教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育学的思考②―近代教育批判

2024年04月19日 20時06分00秒 | 教育研究メモ
 現在において「教育学としての教育史」の研究において、重要な思考法・研究法の一つに近代教育(近代学校)批判がある。ここでいう「批判」とは、単なる「非難」や「否定」ではなく、物事の価値や誤り、不十分な点等を検討してよりよい知見を目指す議論のことを指す。

 近代批判は、近代を制度や思想等において徹底しようとする近代主義を批判してその問題を乗り越えようとする思考法である。それは20世紀前半には始まっているが、現代の学問・思想においても重要な思考法になっている。教育学においても、近代教育批判は、特にポストモダンの影響を受けた20世紀末以降、ますます重要な方法になった。近代教育は、現在の学校教育や教師の在り方などのよって立つ原理の一つであり、明治以降150年にわたって試行錯誤のうえ思想化・制度化されてきた。しかし、現在、「学校教育は行き詰まっている」などの言説や、「学校でなくても学べる」、「日本でなくても学べる」、「AIによって代替可能なので教師は不要なのではないか」などの言説によって、近代教育の問題が多方面から指摘され、新しい教育が模索されるようになって久しい。現代の教育学が取り組むべき重要な使命の一つとして、近代教育批判が上がってくる所以である。極論を言えば、教育史は過去の教育を研究すれば成立してしまう。しかし、教育学としての教育史は、近代教育批判に取り組むことが求められる。
 近代教育批判に限らず、近代批判は現在の学問研究一般に重要である。歴史研究を通した近代批判の特徴は、過去そのものを問うことを通して批判を進めるところにある。過去(歴史)の問い方には大きく2つある。第1に、過去と別の過去が本当に連続・進歩しているのか、その連続性を問う。第2に、過去同士が本当に断絶しているのかその断絶性を問う。いずれの問い方についても、その真偽を史料を通して確かめるのが歴史研究である。
 そのとき、近代をどのように捉えるかによって、とるべき研究法は変わってくる。近代は現在に対して過去であり伝統である。ここで、近代を「継承すべきもの」と捉えるか、「克服すべきもの」と捉えるかによって、歴史研究の姿勢が全く違ってくるだけでなく、現在または未来の捉え方までも変わってくる。近代を「継承すべきもの」と捉えるならば、現在・未来は「過去からの進歩・徹底、または過去の延長」と捉えることになる。近代を「克服すべきもの」と捉えるならば、現在は「克服すべき過去の課題を背負うもの」または「過去の課題は現在に至るまでに解決済の、過去から断絶されたもの」と捉えられ、特に未来は「過去から断絶されたもの」と捉えられやすい。どちらが正しい視点・姿勢かという問いに唯一の答えはないが、近代をどうとらえ、どう考えるかで現在・未来の見方・考え方は根本的に変わってくることは確かである。

 近代と現在の関係を考えるとき、「近代=現代」または「近代≒現代」と捉える視点がある。「近代」という日本語は、その後に「現代」という新たな時代がやってくるように私たちに認識させがちであるが、英語ではどちらも「modern」である(しかも「近世」は「early modern」だからさらにややこしい)。この視点をとると、先述の歴史的見方・考え方の一つであった、現在の目で歴史を見て、過去と現在のかかわりを考える見方・考え方をとりやすい。過去と現在の共通点や連続性を探究するには便利である。しかし、現在の見方・考え方だけで歴史を解釈しようとすると、解釈を間違うことがある。この問題は、しばしば「現在主義」と呼ばれる、近代批判・歴史研究一般に共通する大問題である。自分の親や年の離れたきょうだいですら、自分とは考え方が違うなと感じた経験は誰にでもあるだろう。それと同じように、過去の見方・考え方や習慣、文化は、現在のものと似ている印象を受ける場合もあるが、まったく同じものではない。過去に存在したそれらは、少なからず時間を経て変遷している。基本的には、過去と現在とは、少なからず異質なものだと心がけなければならない。近代批判や歴史研究を行うのは現在を生きる我々だから、現在の見方・考え方を考察にまったく持ち込まないことは不可能である。同時代に生きている我々が、異なる他者と対話するですら容易なことではない。過去に生きる他者と対話することも同様である。歴史研究には、自分や自分の所属するコミュニティのもつ現在主義を相対化しながら、異質な過去を捉え、他者として尊重しながら対話しようとする研究法が必要である。この研究法を身に付けるには、特殊な訓練が必要である。
 近代を問うことは、近代史はもちろん、近世史・中世史・古代史でも可能である。近世以前の歴史研究は、その時代を明確に研究することで近代との比較材料を確かにすることができる(もちろん近代批判のためではない近世以前の歴史研究もある)。とはいえ、近代史研究はそのまま近代批判につながる点で、ほかの時代の研究と異なる立場にある。近代史研究は、近代内部(同時代)で、ある過去と別の過去の間に生じた変遷を分析し、歴史の画期等を発見して、近代そのものを考察していく。その作業を通して、近代とは何か、どのような課題が見いだせるかについて考察することができる。近世史はそのまま近代とは異なる他者として研究する場合も、early modernの研究として捉える場合も、近代批判につながげることができる。
 歴史研究は近代を問うために、国家や地域、制度、思想、文化、習慣等を時系列や因果関係などとして関連付けながら、その近代性を考察・解釈していく。比較・関連づけるべき事実は、同時代の別の国や地域・人物等の事実であることもあれば、同じ国や地域・人物等のさらなる過去の事実であることもある。例えば、1900年代と1910年代の思想を関連付けることで、その連続性や近代性を問うことができる。また、単体の事実同士だけでなく、複数の過去や出来事・集団・人物の間に起こった移動や交流、影響、受容、借用、移転等のかかわりを対象にすることもできる。単に20世紀前半の日本とアメリカの教育制度を比較するだけでなく、アメリカのA氏の教育学説が日本の学者B氏の学説に受容され、B氏が政府の審議会でその学説に基づいて発言し、政策に取り入れられたことを明らかにすることで、A氏の影響を特定したり、B氏の学説の独自性を研究したりして、日本における教育の近代化の在り方を明らかにすることができるかもしれない。

 現在の教育学にとって重要な教育学的思考の一つに近代教育批判がある。教育学としての教育史も、近代教育批判に取り組むことが期待される。そのためには、研究者自身が近代をどのように捉えようとしているか自覚し、その視点に適した思考ができる研究法をとらなければならない。また、現在と過去の連続性を捉えるにしても、断絶性を捉えるにしても、現在主義に陥ることなく、過去という異質な他者を尊重しながら、対話していく必要がある。また、過去の同時代の出来事を単に比較したり、関連付けたりするだけでなく、それぞれの関わり方に着目にすることで過去をより精緻に分析することが可能になる。近代教育の特質を正確に考察するには、過去を精緻に分析する教育史研究が必要である。

主要参考文献
E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。
リンダ・S・レヴィスティック、キース・C・バートン(松澤剛・武内流加・吉田新一郎訳)『歴史をする―生徒をいかす教え方・学び方とその評価』新評論、2021年。
Johannes Westberg & Franziska Primus, "Rethinking the history of education: considerations for a new social history of education", Paedagogica Historica, Vol. 59, (2023), 1-18. https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00309230.2022.2161321



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教育学的思考①―どんな教育史の考え方か

2024年04月15日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 次に教育学的考え方、教育学的思考について考察したい。教育学的思考とは、端的に言えば教育学の研究法のことである。教育学の各分野において長年検討が積み重ねられ、年々専門分化と深化が進んでいる。教育学の代表的な分野には、例えば、教育哲学や教育史、教育社会学、教育心理学、教育方法学、教育行政学、比較国際教育学、社会教育学、教育経営学、幼児教育学などがある。ここでは、教育史の方法(教育史を通した思考の方法)に限定して、教育学的思考について詳しく考察する。

