教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

発達状況に応じた保育について【3歳児】

2011年06月15日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 一つ大仕事が終わりました。次は、たまっている仕事を片付けていきたいと思います。
 さて、以下続き。5歳児までまとめていますが、1歳分ずつもったいつけて公開しております。


【3歳児ならではの経験の例】
 3歳児の一般的な発達状況は、次のようなものがある。例えば、膝のバネや平衡感覚が発達し、地形に合った動きや三輪車やボールなどの遊具に応じた運動が確かになる。左右の手の協調が進み、紙を持ってハサミで切ったり、箸を使ったり、一人で衣服をうまく着脱したりできるようになる。トイレへ一人で行くようにもなる。
 自分ですることをくり返すことで自信がつき、言葉での自己主張や理由をつけた拒否がはっきりするようになる。次第に相手との関係を踏まえて行動することも見られるようになるが、まだ妥協は難しい。親しい大人との関係を基礎として、子ども同士の関係も親密化し、2~4人程度の群れをつくるようになる。並行遊びが見られ、友だちと時間と場所を共有して遊ぶことを楽しむようになる。感情のコントロールが未熟であり、気持ちの浮き沈みは激しい。記憶を維持しつつ自分なりに再現することができるようになり、生活再現のごっこ遊びを楽しむようになる。使える語彙が500~700語程度に増加し、かつ助詞や副詞を含む単文を話し、初歩的な複文も話すようになり、話の前提に疎い親しい大人以外からの質問にも答えられるようになる。「どうして」や「いつ」とも聞くようになる。
 視点の違いはまだ理解できないが、不思議に思えるようになる。丸や四角だけでなく、台形やひし形などもわかるようになり、二つの図形を合成するようにもなる。物事の抽象化や規則性への気づきが始まり、赤・青・黄・緑などの基本的な色や、1~3までの数を理解し、自分で造語を作ったりする。顔を描いたり、描いた丸を名付けたりして、意図的に表現するようにもなる。想像力が豊かになり、想像上のお化けや怪物などをこわがったりするようになる。
 保育者は、3歳児の保育において、どのようなことをすべきか。3歳児の時期では、図形を区別したり、合成したり、視点の違いに気づいたりするようになり、ブロック遊びや折り紙を楽しめるようになる。図形の区別・合成や視点が変わると違った形に見えることなどに気づくよう、そのような機会を意図的に作ったり、声かけをしたい。また、まだ並行遊び中心であるために一見わかりにくいが、3歳児は友だち同士の場の共有を楽しんでいる。みんなで一緒に同じ行動をして楽しめるように、場と時間を設定することなどが考えられる。
 3歳児は、集団での設定保育を効果的に行えるようになる時期とも言える。ただし、まだルールの理解などは難しいため、3歳児の集団保育・遊びは4・5歳児のそれとは基本的に異なるものとして理解しておく必要がある。

<主要参考文献>
心理科学研究会編『育ちあう乳幼児心理学―21世紀に保育実践とともに歩む』有斐閣コンパクト、有斐閣、2000年。

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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発達状況に応じた保育について【2歳児】

2011年06月13日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 情緒不安定の様子。自然に涙が出そうになる。叫びたくなる。
 …疲れてるみたいなので休みたいが、今週もノンストップ。仕事は増えるばかりだが、一つずつ、つぶしていくしかあるまい。


