教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

戦後日本音楽史における杵屋正邦

2006年06月24日 20時08分01秒 | 純邦楽
 今日は結局午前1時半ごろに起きあがりました。登校中に少し眠くなってきたので、一度帰りました。で、カフェインを摂って寝ると短い時間の睡眠で眠気が吹っ飛ぶと聞いたことがあり、何度もうまくいっているので、コーラを飲んで一寝入り。15分ぐらいで再び起きました。眠気はだいぶ飛びました。
 それから、7月9日のコンサートの準備(リハや当日のタイム・スケジュール作成や、プログラム原稿の作成など)をしました。予定では3時間ぐらいでできあがる予定だったのですが、思った以上に時間がかかり、結局朝までかかってしまいました。まあ、とりあえず一段落したので良かったなぁ。
 9時すぎ、7月のコンサートで使う道具を借りに広島大学邦楽部(文化系サークル棟和室)へ。そのついでに総合科学部周辺の掲示板にコンサートのチラシ・ポスターを貼る。それから、運動へ。運動後、昼食を買って帰り、洗濯をしながら食す。13時半から三味線の練習のため、近所に住む相方のTさんのところへ。
  
 練習後、疲れたので少し自宅待機。自宅待機中、吉崎清富『杵屋正邦における邦楽の解体と再構築』(出版芸術社、2001年)を読む。この本は、大阪大学大学院文学研究科の学位論文で、杵屋正邦(きねやせいほう、1914~1996)という戦後の邦楽(日本音楽)作曲の巨匠の人物研究です。戦後日本音楽史における杵屋正邦の位置づけに成功しており、日本における音楽学の立派な研究であろうと思います。私はそちらの専門ではないので専門的な位置づけはできませんが、個人的には次の二つのことが興味をひきました。
 第一に、杵屋正邦は、伝統音楽の解体と再構築による「現代邦楽」を形成した人物であったことを、正邦の履歴や言説等によって実証したこと。なお、正邦が属する現代邦楽の流れとは別に、西洋音楽理論・技法を土台として現代邦楽を形成する流れがある。正邦も西洋音楽の理論・技法を応用したが、それは伝統音楽の解体と再構築によっては得られない部分を補うためであった。正邦の作曲活動には、あくまで伝統音楽が土台にあったのである。
 第二に、杵屋正邦の膨大な作品を整理し、作品一覧表を作成したこと。吉崎氏は正邦宅にて作品の整理を行い、全部で1,354点の作品の存在を明らかにした。その中には、初演されていない曲も多く、一般に知られていない多くの曲の存在を明らかにした功績は大きい。
 以上2件が個人的に興味をひいた点です。ただ、不満な点が一点。この本は、西洋音楽学者である吉崎氏(東京学芸大学)の手による学位論文がもとになっているので、作品の理論的分析が中心かと思いきや、杵屋正邦の履歴と20世紀の日本音楽をとりまいた直接・関節の社会状況とを重ね合わせて分析した歴史的研究が中心の本です。作品の理論的分析も本書の6分の1程度ありますが、杵屋正邦が一千曲以上もの作品を残したことを考えると、これだけの分析では物足りません。すべての曲を分析することはできないのは当たり前なので、吉崎氏がやったようにエポックメーキング的作品10点を選び出して事例研究を行ったのも仕方ないのですが、その分析の仕方が不満なのです。というのも、吉崎氏は、形式的な種類別(舞踊曲とか三絃曲とか)に機械的に分け、音楽技法の分析をするにとどまっています。せっかく正邦の履歴・思想・社会的役割等の分析をたくさんやったのだから、もっとそれらの結果と作品の傾向をリンクさせて分析してほしかったなぁ。そうでなければ、作曲家・杵屋正邦の本当の歴史的意義(本書に合わせれば音楽学的意義)はわからないんじゃないかと思うのですが。
 まあ、膨大な作品数があるわけですから、吉崎氏一人の仕事ではないでしょうし、その辺は今後の課題でしょう。その課題に取り組むとき、吉崎氏の仕事は貴重な先行研究となると思います。ただ、杵屋正邦の作品に触れる機会がもっと増えないと、課題は課題のままで終わってしまいそうで心配ですが。楽譜は出版されていないものがほとんどなので実際普及していないし、入手・閲覧手段も限られていますしね。どうにかならんのでしょうか。
  
 この本を買ったのは数年前で、杵屋正邦の作品にハマっていた時に買いました(ちなみに、私の作品は杵屋正邦に影響されている、と知り合いに批評されたこともあります。自分でも正邦の影響は大きいと思います)。この本を買ったときは、単なるオタク的な興味関心しかなくて、上記の第二点の作品一覧表にしか興味がありませんでした。ですが、今はむしろ、歴史的な興味や学問的興味が先行して、第一点に非常に強く興味がひかれました。どうやら長々と述べた不満点は、従来の作品そのものに対する興味と、歴史的興味が合わさって現れたもののようです。自分のことながら、時と経験と現状によって視点がはっきり変化し、そのために新しい興味が湧いたというところにおもしろさを感じます(笑)。
  