 教育学的思考の方法として、教育史の方法がある。教育史といっても多様なものがある。教育学的思考は、主に「教育学としての教育史」についての思考である。教育史には、これまでの研究史の中で、「哲学としての教育史」、「社会学としての教育史」、「人類学・民俗学としての教育史」、「歴史学としての教育史」などが現れてきた。研究者によって様々な姿勢があるが、「哲学としての教育史」は教育には触れても人間の考え方そのものを考えることに主眼があり、教育思想史と呼ばれる試みの中にはその傾向が強く出ているものがある。「社会学としての教育史」は社会のあり方を考えるものであって、教育の歴史社会学と呼ばれる試みの中にはその傾のあるものがある。「歴史学としての教育史」は人間の生き方や物事の変遷(歴史そのもの)を考えるものであって、日本で研究されてきた教育社会史にはその傾向が強い。そのほかに、「人類学・民俗学としての教育史」もある。これらに対して、「教育学としての教育史」とは、教育学の方法の一つとして教育自体を考えようとする。哲学や社会学、歴史学などの方法を取り入れることは大いにあり得るが、「教育学としての教育史」は教育学的視点・思考法を基礎としてあくまで教育のあり方を研究する。教育史を通して人間の生き方について考えていても、教育のあり方についてあいまいな考察しかできない場合は、「哲学・歴史学としての教育史」であっても「教育学としての教育史」としては不十分である。いずれかの教育史がすぐれている、と言いたいのではない。どの教育史にも長所短所がある。それぞれの教育史には、どこに視点をあてて、何を目的に研究するかについて違いがあるので、自分がどんな教育史の立場をとっているのか自覚して研究を進める必要がある。
 いずれの教育史の方法にも共通する基盤として、初等・中等教育を通して育てられる(そして高等教育を通して高度化される)歴史的見方・考え方がある。2018年告示の高等学校学習指導要領の地理歴史編解説によれば、歴史的見方とは、例えば、時系列や諸事象の推移、諸事象の比較、事象相互のつながり、過去と現在とのつながりを捉えようとする視点である。時系列を捉えるには、例えば、次期や年代、過去について、それはいつのことで、どういう経緯で起こったことか考える。諸事象の推移を捉えるには、それらの変化と継続について、何を変えようとして、どう変わったか変わらなかったかについて考える。諸事象を比較して捉えるには、それらの類似点や差異、共通点や相違点は何かについて考え、なぜその共通点や相違点が生じたかなどについて歴史を通して考え、それらの意味や特色を考える。事象相互のつながりを捉えるには、その背景や原因、影響、結果、転換点や画期に注目し、その出来事が起こった最も重要な要因は何かや、分岐点・転換点はいつか、どうしてそのような転換が起きたかについて考える。歴史の時系列や推移、類似点、相違点、影響、結果などについては、なぜそうなったか、どのような背景・理由・経緯でそうなったかについて考える。また、過去と現在とのつながりを捉えるには、現在の問題についての理解や歴史的な見通し、自分自身とのかかわりに注目して、過去と現在の似ているところや関連、その要因を考え、過去の事象が与えたのちの時代への影響や見通し、自分にとっての意味について考える。

 教育学的思考や教育史の方法は、高等教育において専門的に学ぶ。それはまったくゼロから学ぶというよりも、中等教育までに育ててきた歴史的見方・考え方を基盤にして学問を学び、そのことを通して各学問の視点・研究法を学んでいく。その過程は、歴史的見方・考え方を学問によって高度化させていく過程という側面もあろう。

参考文献:
文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 地理歴史編』東洋館出版社、2019年。
白石崇人「日本教育史研究における「教育学としての教育史」」広島文教大学高等教育研究センター編『広島文教大学高等教育研究』第9号、2023年3月、1~14頁。
白石崇人「現代日本における教育史教育の課題―歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育の模索」『広島文教大学紀要』第58号、2023年12月、11~25頁。

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教育学的視点②―どの教育のどの部分か

2024年04月13日 19時21分49秒 | 教育研究メモ
 教育学的視点は、どの教育のどの部分を捉えようとするかがまず必要である。教育の目的を捉えようとするのか、過程を捉えようとするのか、条件を捉えようとするのかで、まったく捉え方や対象が変わってくる。目的を意識して捉えてみると、例えば、一方の教育が人間性を教養しようとする教育であり、もう一方の教育は国家・経済発展のための人材育成の教育であることが明らかになってくる。条件を捉えるには、例えば制度・政策に注目するのか、制度の運用について行政の動きに注目するのか、学校の経営に注目するのか、教師の協働や研究研修に注目するのかによって、捉え方も見るべき対象も異なってくる。

 さらに詳しく考えておこう。教育は学校・社会・家庭の中て行われている。学校教育には、例えば幼児教育、初等教育、中等教育、高等教育がある。それぞれ異なる視点が必要である。幼児教育や初等教育の視点で高等教育を捉えようとしてもうまくいかない(思わぬ結果が発見されるかもしれないが)。幼児教育には、遊びや環境構成、社会的保育を捉える視点が必要である。お受験や早期教育の視点が必要なこともあるかもしれない。初等教育や中等教育を捉えるには、義務教育や普通教育の視点、市民教育や国民教育の視点、全人教育や人間教育の視点、進路指導や大学受験の視点などが必要である。高等教育を捉えるには、専門教育の視点だけでは不十分で、教養教育の視点も必要である。
 学校教育を詳しく見るには、教科指導や教科内容、教科外指導を分けて視点をもつことも有効である。教科指導・内容を捉えるには、読書算(3R's)だけでなく、言語認識や社会認識、自然認識、芸術、技術、倫理、道徳、運動、体育、衣食住や家庭生活などの視点や、それらを総合する視点を持たなくてはならない。また、それらの知識や技能を伝達するだけでなく、応用・演習したり、探究したりする方法や過程を捉える視点も必要である。教科外指導については、道徳教育や生活指導、学級経営、キャリア・進路指導、養護、給食、掃除、制服、校訓、校則、部活動、児童会・生徒会など、多様な活動を捉える視点が必要になる。
 社会教育には、図書館や博物館、公民館、スポーツ施設等の社会教育施設を捉える視点が必要だが、NPOや企業、マスメディアの動向を捉える視点も必要である。家庭教育には、子育てやしつけ、家庭的保育、早期教育などを捉える視点が必要である。
 なお、教育は生活・人間形成の一側面であると先述した。教育は、学習や福祉、政治、経済などの人間の生活の別側面との関係の中で、相互に影響し合っている。例えば、教育を学習との関係から捉える視点は、教育学的視点にも必要である。学習には様々なものがあるが、例えば、乳幼児期の発達や児童期・青年期・成人期・老年期それぞれの発達、または生涯発達を捉える視点によって異なった様相を見せる。生涯学習の視点は、教育を捉える際にきわめて重要な視点である。幼児期の学習に応じた教育と老年期の学習に応じた教育を捉えるには、やはり区別された視点が必要である。

 以上のように、教育学的視点をどの教育のどの部分を捉える視点かで整理すると、極めて多様な個別の教育学的視点が見えてくる。すべての視点を身に付けるのは至難の業であり、いくつかの視点を身に付けるだけでも容易なことではない。哲学や社会学などのほかの学問も教育を捉える視点があるが、ほかにも身につけるべき重要な視点があるので、それらの学問を学ぶだけでは教育学ほど細かく教育を捉えることは難しい。教育学的視点を身に付けるには専門的で体系的な計画的な教育・学習が必要な所以であり、ここに教育学教育の専門性がある。

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教育学的視点①―教育の内と外

2024年04月11日 19時51分00秒 | 教育研究メモ
 教育学教育は、学生の教育学的視点と教育学的思考を育成する。ここではまず教育学的視点とは何かについて考えていきたい。
 教育は、教育学的視点だけでなく、哲学的視点、歴史学的視点、社会学的視点、心理学的視点など、様々な視点から捉えることができる。教育学的視点は、教育学の立場から物事をとらえる視点であり、教育を捉える視点の一つである。人は教育学的視点によって、教育の事実を捉え、教育とは何か、どうあるべきかを考えていくことができる。
 ここでは、根本的な教育学的視点について、まず教育の「内」と「外」とを正確に捉える視点について述べる。教育を正確に捉えるには、教育と「教育でないもの」を区別して認識し、教育と「教育でないもの」との相互関係を捉えようとする必要がある。