【2歳児ならではの経験の例】
 2歳児の一般的な発達状況は、次のようなものがある。例えば、歩く、走る、両足で跳ぶ、よじのぼるなどの行動が巧みになり、足のみで階段の上り下りができるようになる。手指の器用さもさらに発達し、両手で食器を使ったり、ボタンを自分ではめたりするようになる。三・四語の発話や、閉じた丸を描くようになり、表現力の発達が進む。
 要求が明確化するが、「できない」や「手伝って」と要求するだけでなく、「見てて」と要求して親しい大人に見守ってもらって自分の気持ちを後押しし、要求を調節するようにもなる。友だちといっしょに行動したがり、共通性を見つけて共感したり、拒否・否定されると悲しみ・怒りを感じるようになったりして、友だち関係が深まっていく。
 物事の区別能力が見られるようになり、「大-小」の区別だけでなく、次第に「長-短」の区別もつくようになる。また、物事からイメージを喚起したり、環境への興味関心が進んで「これ何?」をくり返し、次第に「だれ」「なに」「どこ」「どっち」などの言葉も使ったりするようになる。思い出したことを話したり、目の前にないことを話題するなど、記憶を維持しつつ自分なりに再現するようになる。2歳半頃になると、「~してから~する」や「~だから~する」を因果関係を徐々に理解するようになり、目的のある行為や単純なまとまりのある動作につながっていく。このため、少し待ったり、物を貸したりすることができるようになる。
 保育者は、これらの経験をより充実させるために、例えばどのようなことをすべきか。例えば、使いたいおもちゃを少し待ったら貸してもらえる経験や、貸したら戻ってくる経験をねらって、他の子どもと一緒の場所にいさせたり、おもちゃを共有したりする。また、おもちゃを貸す時や返ってきた時に、貸したらいずれ戻ってくることがわかるような声かけや、我慢して待ったことを認めたりするなどが考えられる。

<主要参考文献>
心理科学研究会編『育ちあう乳幼児心理学―21世紀に保育実践とともに歩む』有斐閣コンパクト、有斐閣、2000年。

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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発達状況に応じた保育について【1歳児】

2011年06月10日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 どうも、ごぶさたしております。忙しさとぐらつく精神と闘っておりましたところ、いつの間にか2週間以上も間を空けていましたね。

 最近、時間を見つけて、自作テキストづくりをしております。以前にもやっておりまして、その時作ったものは今でも授業に使っております(「その他業績一覧」の<私家版>のやつです)。今年度より担当科目が増え、かつ従来担当していた科目の内容をリニューアルすることになったので、そろそろ新しい内容も追加しなくては、と思っておりました。ぼちぼち書いていこうと思っていたところ、今少しでもやっておかねば、後でやろうとしても忙しくなって無理っぽい雰囲気になってきましたので、ようやく動き出しました次第です。
 自作テキストの内容は、まぁ、レポートみたいなもんですが、ちょっとだけ記事にしていこうと思います。書き殴っているので、練られた読みやすい文章とは言い難いですが、何かの参考になれば幸いです。今日の記事は、乳幼児発達心理学の成果をまとめて、保育のねらいにつなげていく、という内容の一部。1歳児の部分を書き抜きました。
 発達に関する知識は、後述の文献によります。内容に関する意見やオススメの参考文献など何かありましたら、コメントに残しておいて下さい。私はもちろん、読者の方にも参考になりますので。


