるかもしれません。どちらにしても、自分だけでは難しいはずですので、支えてくれる他人に支えてもらって下さい。他人に支えてもらいながら、いずれ自分で判断できるようになってください。そして余裕があったら、自分も他人を支えてやってください。普通の人は、自分だけ良ければいい人を支えてやりたいとは思いませんので。
 自分を助けてくれる他者なんていない、と思う人は、そう思い込んでいるだけだと思います。自分で視野を狭くして、自分の人間関係を狭く見積もっていませんか。

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 (赤地)
2024-06-12 01:41:59
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