 教育とは、生きること(life・生命・生活)の一部であり、人間形成の一側面である。人間は、生きるために知識・技能等を身に付け、そのことを通して人間性を高め、生きることの質を高めていく。教育は、人間が生きるために行い、人間を人間らしく形成していく行為の一つである。それは、教育者と被教育者の間でコミュニケーションの一種として行われる。
 また、教育は、一定の感情や記憶を喚起し、そのあり方をめぐって関係者の間で利害が生じ、その利害をめぐって緊張を生じさせる社会的な領域の一つである。我々は、学校で教育を受け、楽しさや苦しさ、葛藤などの様々な感情を感じ、そのことを記憶している。教育は、ただ知識や技能を身に付けるだけでなく、人生に豊かさまたは貧しさを与える感情や記憶を生み出す。
 さらに、人によって望む教育のあり方は異なり、ある一定の教育が行われれば、その教育とは異なる教育を望む人々に不満を生じさせる可能性がある。例えば、子ども一人ひとりの興味関心に応じた教育を行うと、ペーパーテスト重視の進学校への受験準備を求める子どもや保護者は不満に思うことになる。人々は、公教育のあり方に様々な思想や感情をもって関心を向け、そこでの教育課程や方法・内容について支持または反対する。近代社会・学歴社会における教育は、人々の将来の地位や収入・階層を決める重要な要因となるため、そのあり方によって利を得る人々と得られない(得にくい)人々を生じさせる。そのため、教育の利害調整をめぐる政治や世論は、被教育者としての人々の思想や合理的判断だけでなく、その感情や記憶の絡む複雑な現象となる。このように、教育は、教育者ー被教育者の二者関係で語りつくせるものではない。その複雑な現象・過程を有する社会的な領域の一つであるという側面も捉えなければならない。
 行為・社会的領域としての教育は、ほかの行為・領域の一部と隣接し、相互に影響し合っている。例えば、教育と同じく、人間の生に深い関わりをもつ学習や福祉、政治、経済などの行為・領域との間には深い影響関係がある。例えば、学習のあり方が変われば教育のあり方も変わり、教育のあり方が変われば学習のあり方も変わる。政治・経済のあり方が変わったときも同様である。
 教育のあり方を捉える参照軸は多様に考えられるが、学習や福祉、政治、経済などとの接点に生じる重要な軸として、「人間(性)育成」と「人材育成」の軸がある。子どもが人間らしく幸福に生きるための教育と、政治や経済に役立つ人材として育てる教育の間には、重なる部分と重ならない部分がある。いずれの教育も人間の生き方や人間形成という側面では同じだが、例えば人間性育成重視の教育では、際立って経済の役に立たなくても一人の人間として最低限身に付けてほしい当たり前のことを育てようとする。人材育成重視の教育では、当たり前のことができるだけでは不十分で、経済活動において高いパフォーマンスを発揮できるような能力を育てようとする。同じ教育であっても、人間性育成と人材育成では意味が違うし、まったく異なる教育実践が行われることになる。

 このように、教育を捉える視点は、学校教育や、教師と生徒との間の二者関係を捉えるだけでは十分ではない。教育を十分正確に捉えるために、以上のような教育学的視点をもつ必要がある。
 教育学的視点は、生きることや人間形成の一側面として、2つの参照軸(内側の視点)とほかの行為・領域との関係(外側の視点)によって教育を捉えていく。自分が教育を捉えようとするとき、コミュニケーションとして捉えようとしているのか、社会的領域として捉えようとしているのか、どちらも総合的に捉えようとしているのか、などについて考え、自分の重点を自覚することで考察がしやすくなる。また、ある教育の質を考察する際には、人間性育成と人材育成の視点に基づいて、その重点がどこにあるか見極めてみよう。他の立場からの視点は、このような捉え方や参照軸をする必要はないかもしれない。しかし、教育学はこれらのことにこだわる学問である。

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地方中小私立大における教育学の卒論指導

2024年03月30日 12時38分05秒 | 教育研究メモ
 

 3月20日は学位記授与式でした。久しぶりに制限なしの式典が行われました。写真は、ゼミ生からいただいた贈り物です。すてきなものをいただきました。
 今年度は14名の教育学ゼミ生を卒業させました(うち1名は前期中の卒業)。今後は、教員になる人、会社員になる人、大学院で研究を続ける人と、多彩です。いつもながら、卒業論文のテーマも多彩でした。今年度卒業の皆さんの卒論テーマを列記すると、以下の通りです。
「多文化共生に向けた異文化間教育〜外国にルーツを持つ児童との共学」
「外国にルーツを持つ児童生徒への日本語指導・支援 」
「特定分野に特異な才能のある児童への教育や支援」
「「非標準家庭」の子どもにおけるペアレントクラシーの克服」
「自分を肯定できる児童を育てる道徳科授業」
「LGBTQ+の児童生徒への支援」
「インクルーシブ教育システムを目指す学級経営」
「中学校の通常学級におけるLD児への支援」
「小学校教科担任制の導入による効果と課題」
「主体的・対話的で深い学びを実現する「構造的な板書」」
「小学校におけるICT活用の現状と課題」
「地域移行時代における運動部活動の意義と課題」
「学びの共同体における校長の役割」
「スクールカウンセラーとの協働場面において見いだす教師の専門性」

 上記の通り、今年度のゼミ生たちは、児童生徒の多様性(外国ルーツ、ギフテッド、「非標準家庭」の子ども、自己肯定感の低い子ども、LGBTQ+、発達障害)に応じた教育・支援の在り方や、単独の教科指導にとどまらない教師・管理職の仕事の多様性(多文化共生・異文化間教育、メリトクラシー・ペアレントクラシー社会の学校、インクルーシブな学級経営、小学校教科担任制、板書、ICT活用、部活動、学びの共同体、他職種との協働)をとらえようとするテーマで卒論執筆に取り組んでくれました。これらは必ずしも私が誘導したわけではなく、私は学生たちの興味関心を学術的・実践的・政策的な用語に置き換える手伝いをした結果です。10年間、広島文教大で卒論指導をしてきましたが、教科教育学や心理学ではなく、教育学ゼミに入ってきた学生たちの選ぶテーマには似たような傾向があったように思います。
 どこまで一般化できるかはわかりませんが、地方中小私立大(教育系学部学科)における教育学の役割は、このようなテーマで卒論を書けるようにしてやるところにあるのかもしれません。すなわち、教師志望者や教育関係に関心のある学生たちが、幼児児童生徒の多様性を深く理解して、適切な手立てを計画することができるように手助けすることです。また、単独の教科指導や子どもとの二者関係にとどまらない学校教育の実践をとらえ、それらの仕組みや理論を分析して課題を見出していくようにしていきます。学生は自分の興味関心にしたがって単独のテーマに取り組んでいきますが、ゼミ生同士の研究交流を積極的に行うことで、お互いのテーマや研究に触れて視野を広げ、考察を深めていきます。こうして、教育学は、子どもの多様性や学校教育を広く・深く理解し、子どもや教職・職場を深く考察して、課題を見出し、その解決策を資料に基づいて案出する知識・技能を身に付けることに資することができます。
 このような教育学の役割を果たすためには、ゼミ指導にあたる大学教員、とくに教職課程担当教員自身の教育学的教養が重要です。教育学ゼミを担当する教員は、おおよそ研究大学で教育学の下位領域を専門的に修めた研究系教員か、自身の現職経験によって教師の仕事を実際的に教えていく実務家教員であろうと思います。私は前者でしたが、特定の領域の専門家であると同時に、複数の領域にも理解をもった「教育学者」としての仕事が求められてきました。大学教育に関わるようになって16年、長い時間をかけて「教育学者」として自らを鍛えてきました。その際、もちろん自分の修めた専門領域はとても役立ちました。私の場合は日本教育史を専門領域としましたが、その歴史的視点・考え方は学生たちの興味関心に応じる糸口になりました。
 大学院で専門的に修めてきた限られた専門領域はとても大事です。しかし、それのみでは教育学の卒論指導を行う教職課程担当教員という役割は十分に果たせません。教職課程担当教員を育てるには、この広い幅のある教育学的教養をどうとらえ、専門領域をもつ大学院生を対象に、広い教育学的教養を論文指導が可能な域までいかに育てるかというところにあると思います。広い教育学的教養を養うには、教育学の複数の領域の専門家が協働する必要があります。そういう教育をするためには、複数の領域の教育学者を集め、教職課程担当教員を育てる目的のもとに編成された一つの教育課程をもつ組織が必要です。こういった組織・課程をもてる大学はそうそうないので、もしその可能性のある大学があるとしたらそれはとても貴重です。
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現代日本における教育史教育の課題―歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育の模索