2.発達状況に応じて保育するための「ねらい」

(1)各時期ならではの経験を積む
 ある時期の発達は、次の発達を進めるためだけのただの準備段階ではない。幼児期は、次にくる児童期やその先の成人期のただの準備期間ではない。結果的に次の発達に有益に働くことはあるが、次の発達のために犠牲にしてよいものではない。特定の時期の発達は、その時期特有のかけがえのないものである。
 例えば、言葉づかいを早く巧みにするために、発達状況を無視して大人びた言葉を教えたり、文字を早く教え込んだりすると、言葉の発達が進むどころか、その子の生涯発達上に問題を残しかねない。あまりに早くから大人びた言葉に親しみすぎると、経験をともなわない空虚な言葉を操ってばかりになったり、大人とばかり話したがったり、子ども同士の人間関係が広がらなかったりする。同年齢の友だちと共感したり、ケンカしたりする経験をしてこなければ、結果的にその後、その子が対人コミュニケーションに苦労することになる。その時期ならではの活動や感情などを十分に経験することが、結果的に次の発達を進めるのに有益に働くのである。
 各時期ならではの経験を積むには、どのような保育をしていくべきか。以下、1歳児から5歳児までの発達状況に応じて、どのような発達をねらっていけるか、主に発達心理学の知見を利用して考えてみよう。
【1歳児ならではの経験の例】
 一般的に、1歳児(とくに1歳半以降)の発達状況は次のようなものが挙げられる。例えば、直立二足歩行をするようになり、1歳半くらいまでに歩行が安定する。姿勢を変化・保持する能力が発達し、坂や段差にも対応するようになる。初語が出て、1歳半くらいまでに語彙が急増し、二語発話も出るようになる。指さしや身振りなどで、親しい大人とコミュニケーションをとるようになり、大人の問いかけに指さし等で応答するようにもなる。手指のコントロールも巧みになり、スプーンで食べ物をすくって口まで運んだり、クレヨンなどで殴り描きをしたりして、道具を使うようになる。自分でしたいという気持ちがはっきりしてきて、大人が手伝おうとすると拒否したり抵抗したりすることもある。自分の「つもり」やイメージを持続させて状況・時間を越えて自分自身を意識することができるようになり、手にしていない人形を自分のものだと主張することが見られるようになる。1歳2か月~8か月頃には、自分の名前を理解し、発話の中で使用するようになる。また、ものを介して友だちへ関心を向けるようになり、親しい大人以外の他者とかかわるとともに、自分の「つもり」にこだわってトラブルを起こすようにもなる。
 以上のような経験が、1歳児ならではの経験として挙げられる。保育者は、これらの経験をより充実させるために、様々な支援・指導をしていきたい。例えば、問いかけへ応答するという経験をねらって、保育者は子どもの返答を待ったり(たとえ行動に出なくても応答しようとする気持ちにつながる)、指さしにうなずいて応答の行為を受け止めることなどが考えられる。

<主要参考文献>
心理科学研究会編『育ちあう乳幼児心理学―21世紀に保育実践とともに歩む』有斐閣コンパクト、有斐閣、2000年。

(以上は、白石崇人『保育者の専門性とは何か』幼児教育の理論とその応用2、社会評論社、2013年に所収しております)

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なぜ保育所と幼稚園があるのか?―戦後日本保育制度史

2011年04月19日 23時24分37秒 | 幼児教育・保育

 2011年4月15日、拙稿が収録された保育士養成課程用教科書が出版されました。拙稿「日本の保育の制度史(戦後)―なぜ保育所と幼稚園があるのか?」(池田隆英・上田敏丈・楠本恭之・中原朋生編『なぜからはじめる保育原理』建帛社、2011年、97~104頁)の紹介です。この教科書は、保育士資格必修科目の「保育原理」用教科書です。出身研究室の大先輩から声をかけられまして、諸事情あっていろいろ悩んだのですが、せっかく声をかけていただいたので参加しました。拙稿以外の内容も充実していますので、ぜひ手に取ってみられてはいかがでしょうか。
 さて、拙稿の論文構成は以下の通り。「保育二元体制」と「幼保二元体制」との使い分けは、あまり気にしないでください。

1.占領期における保育二元体制の確立
 (1) 幼稚園の学校化
 (2) 母親の就労を支援する保育所
 (3) 「保育に欠ける」概念の形成
2.経済成長期における幼保二元体制の維持
 (1) 女性就労の拡大期における保育政策
 (2) 幼保二元体制における保育内容一元化
 (3) 「幼児教育」と「保育」
3.低成長期における保育二元体制の見直し
 (1) 保育要求の多様化の進行
 (2) 少子化対策としての幼保一元化

