諸事情あってなかなか報告できませんでしたが、最近、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈―教育会共同体の実態に関する一考察」と題した論文を活字化しました。広島大学教育学部日本東洋教育史研究室発行の『広島の教育史学』第3号の掲載です。私の出身研究室に鈴木理恵先生が着任されて、1年後に創刊された紀要です。研究室所属の学生の卒業論文を活字化し、関係者へ研究室の活動を共有することを主な活動としているため、あまり出回らない紀要です。私は、この紀要の質がより高まり、同研究室の活動がより活発になればと思っているので、執筆しました。
さて、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈」は、明治期の道府県教育会が行っていた雑誌(機関誌)交換・寄贈に注目し、その交流関係(教育会共同体)の実態について検討することを目的としています。論文構成は以下の通り。
はじめに
1.明治20年代前半における教育会雑誌交換・寄贈の範囲とあり方
(1) 機関誌を有する道府県教育会
(2) 教育会雑誌の積極的な交換―大分県共立教育会の場合
(3) 教育会雑誌交換関係の範囲―信濃教育会の場合
(4) 教育会雑誌の交換・寄贈頻度―広島県私立教育会の場合
2.明治30年代以降における教育会雑誌の寄贈―佐賀県教育会・山口県教育会の場合
3.交換・寄贈された教育会雑誌の活用
(1) 機関誌交換・寄贈に対する教育会の意識―情報交換と関係形成
(2) 機関誌掲載の教育情報の転載
(3) 教育会と教育雑誌社との雑誌交換・寄贈―教育関係者への地方教育情報の間接的提供
(4) 教育会員・地域住民に対する他府県教育会雑誌の公開
おわりに
戦前期の小学校教員たちは、教育会雑誌の共同体的読書(回し読みなど)によって「地域社会の一員としての意識」を培ったと言われています(永嶺重敏 ※商業的教育雑誌も同様の役割を果たしているという)。つまり、教育会雑誌は教員の共同意識形成に関わるものであり、その流通実態は教員の共同体を認識しうる一視点ともなりうると考えられます。本稿では、教育会を介して形成される、教育会員(教員を含む)の共同意識や社会関係を「教育会共同体」と仮称しました。
教育会共同体は、明治期以降、全国・地区・都道府県・郡市・町村ごとに独自にネットワークを形成し、それぞれ複雑に絡みあって機能したと考えられます。教育会共同体の有り様は、まず、連合会議の開催や教育会の組織改革の過程から認識することができます。ただ、この点のみを強調すると、教育会共同体は、連合会議のような一過性の交流や、教育会の組織改革のような事件性のある交流のみによって形成・維持されていたように錯覚してしまうおそれがあります。教育会の間には、もっと連続的・日常的な交流はなかったのか。この問題意識にもとづき、雑誌交換・寄贈という連続的・日常的交流をとりあげて、教育会共同体の実態にせまってみよう、というのが本稿の趣旨です。
なお、梶山雅史氏の「教育情報回路」に特にまつわる問題としては、教育会雑誌の交換・寄贈を検討する際には、単に交換・寄贈の行為が重要だったのか、交換・寄贈される雑誌掲載の記事・情報が重要だったのか、といった問題にかかわると思っています。
対象時期は、主に、雑誌交換・寄贈の慣習が形成されはじめる明治20年代半ば(明治20年~25年)です。史料としては、全国網羅することはできませんでしたので、大分・長野・広島・佐賀・山口の5県教育会を事例として取り上げました。本文ではあまりはっきり述べませんでしたが、大分・長野については県教育会雑誌が活発であった県の事例として、広島は雑誌発行が途切れ途切れだった県の事例となっています。佐賀は明治20年代に形成された交換・寄贈慣習がどのように展開したかを示す事例として、山口は明治30年代に交換・寄贈慣習の形成が始まった特例として位置づいているように思います。
第3節では、具体的な雑誌活用事実の整理をしました。うえの5県以外の事例も用いています。
団体機関誌の交換・寄贈は今でもよくやりますが、その感覚でいくとすべての道府県教育会へ配られていたように思いがちです。また、明治24(1891)年に全国教育連合会(翌年全国連合教育会)が開催されたことを知ると、それを境に、全国的に画一均質な教育会共同体ができたような歴史イメージを持ちがちです。しかし、本稿での研究により、かなり教育会ごとに交換・寄贈関係に差があることがわかり、そのような歴史像は見直す必要があることがわかりました。ともかく、雑誌交換・寄贈関係から、連合会議だけでは認識できない、教育会間の豊かで多様な関係性や共同意識を見て取れました。
私のもっている教育会への興味は様々ですが、その最も重要なものの一つに、近代日本における教育社会(教員社会)の形成過程にかかわるものとしての興味があります。そのような興味をもつのは、日本における教員・教育関係者の専門性の特質にかかわる問題だと思うからです。日本において教員の専門性がいかなる「場」で形成されたか、この拙稿で直接考えることはできませんが、そんな問題にせまっていくための基礎研究として重要な論文を活字化できたと思っています。
ちなみに拙稿は、口頭発表業績13番の「明治期における教育会の情報交換」(全国地方教育史学会第29回大会、2006年5月発表)を大幅に改稿したものです。学会誌に投稿するには広すぎるテーマであるため、ずっとお蔵入りしていたのですが、ようやく活字化できました。6年もしまったままになっていたのは驚きです。
なかなか手に入らない紀要に載せましたが、必要な方は私(siraisi☆ns.cygnus.ac.jp ☆を@に変換して送って下さい)へ連絡をとってみてください。私のところにもまだ残部があります。
なお、拙稿以外の掲載論説は、田中沙弥「東京高等師範学校出身者による新教授法実践の広がり―『英語の研究と教授』の分析を通して」(2011年度卒業論文)、鈴木理恵「明治16年『広島教育協会雑誌』第6・7号」(史料翻刻)の2本です。