2024年03月08日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 昨年末に出た本学紀要で拙稿を活字化しましたが、ウェブで公開されてからと思いながら待っておりましたが、年度が終わりそうなので先に紹介します。このペースだと、ウェブ公開は例年の通りで、おそらく5月か6月くらいかなあ? いまは図書館で複写依頼をしてくだされば読めます

白石崇人「現代日本における教育史教育の課題―歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育の模索」『広島文教大学』第58号、2023年、11~25頁。

 はじめに
1.「教育学としての教育史」の教育という歴史的課題
(1)教員養成における教育学教育の一環としての教育史教育
(2)教員養成大学・学部の設立による教育学教育・教育史教育の問題化
(3)教員養成の構造変容のなかでの教育史教育の模索
2.歴史教育としての教育史教育の課題
(1)通史教育・問題史教育と問題史的通史教育
(2)どのような歴史的思考を何のために育成するか
(3)近代化・大衆化・グローバル化の歴史をめぐる解釈の複数性と対話
3.高大接続・教員養成・教育学教育としての教育史教育の課題
(1)能動的学修と「歴史的な見方・考え方」を働かせる問いの表現
(2)将来の職業・市民生活につながる教育史教育の内容
(3)「教育学としての教育史」の教育における教育問題の研究
 おわりに

 本稿は、歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育を模索するために、現代日本における教育史教育の課題について明らかにすることを目的としました。
 ちなみに、「教育学としての教育史」とは、教育史研究・教育が同時に教育学研究・教育となることを積極的に目指す立場を指しています。教育史には多様な立場(歴史学としての教育史とか、歴史社会学としての教育史とか)があり、その中の一つの立場を指すために最近使ってきた概念です。
 学問の社会的機能には「研究」と「教育」の2つがあります。そのうちの「教育史研究」の課題については日本教育史に限って前稿(拙稿「日本教育史研究における「教育学としての教育史」」広島文教大学高等教育研究センター編『広島文教大学高等教育研究』第9号、2023年3月、1~14頁)でまとめたので、今回は「教育史教育」の課題を明らかにすることにしました。前稿と今回の稿は、もともと学問領域としての教育史の社会的機能(有用性)を明らかにするために1つの研究として合わせて書き始めたのですが、1つの論文に収まらなかったので、2つの論文にしました。いずれも、「歴史学としての教育史」という先行研究の立場(主には辻本雅史氏や沖田行司氏、橋本伸也氏、岩下誠氏らの仕事を想定しています)に対して「教育学としての教育史」を再構築し、ポストモダン以降の「現在の教育学の揺らぎ」に向き合う足場を固めよう、という意識の下に研究を進めてきました。

 本稿では、教育史教育の課題を明らかにするために、明治から現在までの教育史教育独自の歴史と、歴史教育としての教育史教育、高大接続・教員養成・教育学教育を同時に実現させる大学における教育史教育の5つの視点から研究を進めてきました。明らかにできたことは次の4つに整理できます。
 第1に、戦後の教員養成大学・学部の成立が旧制の教育史教育では見られなかった問題(個別問題や学生に応じた大学教育、教育史教育の現場の多様化など)を顕在化させたことを明らかにしました。第2に、1970年代の「問題史的通史」教育が、教育史教育独自の課題意識(通史の位置づけなど)と関わっていた可能性があることを明らかにしました。第3に、1980年代以降の歴史教育論を踏まえると、教育史教育において教育史や歴史学のディシプリンを教えることが必ずしも正当化されないことを明らかにしました(学習者自身が現代社会の諸課題に対して何ができるか、何をするかなどが問題)。第4に、教育史教育において学生の具体的ニーズや教育経験に応じて能動的学修を引き出し、授業者と学生がともに教育問題を研究することが重要であることを明らかにしました。
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歴史研究としての教育史研究

2024年03月01日 19時56分00秒 | 教育研究メモ
 「教育学としての教育史」という立場は、教育史研究に歴史学と縁を切ろうと言っているのではない。まったくその逆であり、歴史学と連絡しつつ教育学として研究を進めようと考えている。教育史研究は歴史研究の一種であり、それゆえに教育学研究の欠かせない一つの方法となりうる。教育学研究と教育史研究と歴史研究は接続してこそ十分な研究が可能になる。

 歴史研究とは何か。過去の真理を明らかにすることか、過去の資料・事実を解釈することか。または、過去に対する共感/非難する実践か、それとも歴史像や概念の再構築を進める実践か。
 歴史研究の意味するところは研究者の立場や目的によって異なるので、歴史研究とはという問いに唯一の答えがあるわけではないが、研究に取り組むにあたって自分の研究が何を目指しているのかは自覚する必要がある。例えば、過去に対する共感を求めての研究であれば、共感できない事実や不都合な事実は見えなくなりがちである。自分の研究の立場を自覚しなければ、研究の課題や可能性・限界は見えてこない。
 歴史研究は何を問題にすべきか。言説や行為の倫理性か、事実の再現性の程度か。問題設定も研究者によって異なるので、この問いにも唯一の答えがあるわけではない。社会史・文化史の研究では、物事や関係者の関係性や集合性、親和性、そのネットワークの在り方、研究対象のおかれた状況や場の文脈を問題にしようとしている。歴史は、多様な文脈を総合的に把握しながら考察しなければならない。各時代独特の感情の在り方や、町・街(ストリート)レベルで起きたこれまでの経緯などを踏まえることも求められる。
 歴史研究において、現在の視点のみで過去を解釈しようとする「現在主義」に陥らないことは重要である。しかし、現在とまったく無関係に過去を研究することは不可能である。研究者は、現在に生きて物事を考えているので、時間を超越した考察はできないし、どんなに努力しても無意識・無自覚に一定の現在的な価値観をもって過去を見てしまう。そうであれば、現在を振り払おうとしてかえって困難に陥るよりも、現在を適切に踏まえて過去に向き合うことが、研究者としてふさわしい態度であろう。
 教育学は様々な方法で教育を研究し、現在の教育を見直し、未来の教育をよりよくすることを目指す傾向が強い。教育学として教育史を研究する場合、単に過去の教育を研究するだけでは教育史研究の有用性は疑われてしまう。教育学としての教育史研究は、「現在主義」の批判を前提として、現在を見る研究者自身の視点・考え方・問題意識等を自覚して、過去の同時代の視点・考え方・問題意識等を尊重しながら過去に向き合う姿勢を身につけなければならない。
 我々が教育について議論する場合、自覚的または無自覚的に教育史に触れざるを得ない。教育史とは、過去の教育から現在の教育に至るまでの過程であり、「教育」という概念によって捉えられる文化的な現象の流れである。教育史研究は、過去を検証することによって、現在までの歴史的経緯や現在に影響する基本的な構造を探究する役割を果たす。教育学は教育史研究によって教育を歴史的・構造的に検証・探究することができる。教育史研究は歴史研究として必要なだけでなく、教育学研究としても必要である。
 また、我々は、しばしば過去の教育の取り組みを顕彰・追憶しようとする。しかし、いま、我々の生きる時代は、近世以前の教育や近代の国民教育の取り組みを丸ごと肯定できるような単純な時代ではない。ジェンダーや身分、階層、障害、民族などの多様な立場に配慮しようとするとき、教育史(特に近代学校教育史)の理解・利用は批判的に検証される必要がある。
 我々が、教育の過去を検証して適切に賞賛/反省し、現在に至る歴史的経緯と課題を発見して、未来の教育をよりよくしていくために、教育史研究は必要である。過去の教育を味わい、過去から現在までの教育を反省し、未来の教育を創っていくのは、市民一人一人である。研究者にとってだけでなく、よき市民として生きるためにも、教育史研究は必要である。