 内容は、戦後直後の占領期(1945~1950年代初頭)から、独立後の高度経済成長期(1950年代半ば~1970年代初頭)、高度経済成長にブレーキがかかって以降の低成長期(1970年代半ば~現在)における幼保二元体制(幼稚園・保育所の並行設置体制)の変遷を整理したものです。占領期において二元体制が確立したのは、保育所と幼稚園に関する戦前以来の一般的認識が働いたとともに、戦災・貧困から子どもと保護者を救うために幼児を収容する施設の増設が優先されたためでした。高度経済成長期に二元体制が維持されたのは、すべての子どもに対する教育よりも「保育に欠ける」乳幼児の養護が優先されたためでした。低成長期において幼保一元化が現実味を帯びてきたのは、財政負担軽減・少子化対策の推進により、幼稚園と保育所との弾力的運用が認められたためでした。…とまぁ、こんな事を論述しています。
 なお、拙稿は、幼稚園側の歴史記述の軸に『幼稚園教育百年史』(ひかりのくに、1979年)を、保育所側の歴史記述の軸に中村強士『戦後保育政策のあゆみと保育のゆくえ』(新読書社、2009年)をつかって、岡田正章氏の論攷で補填しつつ、資料集などから史料をあさって再構成したものです。『百年史』以後の幼稚園側の歴史は、保育所側の歴史を参考にして、自分で調べました。もう少し言いたいことはあったのですが(とくに教育課程)、紙幅の都合上ひっこめたことも少なくないです。本当は、見ておきたい先行研究もあったのですが、物理的時間・体力・精神力および紙幅が圧倒的に足りなかったのと、おおよそ言いたいことは言えたようなので、この程度の利用にとどまっています。
 現在、幼保二元体制はすでに歴史的役目を終え、幼保一元化(一体化)へと移行しつつある、と感じています。ただ、一元化(一体化)のあり方は、幼保の違いを無視してごちゃ混ぜになるようではマズイ、と私は思っています。そもそも、幼稚園と保育所はねらいも対象も違います。幼稚園の「すべての子どもに対する教育(発達保証)」(教育の機会均等原則)と、保育所の「保護養育に欠ける子どもに対する養護」(最低限の文化的生活の保障原則)とは、それぞれに重要かつ必要な実践理念です。どちらも無視されてはならない理念です。幼保一元化(一体化)の過程において最も問題ある選択は、幼保両方の「良さ」「意義」をきちんと理解していない者たちにイニシアティブを明け渡し、なし崩し的に「ごちゃ混ぜ」にされてしまうことだ、と私は思うのです。一元化・一体化せざるを得ないならば、それぞれの理念・実践とを生かしながら実現させることが大事です。(それには、おそらくかなりの時間と労力が必要でしょう。幼稚園関係者と保育所関係者との間の距離は、実際のところ、かなりあるように感じます(私自身も含めて)) 本稿を書く前からぼんやりと思っていたことですが、今回、戦後の二元化体制の歴史をまとめたところ、余計に強く思うようになりました。
 幼保両面の「良さ」「意義」を生かすような一元化・一体化を実現するには、何が必要か。それは、いろいろあると思いますが、私は次のように思います。それは、一人一人の子どもに応じた保育ニーズ(この子には教育がどの程度必要なのか、養護がどの程度必要なのか、そして保護者へどの程度支援が必要なのか)を見極めて実践できるような保育者です。保育者養成課程に携わる者としては、そういう力量の基礎となるものを学生たちに培っていきたいと思っています。

 なお、拙稿を書くときに気をつけたのは、とくに次のことでした。
 それは、なぜこういう体制が作られたのかということを理解するために、制度・政策形成過程における教育関係者と福祉関係者との思惑に言及することでした。制度は人が作るものです。何らかの思い(目指すもの)が込められているものです。だからこそ、制度を批判する余地もあるし、逆に積極的に遵守することもできるのです。そういうことは、制度の形成過程を振り返ることでしか気づけません。保育者養成教材としての制度史の役割は、ここにあると思って書きました。そのため難易度はちょっと高くなってしまったかも…と思いますが、制度名の羅列には絶対にしたくなかったので、書ききりました。
 「歴史なんて振り返る価値なんてない…」と思われがちな日本社会において、「歴史を振り返ってみると、こんなことまでわかるんだなぁ」と感じる人が少しでも増えてほしい、そんな気持ちです。