参考文献:Johannes Westberg & Franziska Primus, "Rethinking the history of education: considerations for a new social history of education", Paedagogica Historica, Vol. 59, (2023), 1-18. https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00309230.2022.2161321


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日本教育史の専門用語の英訳と「教育学」という日本語

2024年02月27日 19時06分00秒 | 教育研究メモ
 先日英語論文の拙稿が公表されましたが、英語論文を書いていた時の苦労話を一つ。
 当前といえば当前なのですが、日本教育史の専門用語の英訳には大変苦労しました。まず過去の文部省や諸機関のつくった史料の英文などから引っ張ってきて訳してみましたが、先方の編集の先生から、「ここでその語は使うべきじゃない、その意味では理解できない」というコメントをいただくことがありました。そうなると、現代において意味の通じる英訳を目指すのですが、歴史的な意味まで正確に捉えて訳すのはとても難しい。歴史的な用語、しかも日本教育史の用語を英訳する際に参考にできる資料が少ないなか、国立教育研究所のつくった『日本近代教育史に関する専門用語の英訳語標準化についての調査研究』(1992)という報告書はとても役立つのですが、それでも英語で教育史研究をしている研究者から指摘を受ける場合がありました。英文校正の際も、担当者が変われば違った訳になってしまうこともあって、本当に苦労しました(私の文章が悪いせいもあるでしょうね)。
 どの語を使うかは常に問題で、最後まで迷いました。まず、研究対象であった東京帝国大学の文科大学の訳に困りました。のちに文学部になるので、まず文学部の英語表記を考えたのですが、今の文学部の英称はFaculty of Lettersですけれども、史料にはFaculty of Literatureと書かれているんですよね。(拙稿では後者で書いていますのでご注意ください) 中等教員養成史研究では必須の用語となってきた「教員検定」の語も、英訳に苦労しました。日本語では「検定」一つで済むことが多いですが、無試験検定やら検定試験やらがありますので、言葉を選ばないといけない場面が多々ありました(それこそ「検定ってなんだ?」という悩みと葛藤の連続でした)。
 今回の執筆中、何より一番困ったのが、「教育学研究」の英訳です。吉田熊次のいう「教育学」は、今回取り上げた部分では、多くの文脈で教授学的な意味合いをもっていたので、大事な場面でPedagogyをよく使いました。しかし、文脈によっては社会的教育学や教育哲学、教育科学的な意味で使っていることもあって、語の選択にとても困りました。そういうときは educational studies and research 等を使ったのですが、吉田は一貫して「教育学」を使っているわけです。しかも、ただの「教育の研究」としての意味ではなく、「教育学の研究」として特別な意味を込めて議論していて、「ここの訳って本当にeducational studiesでいいのか?」と常に困っていました。副題に pedagogical research なんて語を使っていますが、これも悩んだ末の結果です。(既存の体系的知識の講義ではなく)学生自身が教授法を科学的に研究することを通して中等教員養成を進めるという吉田の主張を織り込むと、studiesというよりはresearchかな、という判断になったわけです。
 語の選択はもっと議論すべきだろうと思います。今進んでいる研究のグローバル化の状況を考えると、日本教育史の研究ももっと外国語でも発信していかなければなりません。AI翻訳がこれからもっともっと進化していくはずですが、専門用語は専門の学者がちゃんと訳さないと、そもそもAIも学習できません。拙稿がたたき台として多少なりとも役立てば幸いですが…。

 苦労ばかりでなく、教育学者として貴重な気づきも得ました。最大の気づきは、「教育学」という日本語の特徴についてです。
 上でも書きましたが、今回つくづく実感したのは、日本語の「教育学」が単一の語として英訳しにくいということでした。「教育学」という日本語がもつ意味内容を重視すると、簡単に英訳できないのです。イギリスの教育学史を読んでなるほどと思ったのですが、イギリスの教育学は伝統的に哲学・歴史学・心理学・社会学による教育の共同研究の傾向が強いようです。日本の教育学にもそういうところはありますが、かといって、複数の学問領域の寄せ集めだとは割り切れない部分も確実に存在します。「教育学」という日本語は、英訳する上でとてもやっかいな語であるゆえに、とても興味深い言葉なのです。これは、一つの学問としての教育学のアイデンティティにも関わる問題だと思います。そういうことに気づけたのは、私が20世紀初頭日本の教育学史を丁寧に研究してきたからだと思います。そうでなければ、些末な問題と割り切って、悩むこともなかったでしょう。
 日本教育学史の研究って、先人たちが「教育学」という日本語にこめた想いを読み解いていく研究なのかもしれませんね。教育学史って、そういう大事な分野だと思いました。



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20世紀初頭日本の中等教員養成における教育学の役割

2024年02月22日 19時19分06秒 | 教育研究メモ
 年始にほのめかしておりました英語論文が公開されましたので、お知らせします。

 2024年2月20日、「The Role of Pedagogy in Secondary Teacher Training in Early Twentieth-Century Japan: Theory of Pedagogical Research in College by Kumaji Yoshida of Tokyo Imperial University」と題しまして、イギリスのthe History of Education Society(教育史学会)の研究誌「History of Education」(Taylor & Francis=Routledge社)に掲載されました。まだ紙の論文としては公刊されていなくて(そのため掲載巻号は不明)、ウェブ論文のみの公開です。他の論文を見ていると、紙冊子での公刊はまもなくすぐの場合もあるし、年単位でウェブのみという場合もある様子。よく特集を組んでいるので、編集の都合なのかな。
 オープンアクセス論文にはできませんでしたので、読んでいただくには、大きな大学などの図書館にいくしかないかな、と思います。ごめんなさい。オープンアクセス権の金額を見たとき、目玉が飛び出るかと思いましたので勘弁していただければ幸甚です。

 おおもとは2022年8月の日本教育学会のラウンドテーブルで発表した内容。これを英語論文用に大幅に改訂して、投稿したのが2022年11月。2023年3月に査読結果が送られてきて「resubmit」を要求されたので、5月に再提出。その後、さらに改訂指示が2回あった後、8月1日に「accept」が出ました。そして、長い沈黙のあと、2024年1月に出版契約、2月に校正を経て、先日ウェブ公開になりました。いったんまとめてから約1年半。体感時間はとても長かったのですが、下手をすると2~3年かかるとも言われていたので、結果的には短かったかもしれませんね。
 提出から公開まで、すべてオンラインで進められました。本当に手続きは合っているのかな…と常に不安でしたが、結果的にとても便利でした。

 論文構成は以下の通りです。

The Role of Pedagogy in Secondary Teacher Training in Early Twentieth-Century Japan: Theory of Pedagogical Research in College by Kumaji Yoshida of Tokyo Imperial University
(20世紀初頭日本の中等教員養成における教育学の役割―東京帝国大学の吉田熊次による「大学における教育学研究」論に注目して)
Introduction
(はじめに)
Reform of Secondary Teacher Training in Early Twentieth-Century Japan
(20世紀初頭日本の中等教員養成改革)
The Secondary Teacher Training Curriculum at Tokyo Imperial University in the Early Twentieth Century
(20世紀初頭における東京帝国大学の中等教員養成課程)
Challenges in Secondary Teacher Training in Colleges
(大学における中等教員養成の課題)
Secondary Teacher Training and Pedagogical Research in College
(中等教員養成と大学における教育学研究)
Challenges in Secondary Education and Methods of Secondary Teacher Training after the First World War
(第一次世界大戦後の中等教育の課題と中等教員養成の方法)
Conclusion
(おわりに)

 https://doi.org/10.1080/0046760X.2024.2306985

 20世紀初頭の日本において、東京帝国大学文科大学・文学部の中等教員養成課程では、教育学関連科目が必修とされました。当時の東京帝国大学(文科大学)における教育学の制度化を主導していた吉田熊次は、教育学の科学的研究は、大学教育の目的だけでなく、時宜にかなった中等教員養成のためにも不可欠であると考えていました(この事実がそもそも新知見かと思います)。本稿では、吉田の理論を通して、20世紀初頭の日本が東京帝国大学において、中等教員養成と教育学をどのように結びつけようとしたかを明らかにしました。特に、1905年の文科大学の中等教員無試験検定の条件改正の運用、そして1920年の文学部教育学科設置時の条件改正の意義について考察する際の留意点を解明できたと思います。単位数だけでいうとわずかな数ですが、そこに込められた意味は、アカデミズムの教員養成観とは異質の意味で解釈しなければならないことがわかりました。
 ほかにもいろいろな新知見がちりばめられています。英文の上に手に入れにくいので、ちゃんと読んでいただくのはお手数をおかけしますが、読んでいただければ幸甚です。


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教育学部の初年次教育としての公教育論の研究

2023年12月25日 23時38分00秒 | 教育研究メモ
 広島文教大学教育学部では、教育学科1年生全員に「教育学入門」という探究科目を必修とし、1年間を通して先行研究の整理を中心とした共同研究をさせています。本学科の卒業論文までつらなるカリキュラムのスタート地点となる科目です。本学科の教育上のねらいである様々な教育を「つなぐ」教師、「強味」のある教師を育て、私自身がこれまでねらってきた「研究する教師」を育てるための初年次教育の場としてきました。教育学部創立から実施を始めたので、今年で5年目の実施になります(私が主担当の科目です)。この科目では、学科教員全員からテーマとそのための参考文献リストを提供してもらい、私も複数テーマを出しています。そのなかから、学生は自分の興味のあるテーマを選んで、同じテーマを選んだ2~4人程度で集まって共同研究を進めていきます。
 この科目で私が出しているテーマの一つが、「公教育または公立学校とは何のためのものか」です。各テーマには難易度を設定して学生に知らせていますが、このテーマは一番難しい難易度にしています。本当に難しいのでそうしているのですが、毎回意欲のある学生が取り組んでくれます。今年度後期にこのテーマを選んでくれた学生は特に熱心でした。しかも、科目が終わったあとも自分でこのテーマでもう少し研究したい、と言い出した学生が現れたのは初めてでした。参考文献例として指定している先行研究は下記の4つなのですが、その学生から、4冊の選択意図とさらにおススメの本を教えてくれと言われたため、返信しました。その返信のためにそこそこ時間を使ったので、せっかくですから、その原稿を土台に少し記事にしようと思います。
 もし私の認識が違っていたり、他にもっといい参考文献があるようでしたら、ぜひコメントしてください。私だけでなくこのブログ読者の方々の参考にもなります。

 「公教育または公立学校とは何のためののものか」というテーマについて、私がいま1年生に指定している参考文献は以下の4つです。

 ・藤田英典『義務教育を問いなおす』ちくま新書、2005年。
 ・志水宏吉『学力格差を克服する』ちくま新書、筑摩書房、2020年。
 ・中澤渉『日本の公教育―学力・コスト・民主主義』中公新書、2018年。
 ・苫野一徳『教育の力』講談社現代新書、2014年。

 この4つの主要参考文献は、いわば「共生社会をつくる公教育論」とでもいうべき議論のうち、一般向けに開かれているものの代表的な作品だと思います。

 臨時教育審議会に典型的な構想が見られたように、1980年代以降、新自由主義的な教育改革が形を見せ始めました。英米でも似たような動向が日本より早く見られていたところでした。公教育論はずっと昔からありましたが、1990年代以降の議論を通して一定の方向性を見せ始めます。改革的な教育政策は、一般の教育サービス論などと共鳴して、いわば官民挙げて徹底されていきました。その代わり、これまでにない様々な問題が発生したり、懸念されたりするようになりました。特に、このままいくと1990年代頃から深刻化し始めていた格差社会に拍車をかけるのではないか、という指摘が強くなっていきました。
 教育社会学者の藤田英典さんはこの議論に早くから参加していた人で、2005年の『義務教育を問い直す』はその総まとめともいえる本です。21世紀の初期段階の論点を把握するのにふさわしいと思っているので、まずこの本を選びました。なお、もう少し前あたりから議論をおさえていきたいならば、初期の代表的な論者であった苅谷剛彦さんの本がおすすめですね。(『大衆教育社会のゆくえ』は必読です)

 その後、現在までの議論の中心に位置づくのが、志水宏吉さんだと思います。志水さんも教育社会学者です。志水さんは、特に、共生社会(これは勤務校の大阪大学などの影響もあると思います)をつくっていくために公教育を支えていこうという意図を明瞭に研究されていて、学者だけでなく教育関係者にもその内容をわかりやすく伝えようとされています。格差社会に拍車をかけるのではなく、能力主義社会(メリトクラシー)の良いところを生かしていくために何を問題として、何をすべきかについて積極的に発言されています。『教育格差を克服する』は、志水さんの理論の意図がよくわかる本なので、選びました。そのほかには、志水さんが編集に加わっている岩波講座「教育 変革への展望」の第1巻(教育の再定義)と第2巻(社会のなかの教育)がおすすめです。

 中澤渉さんは、志水さんの次の世代の教育社会学者です。外国の社会学理論を幅広く整理し、藤田・志水両氏が具体的に議論してこなかった「公教育費」という観点から議論していたので、選びました。また、現代日本の事実に即して「公教育」を主題にした一般向けの学術的な本はあまり見ないので、必読書だと思っています。そのほかに現代の公教育論(またはそれに関連するテーマ)を研究するには、耳塚寛明さん、中村高康さん、松岡亮二さんあたりが読みやすい本を出していらっしゃいます。

 最後に、教育哲学者の苫野一徳さんの『教育の力』を挙げました。苫野さんは、私と同世代なのですが、2010年前後に多方面で活躍を始めた人で、上記の人たちと比べるとかなりライト(?)な立ち位置にいる人だと私は捉えています。教育の個別化・協同化・プロジェクト化として、今の教育改革と共鳴する理論を立てています。共生社会をつくる公教育論にも通じる議論をとても読みやすいタッチで展開しているので、教育社会学の議論と異なる立場の意見に触れてほしくてこの本を選びました。苫野さんはたくさん一般向けの本を書かれていますが、『教育の力』を読めばおおよそ彼の教育改革論は理解できます。そのほかには、『「学校」をつくり直す』がおすすめですね。
 教育哲学の議論は学部1年生にはちょっと難しいことが多いので、なかなかおすすめしにくいですが、今の日本教育学会長の小玉重夫さんは現代的問題に関して新書を出されていますね。

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なぜ戦後の長野県で教育会が存続したか

2023年11月28日 19時30分41秒 | 教育研究メモ
 このたび、信濃教育会の機関誌『信濃教育』第1644号(特集:我が教育会の取組 No.4)に拙稿を掲載していただきました。信濃教育会は、1886年創設の伝統ある現役の教育会です。その存在は、広島県内でも知っている人は知っている(管理職経験者など)というぐらい、実は全国でも知られています。科研費の研究グループの分担で、信濃教育会の研究を進めており、その関係で書かせていただきました。
 内容構成は以下の通りです。図書館で複写依頼すれば手に入りますので、興味のある方は依頼していただき、ぜひ読んでいただければ幸甚です。

白石崇人「なぜ戦後の長野県で教育会が存続したか―1948年信濃教育会運営研究委員「教育会の在り方」を読み直す」(『信濃教育』第1644号、信濃教育会、2023年11月、1~17頁)
 はじめに
1.1940年代後半の教育会をめぐる歴史的状況
2.本会運営研究委員「教育会の在り方」の特徴

(1)学校に限らない、教育・文化関係者に広く開かれた教育振興の組織
(2)個性・文化発展のための自由意志と友愛・協力による自治組織
(3)児童福祉のための自由な研究調査と教養深化・拡大
 おわりに