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養成課程で身につけるべき保育者・教師の資質

2011年03月21日 18時35分44秒 | 幼児教育・保育

 あまりじっくり書く余裕はないので、ごちゃごちゃしていますが、少しだけメモ。

 保育者・教師に真に必要な資質は、就職後の実践現場で身につく。たとえば、子どもの反応に即興的に応じて内容や方法を調整する実践力や、的確で幅広く深い子ども理解、的確なカリキュラム編成技術、学習を促進する技術や教育方法などである。これらは、現場に出て、子どもや同僚とかかわりながら、教育を実践する中で身につけることができる。養成課程で身につけられないこともないが、あまり効果的・効率的なものにはならない。では、養成課程で身につけるべき資質とは何か。
 養成課程では、教育に関する基本的な知識・技術を身につけることができる。教師志望者は、教材の学問的理解、担当教科に関する学問や技術の理解などを身につけることができる。保育者志望者は、ピアノの技術、様々な歌や遊び、絵本、牛乳パックで製作を進める仕方、小動物や虫の飼い方など、具体的な知識・技術を身につけることができる。教育は具体的な教材・活動を通して行われるものだから、これらの具体的な知識・技術を養成課程で身につけることは必要である。
 しかし、具体的な知識・技術一つ一つは、特定の条件においてのみ適用可能なものである。具体的な知識・技術は、特定の子ども、特定のクラス、特定の年齢、特定の時期など、限られた場面でしか使えない。いつでもどんなクラスでも適用できるわけではない。これらの具体的な知識・技術は、もちろん養成課程でもある程度身につける必要があるが、むしろ実践をしながら必要に応じて学んでいく方が適切であることも多い。

 養成課程で身につけるべき資質は、知識や技術を応用し、場面に応じて目標・内容・方法を取捨選択・操作・調整する力である。これは、実践力として主に実践現場で働きながら教師・保育者自ら発達させていくものであるが、養成課程において、その基礎を身につけることが可能であり、かつ重要である。実践力の基礎は、教育観・保育観や子ども観などの根本的な観念・概念・思想である。「教育とはこういうものだ」と理解しているから、具体的な場面に応じて「じゃあこうしよう」と考え、実践できるのである。
 たとえば、「保育とは絵本を読み聞かせることだ」程度にしか理解していなければ、どうなるだろうか。読み聞かせ以外の活動がおざなりになりはしないか。また、「教育とは試験勉強のためのものだ」と理解していれば、今は別のことをしたいという子どもの思いを無視することもあるだろう。教材選択や授業展開においては、世界を本質的または実感的に理解するような教材や展開よりも、試験に出る知識を子どもの発達状況を無視して詰め込むこともあるだろう。「教育とは子どもに合わせて無理なく発達を促すことだ」と理解していれば、子どもの興味や発達状況をしっかり把握しようとするし、そこから教材や展開を発想するだろう。このように、どのような観念・思想を持っているかによって、実践する教育のあり方はまったく変わっていく。
 もし養成校が最大の罪をおかすとしたら、それは何か。それは、教育のあり方や子どもの理解の仕方などについて、勘違いさせたままで、教師・保育者志望者を現場に出すことである。教育観・保育観・子ども観などは時代や社会とともに変化するため、重要なのは、一つの固定した観念や思想を教え込むことではない。「勘違い」とは、時代錯誤や独りよがりな理解のことである。教師・保育者志望者は、養成課程を受ける前にも一定の考えをもっている。しかし、それらはまだ未発達・未整理の状態にある。養成課程において本当にすべきことは、志望者たちの教育観などの発達を促し、整えていくことである。養成課程では、具体的知識・技術の学習と並行して、教育とは何か、保育とは何か、子どもをどのように理解したらよいか、などについて、根本的に的確に考える機会を十分に与えることが重要である。
 養成課程で取り扱うべき教育観・保育観・子ども観には、たとえば「保育・幼児教育は、遊び・環境を通して行う」「子どもの主体性を尊重し、それを伸ばす」「学習は経験を通じて行われる」「教育は、知識の蓄積だけでなく、社会性・道徳性を養わなくてはならない」「子どもにも基本的人権がある」などがある。教師・保育者志望者は、これらの観念・概念・思想を、言葉と感覚との両面から理解し、身につけ、自らの資質としていかなければならない。養成課程では、講義・演習・実習の環流のなかで、これらを知識として明確に、経験として実感的に、学んでいける機会を提供していかなくてはならない。

 優秀な教師・保育者を養成するには、どうすればよいか。やみくもに現場に出せばよい、実習の期間を増やせばよいというわけではない。それではわざわざ学校に行く必要はなく、普通教育終了後にすぐ教壇に立てばよいことになる。しかし、それでは教育や子どもについて、あるいは誤解したまま、あるいは未整理のまま、教育にあたることになる。中には偶然にうまくいく者もあるかもしれないが、2000万人近くの18才以下の国民の教育を偶然に任せるわけにはいかない。養成課程において、教育・保育・子どもを考えるための教材(学説・思想・政策・制度・実践など)に時間をかけてかかわり、教育観・保育観・子ども観などの根本的観念・概念・思想を発達させ、一定の程度までそれらの質を高めることが必要である。
 実践現場に出て教師・保育者が適切な教育を行い、適切に成長していくには、就職前すなわち養成課程において、「教育・保育・子どもとは何か」などについて明確に学び、一定の観念・概念・思想を形成する必要がある。これこそ、養成課程において身につけるべき資質であり、養成課程において身につけるにふさわしい資質である。そしてこれらは後に、現場で真の実践力を身につけていく基礎となるのである。

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「子ども園(仮)」の制度化について

2010年10月04日 21時10分44秒 | 幼児教育・保育

 現在、政府内で「子ども園(仮)」が審議されているのはご存じの通り。このたび、国務大臣等から成る「子ども・子育て新システム検討会議」の作業グループが、「幼保一体化」ワーキングチームを発足したとのこと。基本制度と「子ども指針(仮)」との検討も同時並行で行い、来年3月に法律案を提出するのだとか。「子ども指針(仮)」は、幼稚園教育要領や保育所保育指針のような教育(保育)課程のことでしょう。どうやら、「子ども園(仮)」をつくる作業が本格化したようです。でも、法律案を「予算非関連」で出そうとしているのは、どうなんでしょうね。どこまで本気なんでしょうか。まずは制度を作るのが優先、ということでしょうか。
 私としては、「子ども園(仮)」の制度化にあたって、保育所の論理(養護>教育)が優先されないよう祈るばかりです。幼稚園と保育所とは果たす役割も違うし、通園する子どもや利用する家庭のニーズも違います。施設が一緒になるのは今の時代致し方ないんでしょうが、それぞれには無視できない意味と特性があります。いっしょくたにして、ぐちゃぐちゃに混ぜてしまわないよう、気をつけてもらえたらと思います。そんなことになったら、保育者にとっても、子どもにとっても、保護者にとっても、我が国にとっても不幸な結果を生むと思います。ワーキングチーム(WT)には、幼児教育学や発達心理学に長年かかわってきた学者や、実績ある保育者も加わるようです。そのあたりをしっかりと主張してくださればいいなぁ、と思います。

 忙しすぎて自分で宣言したことができてませんが、仕事柄重要な情報を得たのでメモ。

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幼稚園教員養成について―教員養成課程延長(6年制)論の流れのなかで

2010年09月02日 23時36分01秒 | 幼児教育・保育

 現在、中央教育審議会では、教職生活全体を見通した教員の資質能力向上についての諮問を受け、教員の資質能力向上特別部会を設けています。先の8月31日、同部会は第4回目の会議を開きました。そこで提出された資料のなかに、第3回までの会議で出た各論点について、主な意見がまとめられた資料があります。
 この資料に目を通してみたのですが、首肯できる意見とともに、疑問な意見が見受けられます。ここに見られる意見は、現在の政策形成の場で、教員資質およびその向上策がどのように構想されているかを示す重要なものです。これがそのまま政策化されるわけではありませんが、教師のあり方に関心を持ち、教師教育にかかわる当事者のはしくれとしては、きちんと認識されていない重要問題はないか、気になるところです。
 ということで、この資料を参考にして、教師の在り方に関心をもつ者として、以下、思ったことを書き綴ってみます。論点はさまざまありますが、今回は、教員養成の点に限りました。