 日本の教育会は、明治期に各地で様々な規模と問題意識をもって誕生した、最も伝統ある教育職能団体です。戦後に教育の民主化を進める中で、多くの教育会は1946~48年にかけて解散しましたが、存続した教育会もありました。その代表の一つが信濃教育会です。これまでの教育会史研究では、1940年代後半を教育会の「終焉」の時代ととらえてきましたが、存続した教育会も結構あるし、「教育会」の名がなくなっても団体の在り方に連続性を見て取れることが明らかになってきたので、今では「終焉」という見方はされなくなってきています。では何なのだろう。この数年間で展開されてきた教育会史の多くの研究は、この問題を考え続けているように思います。
 教育会を中心に1940年代後半を考えるとき、重要なのは、「戦後もなお、なぜ一部の教育会は存続したのか」という問題です。教育会は戦前最大の教育団体でしたので、この問題は、教育団体における戦前戦後の連続性を考える重要な問題です。その中でも特に、現在に至っても存在感を発揮しているゆえに、「信濃教育会がなぜ戦後に存続したのか」という問いは、極めて具体的で興味深い問いになります。この問いに基づく基礎研究として取り組んだのが、このたびの拙稿となります。

 信濃教育会はなぜ戦後も存続したか。その理由解明はこれまで複数の先行研究でも取り組まれてきましたが、実際にはとても複雑で、まだ全容解明には至っていないように思います。しかし、少なくとも言えることは、1948年3月に公開された運営研究委員「教育会の在り方」という文書があったことは存続の重要なカギとなったのは間違いないです。戦後に解散してしまった教育会は、教育・社会の民主化のなかでどのような組織として改組するか、その構想を描き切れませんでした。しかし、信濃教育会(および長野県内の郡市教育会)は、改組の構想(「教育会の在り方」)を描き切り、改組を果たしました(しかも「教育会の在り方」をまとめたのが郡市教育会の代表たちであったということも大事)。その構想が文書「教育会の在り方」であり、これこそ戦後の長野県で教育会が存続した理由の一つです。
 拙稿はこの「教育会の在り方」の内容を分析しました。信濃教育会や各郡市教育会の関係者にはもちろんですが、教育会史や教育団体のこれからに関心のある人にも読んでほしいです。

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私の研究的立場

2023年11月15日 19時37分21秒 | 教育研究メモ
 私の日本教育史研究は、教師と教育学の歴史の研究を中心としてきた。

 教師の歴史の先行研究は、教育労働者としての覚醒過程や教育専門職としての形成過程、所属する社会階級の変遷とその文化の在り方などを明らかにしようとしてきた。それらの研究は、日本社会において教師たちが自律する手立てを探るものであったといえる。私の研究も、20年前当初から、教師の自律を探るための研究であった。
 私の研究の特徴は、教師の教育研究を視点の中心におくところである。教員研修の問題にとどめないのは、教師自身の主体的な取り組みを積極的に捉えたいからである。教員研修概念は、残念ながら、主体性のない受け身の研修とそうでない主体的な研修との差異を捉えにくい。教師教育の問題にとどまらなかったのは、教師自身の主体的な取り組みを十分に捉えきれないと思ったからだと思う。教師教育概念は、教師になるための意図的な教育計画を中心にするから、教師自身の学修(学習)や研究による創造的な思考錯誤・表現を視野に入れにくいのではないかと思った。教員の「生活」概念については、私の関心を包み込んでいるが、射程が広すぎて研究の焦点が定まりにくい。また、教師の現にある(あった)生活を超えた理想的な在り方や取り組み、とくに国家・行政・管理的立場から発されたものを排除・軽視せずに捉えることが難しいと思った。
 私は、教育の在り方を規定するものとして、教師の教育研究を重視する。だから私は、教師の教育研究を教育学の研究対象として捉えてきた。教師の教育研究は今もたくさん行われているが、研究生活を始めたばかりの私には1990年代から2000年代の教育研究の姿を捉えられていなかったので(教師の生活のうち、教育研究は生徒・学生の立場から最も見えにくいものだからかもしれない)、むしろ私は歴史の中にみられるそれらに魅了された。教育会における組織的な教育研究は、授業研究にとどまらず制度研究にも広がり、教師個人にとどまらず教員集団において行われ、政策過程や社会運動、職場改善に関する教育独自の立場形成につながっているように見えた。むろん教育会における教育研究をそのまま理想化するつもりはなかったのだが、私がそこから教育研究の理想を探ろうとしていたことは隠しようがない。こうして私は、教師の自律を探るための教育会史研究を進めてきた。教育研究の歴史的研究なのに教育学会の研究になかなか取り組まなかったのは、研究の中心に教師の教育研究を捉えたかったからだった。
 今までもそうだが、2020年代の今もなお、教師の教育研究の価値は揺らいでいる。国家の教育政策を遂行するために「役立つ研究」と「役立たない研究」が一方的に区別され、後者が無視される中で、教師たちも長時間労働のなかで教育研究に取り組む意義を見失いかけている今、教師の教育研究の歴史的研究は重要さを増している。

 さて、私はここ数年、教育学史の研究も進めてきた。
 戦後日本における教育学史の先行研究は、戦前の教育学説の封建性や翻訳性、教育実践への影響の成否、思想的系譜などを明らかにしようとしてきた。それらの研究の多くは、教育学に対する評価の方向性はそれぞれ異なるとはいえ、教育哲学・教育思想史の立場から教育学説の研究を中心として、教育や人間の近代化に果たした教育学の役割を探るものだったといえる。私の研究も、教育学の社会的役割を捉えようとするものである。
 私の教育学史研究の特徴は、教育学を職業的教育学者の専有物とみず、教師の教育研究との関係において捉えようとするところにあると思う。私は教育学研究と教師の教育研究を区別するが、教育学研究は教師の教育研究の一部を包括するものであり、教師の教育研究は教育学研究に刺激を与えるものだと考えている。教育学研究と教師の教育研究は、同一とも無関係ともみなさず、重なりうるもの、または重なるべきものとみなし、一体化すべきものとみなさず、関係ある他者として刺激し合うべきものと考えている(詳しくは拙著『教師・保育者論』(Kindle)の第2部参照)。それゆえに、私の研究は教育学説史や教育思想史の研究にとどまらず、教育学研究と教師の教育研究との関係史の研究にならざるを得ない。
 教育学研究と教師の教育研究との関係史の研究は、教育学の社会的役割を捉える研究であり、教師の教育研究の価値を探る研究である。また、先述の通り、私は教師の教育研究を教育の在り方を規定するもの(すべきもの)と考えているので、この研究は教育の歴史の動因を探る教育史研究であり、教育の在り方を探る教育学研究である。

 人間や人間社会は多様な側面をもち、それゆえに歴史も多様な側面をもっている。教育はその一側面であり、教育学の研究は人間・人間社会の研究の一部であり、教育史の研究は歴史の研究の一部である。教育史は歴史ゆえに多様な側面をもつが、教育学として研究することで明瞭に捉えることができる側面がある。教育学史は教育学だからこそ捉えるべきだし、教師の教育研究の歴史は教育学だからこそはじめて捉えることが可能である。私が、教育学研究と教師の教育研究との関係史の研究に取り組む際に、教育学者としての立場を維持するのはそのためである。教育学でなければ研究できない教育史がある。
 教育史は、多様な側面を持つゆえに教育学だけで研究すべきではない。また、教育学でなければ研究できない教育史を、現在の教育学が捉えられないという事態はありうる。教育学の視点・考え方を鍛えるには、他の学問分野・領域に学ぶ方法が考えられるが、そのためには学問間で問題意識や方法を理解・共有する必要がある。教育学の視点・考え方を鍛える主体は、あくまで教育学者でなければならない。私が教育史家として教育学者であることにこだわる理由は、そこにある。
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教育学のディシプリンの在りか

2023年10月23日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 かつて、戦後教育学は教育的価値を経済的価値に対比させて位置づけようとしてきた。教育は人間の成長・発達をそのまま価値と認め、その価値を承認する社会的立場を作ろうとしてきた。その立場の向かい側には、「教育自体は価値を有しない」として、経済的価値、または政治的価値によって教育を進める立場があった。
 教育学研究は、経済的・政治的価値に向けての教育の研究も当然含むが、同時に教育的価値に向けての教育の研究を意識しなければならない。経済・政治も人間に必要なものだから、教育が経済・政治に貢献することは意義のあることである。しかし、人間としての成長・発達につながらなければ、その教育は十分な教育とは言えないのではないか。教育の立場から見ると、経済・政治が発展したとしても、人々から人間性を失わせ、人間として成長できない教育では意味がないのではないか。教育は、経済・政治に役立つだけでは不十分で、人間の成長・発達と両立する必要があるのではないか。
 他の学問・科学のディシプリンに回収されない教育学のディシプリンはおそらくこのあたりにある。私は戦後教育学を全面的に肯定するわけではなく、歴史化し、批判的に乗り越えていくべきものだと思うが、このような教育分野固有の価値を明らかにし、一定の社会的立場を実際に形成したその歴史的意義は大きいものだと思う。