 教員の資質能力向上策をめぐる議論の中で、養成課程の高度化という論点があります。この場合気になるのは、幼稚園教員養成がほとんど話題に上らないことです。教員養成課程を問題とするならば、幼稚園教諭の養成課程についても取り上げなくてはならないはずです。ここでは、最近の議論の中心問題である、養成課程の年限延長に焦点を当てて考えてみましょう。
 まず、小中高校の教員養成の場合、4年制による養成が一般的ですので、年限延長による6年制への移行が論点になるのはわからないでもありません(ただ、2年(短大)で取得できる2種免許状のことがまったく無視されているのは気がかりですが…)。しかし、幼稚園教員養成の場合、2年制が一般的です。幼稚園教員として採用されている人々の多くは、2年制の短大で2種免許状を取得した人々です。「教員養成問題」として一括して6年制の議論を進めるのは、幼稚園教員養成の実態を無視しているのではないでしょうか。
 この点については、次のような反論もあるかもしれません。2年制教員養成制度はそもそも暫定的制度であり、いずれなくすべきものだから無視してもよい、と。では、たとえば6年制の幼稚園教員養成課程を組んだとしましょう。しかし、それだけの時間をかけて養成した人材を受け入れるに適した待遇を、公立・私立園・自治体は十分に用意できるのでしょうか。多くの教育費を計上できない現状では、教育財政上、教育費節減(すなわち人件費削減に直結)は必ず問題となる論点です。幼稚園教員養成課程の高度化は、幼稚園教諭の待遇とセットで議論しなければ現実的なものにはなりえません。
 また、そもそも4年制ではどうでしょうか。近年、短大が4年制大学化した事例も少なくありませんが、必ずしも成功例ばかりではないようです。また、短大に入学してくる学生の実態をみると、4年制大学には行かせられないが短大なら何とか行かせられる、という家計的事情を抱えた者も少なくありません。また、2年制養成課程をもつ短大の中には、教員養成の効果を高めるために、工夫に工夫を重ねてきた短大も少なくありません。その結果として、幼稚園教諭の主要な供給元として一定の成果を上げてきたのだと思います。単純に、2年制課程を廃止し、4年制または6年制へと延長するのが、幼稚園教諭の資質向上を担保するとはいえないと思われます。
 ではどうすればよいのでしょうか。単純に年限延長を一律に実施して、4年制・6年制へ移行することは時期尚早であろうと思います。現状における2年制養成課程の役割を正当に認め、支援していくと同時に、幼稚園教員の待遇改善に努めていくことが肝要だと思います。そうすれば、後日、2種免許状取得者が1種免許状を上進取得することを促進することにつながり、結果的に幼稚園教員の資質が向上するのではないでしょうか。
 なお、幼保一元化が本格的に進む今、幼稚園教員養成については、保育士養成との関連を無視するわけにはいきません。現在、先行して保育士養成課程の改訂が進んでおり、幼稚園教員養成課程と保育士養成課程との間は急激に乖離しています。幼保一元化を本気で実現する気ならば、ぜひ、厚労省方面との相談・調整に本腰を入れるべきだと思います。

 私は養成課程(大学)の改革だけでは、教員の資質能力向上は図れないと思っています。気力が残っていましたら、別の論点をまたの機会に。

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明治後期の保育者論―保育者に求められる資質とは…?

2010年06月22日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

 本日は、近著の紹介。
 本年6月、白石崇人「明治後期の保育者論―東京女子高等師範学校附属幼稚園の理論的系譜を事例として」(『鳥取短期大学研究紀要』第61号、2010年、1~10頁)が活字化されました。この論文は、当時の代表的な保育理論家であった中村五六・東基吉・和田実・倉橋惣三の代表的論考と先行研究を用いて、明治20年代半ばから大正2年までの保育者(幼稚園保母)論を整理したものです。論文構成は以下の通り。

  はじめに
 1.中村五六の保育者論
  (1)フレーベル原理に基づく保育理論の追求
  (2)改良進歩の主体としての保育者
 2.東基吉の保育者論
  (1)自主的活動としての遊戯の具体化
  (2)保育者の専門的知識・技能と道徳的性格
 3.和田実の保育者論
  (1)幼児教育法の体系化
  (2)「幼児教育法」と「教育的精神」
 4.倉橋惣三の保育者論への影響
  (1)倉橋惣三の保育思想の概要
  (2)保育者の必要条件と十分条件
  おわりに

 基本的な論旨としては、次の通り。明治後期の保育者論は、保育理論・方法・技術の習得へ着目する形で展開し、保母の専門的職業化への志向を強く見ることができます。大正期以降、倉橋が人格的側面を強調する「ほんとうの保母」像を提示していきましたが、そのように論じることは、明治後期に専門的職業化を志向する保育者論が蓄積されたからこそ、可能だったのではないかと考えています。また、明治後期の保育者論には、当時の小学校教員論の影響を想起させる点がありました。明治後期のフレーベル研究と幼稚園研究および実践との進展にともない、次第に「保育者論」としての独自の論理体系をもつようになったのではないか、という仮説も提示してみました。
 拙稿は、保母の専門的職業化を志向する明治後期の保育者論を基盤として、大正期以降の保育者論の展開があったことを示したものです。幼稚園保母の専門的職業化が目指されていた明治後期の保育者論は、保育者の専門性への注目が進む現在、意外に参考になることは多いのではないでしょうか。明治後期およびそれの系譜に連なる倉橋の保育者論を見ると、現在でも保育者に必要な資質を示しているように思われます。内容上は時代の制約がありますので注意が必要ですが、本質的にはやはり保育者としては重要なものです。実は、それらの資質がなぜ必要なのかという理由の方が私としては面白かったので、気になる方は論文を読んでほしいのですが、少し挙げますと以下の通りです。
 たとえば、中村五六の保育者論には、以下のような保育者の資質が挙げられています。

  ① 保育者業務に耐えうる心身の健康
     (幼稚園教育は困難な仕事であり、心身虚弱では本人が苦痛を感じるため)
  ② 幼児の感化モデルとしての道徳的態度
     (幼児は極めて感化されやすいため)
  ③ 幼児に対する愛情と保育者業務に対する熱心
     (進んで事をなさなくては教育効果はあげられないため)
  ④ 普通学・教育学・幼稚園教育理論に関する学識とそれらを改良しようとする意欲・態度
     (幼稚園事業は時世にしたがって改進すべきものであるため)
  ⑤ 実際的な保育方法の熟練
     (幼稚園教育は実行する方法を欠いてはならないため)
  ⑥ 現代社会への理解に基づいて、保護者とコミュニケーションする能力
     (幼稚園と家庭との育児方針を一致させ相互に協力しあう必要があるため)

 中村は、これらを養成完了時に身につけられるとは思っておらず、就職後に引き続いて、研修・研究によって身につけるべきものとして考えていました。こういう考え方も、ある意味「現代的」な考え方でしょう。
 そのほかに 上述以外の東・和田・倉橋の保育者論も非常に興味深い内容になっています。東の論には、保育者は科学・文学などの知識に読書によって通じるべきであり、それは科学・文学などを子どもっぽく表現して子どもの問いに答えるために必要なのだというのもありました(子どもは問いたがるから)。
 明治の保育者論もなかなか捨てがたいな、と思われた方は、ぜひ拙稿を手に入れてみてください(手に入れ方は、最寄りの図書館に相談してみてください)。

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