 教育学は、教育課程や教育技術・技能を科学的に開発研究していく領域をもつ。これも、単なる経済に役立つ人材の育成や政治的統制をしやすくするための効果的・効率的な教育課程や技術・技能を開発することでは、教育学として十分ではない。教育学は、教育の歴史的な発展や失敗を明らかにする領域ももつ。これについても、学校がどのように設置されたかや、教師や思想家がどのような実践・思想をどのように形成したかについて詳細に事実を明らかにするだけでも、教育学として十分ではない。学校や教師、教育思想を研究しないと教育学ではないのではなくて、たとえ学校や教師、教育思想を研究したとしても、人間の成長・発達をいかに促し、または妨げたかなどの問いにつないでいかなければ教育学にまで届かないだろう。教育学と教育現場の連携がうまくいき、教育理論と教育実践の往還ができたとしても、その教育が人間の成長・発達を促すものでなければ、往還したとて無価値または有害なものかもしれない。
 教育学にとって、人間の成長・発達を価値と見る見方・考え方は、とても大事なものだと思う。

 問題は、経済的価値による教育も、政治的価値による教育も、教育的価値による教育も、現代においては、同じく「教育」と呼んでいることである。これらを「教育」以外の言葉で呼ぶことは、かなり難しいし、それぞれの立場の独善ともみられる可能性があり、教育を探究する際の多様性が失われるおそれもある。そのあたりをどう考え、どうすべきか…

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教育と主体、世界、歴史

2023年09月27日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
人間は、世界に対して応答することで主体となる。
世界に応答せずとも人間は人間であり、主体としての人間は世界に応答する。
社会的・心身的な困難をもっていても、人間は主体となり、世界と応答する可能性をもっている。
その可能性を実現させることこそ、教育の使命である。

教育は、教育者と被教育者の二者関係だけでなく、教育者と被教育者とを包む世界との関係によって成立する。
教育は、教育者と教材を介して、人間と世界との応答の機会をつくる。
そして、主体としての人間を導くことを介して、世界を動かし、歴史をつむいでいく。

世界・歴史を動かすのは、個性と文化であり、それらによって営まれる人間の主体的生活である。
教育は、人間を主体に導き、主体としての人間が個性と文化を育ることで、世界をつくり、歴史をつくることにつながる。
教育は主体を形成することで、世界と歴史をつくる間接的な動力となる。

(京都学派の研究を通して考えたことのとりあえずのメモです)
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学校の働き方改革における教育研究時間の労働時間化の目標化

2023年08月28日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 教師は子どもたちの「教育を受ける権利」(憲法第26条の1)を保障するために働く。「教育を受ける権利」を保障するには、子どもたち一人一人の「学習権」を保障することと、子どもが「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障することが前提となる(例えば安心・安全でない環境で学習に集中することなどできない)。子どもの学習や生活は子どもの個性や置かれた状況に応じて行われる。子どもの個性や状況に応じた学習機会や生活環境を提供することが教師の仕事である。
 子どもたちの状況は日々変化し、成長と共に個性は変化し、必要な生活環境も変化する。教師たちは、子どもたちの変化や個性に応じた学習機会を提供するために、教材や授業の研究に取り組まなければならない。教師の労働時間はこの教材研究や授業づくりなどの時間を含む。教材研究や授業づくりの時間が教師の労働時間に含まれないという論理は、まったく教師の仕事に適さない論理である。教材研究や授業づくり、児童生徒理解、生徒指導、学級・学校運営などのための教育研究は、教師個人の趣味ではなく、教師の正規の労働として認めなければならない。

 学校の働き方改革は、教師たちの労働条件を見直して、子どもたちの人権(教育を受ける権利・学習権)を十分に保障できる体制を整えることである。現状は、教育研究を正規の労働時間に含められるような状況になり得ていない。現在の学校では、教育研究よりも優先されている業務で労働時間はいっぱいとなり、多くの場合は正規の労働時間に収まりきらず、勤務外労働に至っているからである。
 「教育研究の時間などどこにもない、そのほかの業務ですでに私的な時間を削っているので捻出できない(または命を削って捻出するしかない)」という現状は、誰が不利益をこうむっているのだろうか。教師たちが教育研究に時間を割けないことで不利益をこうむっているのは、第一に子どもたちであり、第二にその保護者たち、第三に我々国民である。教師が教育研究時間を確保できないという問題は、実は、子どもたちそして国民の「教育を受ける権利・学習権」を十分に保障できない、保護者の義務(保護する子に普通教育を受けさせる義務)を十分に果たせないという結果を生んでいる。(なお、命の危機にさらされている教師が不利益をこうむっているのは当たり前なので、算入していない。)
 教師が子どもを見ていない、いつまでも同じような授業をしている、形ばかりの授業で成績が上がらない、などの声がよく保護者や国民から挙がることがあるが、教師個人の責任や努力不足は、努力できる条件を整えてはじめて本格的に問うことができる。教育研究時間やそのための条件を確保しないで児童生徒の理解や指導・授業改善を求めても、教師たちは問題解決に取り組む余裕がないので結局状況は変わりようがない。逆に、真面目な教師を追い込み、仕事の効率を落とさせることになりがちである。
 学校の働き方改革の目標は、仕事の優先度はどうなっているか具体的に整理して業務削減・効率化を進め、教育研究を労働時間内に収めるところまで見通すべきである。当面の目標は、業務削減・効率化の実を挙げることであるが、そこで終わりではなく、教育研究時間の労働時間化まで進めなければ、本当の働き方改革にはならない。

 なお、教育研究(特に教材研究や授業づくり)が教師の重要な労働の一つであるという認識は、学校や教員養成の現場や教育行政では常識である。最大の問題は、教師の労働内容を枠づける権限をもつ国や国会、地方議会であり、主権者である国民の理解の次元にある。教育内容を増やせば教師の労働内容は増えるし、教員数を定めれば教師の労働の総時間数は定まる。教育内容を定めるナショナル・カリキュラム(学習指導要領)は国が定め、教員定数や加配数は議会が決めており、国や議会の政策方針は主権者や利害関係者の世論を見て決められている。政治家や国民は、教育研究なくして子どもたちの人権(教育を受ける権利・学習権)を十分に保障することはできないということをどれだけ理解しているか。教師が授業以外に何をしているか知らない人々が大半の現状では、残念ながらまったく理解されていないとみてよい。教育研究の重要性と働き方改革の長期的な目標について、国民や政治家の理解を図る仕組みが必要である。
 一般の会社員が、次の会議に出す資料を準備する時間は労働時間に入らないと言われたらどう思うか。普通の人は、たまらない、やっていけないと思うだろう。資料準備の時間は、パワーポイントを作る時間だけを労働時間とする、と言われたらどう思うだろうか。それだけで資料を作れるわけがない、調べものをしたり計画を練ったり打合せしたりする時間が必要だ、と思うだろう。そういう時間を労働時間に入れてくれる企業と、入れてくれない企業とでは、人はどちらで働きたいと思うだろうか。また、よい企画を立てるには新しい視点を得たり新しい技能を身に付けられる研修が必要だが、研修機会をしっかり確保してくれる(労働時間に入れてくれる)企業と、そうでない企業とでは、人はどちらで働きたいと思うだろうか。これらの問題と教師の教育研究の問題との間には似ているところがある。異なる所を挙げることは可能だが、一般的な業務との共通点を探って国民の理解を求めていくことも大事だろう。

参考文献
・高橋哲『聖職と労働のあいだ―「教員の働き方改革」への法理論』岩波書店、2022年。
・白石崇人『教師・保育者論』教育の理論②、Kindle、2022年。
・白石崇人『教育の制度と経営』教育の理論③、Kindle、2022年。
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