 とまあ、このブログの大半の読者が興味のないであろうことを、つらつらと書いてしまいました(笑)。吉崎著を読んだ後、再登校。辻哲夫『日本の科学思想』の続きを読む。
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現代邦楽の作曲スタンス

2006年01月15日 23時55分55秒 | 純邦楽
 とりあえず、notejapanのコンサート、終わりました~。トークもなかなか面白い展開になり(私たち出演者にとって、かもしれませんが(笑))、よかったー(^_^;)。終電にも乗れたし(笑)、これで一段落です。
 写真は、コンサート会場の広島市東区民文化センター・スタジオ1の客席です。昨日の休憩中に撮りました。Iプロデューサーが奥の方に座っていた写真もあったのですが、肖像権に配慮して客席だけを(笑)。Iプロデューサーが気になる方はNOTEJAPANのHPで探してください(笑)。
 前日、終電に乗り遅れてカプセルホテルに泊まりました。一時間ぐらい寝たかもしれませんが、人の出入りが多すぎて、ほとんど眠れませんでした。しかし、今日はトークセッションに出席するためにスーツに着替えてこなくてはならないので、早朝5時すぎぐらいにホテルをチェックアウト。路面電車もまだ動いていなかったので、歩いて広島駅へ。6時すぎの電車に乗って西条駅(東広島)に戻りました。朝食をとって、家に帰ってシャワーを浴びて、一時間ぐらい仮眠。寝過ぎるといけないので、寝る前にコーヒーを飲んで寝ました。コーヒーを寝る前に飲むと一時間ぐらいでパチッと目が覚めるといいますが、これホントに効きました。
 少し遅れて会場入り。今日は15時ごろからトークがあり、その後(開始時間忘れた)コンサートがありました。私は、トークは出演者として、コンサートはお手伝いとして参加。トークはコンサート会場の向かい側にあるスタジオ2。出演者は、私を除いて若手作曲家3名・プロ三味線演奏者1名、評論家2名でした。私は教育研究者とか広島大学邦楽部とかアマ作曲家とか、何だかよくわからない立場で参加しました。
 トーク、学会で発表するよりも緊張しました(笑)。勉強はしていきましたけど、邦楽の知識はやっぱり付け焼き刃ですからね(苦笑)。でも、他の出演者には学者肌の方がいなかったので、予想以上にうまい具合に役割は果たせたような気がします。トークの内容では、作曲家Kさんが芸術としての現代邦楽を主張し、そんな現代邦楽は一般人にとって面白くないと主張した評論家のIMさんと、激しい対決がありました。私は、その間に立って(どちらかといえばIMさんより)、小難しい説明をはさんでいました(笑)。予想をはるかに裏切って、結果的にそうとうマニア向けなトークになっていました。司会進行のIさんは、相当困っていたのではないかと…
 トーク全体の論点は、現代邦楽は一部うけする芸術表現か、大衆うけする娯楽表現か、といったところでしょうか。もともとの論題「三味線音楽の現在、、、未来」から考えると、ちょっと抽象的に流れた感がありますね。あらかた論争が済んだ後、司会進行のIさんが気を利かせて、演奏家のNさんに三味線を始めたきっかけとか音楽大学における邦楽教育の実態などを聴いていました。
 時間が経ってしまって自分が話した内容は、あんまり覚えていないのですが(笑)、いくつか覚えている論点をば。

 1,日本音楽の各分野は、かつてそれぞれ様々な身分社会に支えられていたけど、これからはその意味での分野の枠を守っていく必要はない。歴史的に高度な音楽表現を追求してきた箏曲・三曲を基礎とする現代邦楽において、より高い芸術表現を求めるのはわかるが、それが日本人の生活を離れては音楽としての意味がないですよ、といった趣旨のこと。
 2,作曲家さんに対して。作曲は自分の高度な芸術表現だと居直らず、より多くの人々に邦楽を聴きたいと思わせるような作曲をしてください、というような趣旨のこと。
 3,日本音楽の学問研究と作曲の連結。(これは、私も専門家ではないので中途半端な議論になってしました。でも、しゃべって、ちょっと興味がわいてきたかな)

 前日の終電事件にひっぱられて会場入りが遅れ、トークに必死だったせいか、コンサートの打ち合わせが不十分になってしまって、ちょっとドタバタしてしまいました。うーん、打ち合わせって面倒ですし、手伝いにリハーサルはいらないような気がしていましたが、そうはいきません。打ち合わせは、やっぱり大事ですね。
 関係者の方々、二日間お疲れさまでした!
 一番疲れていたのは、コンサートの全曲目およびトークにすべて出演した、メインの演奏者のNさんでした。お疲れさまでしたー
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日本音楽の展開

2006年01月13日 23時19分30秒 | 純邦楽
 先の記事にも書きましたが、今日は早起き成功。朝食を食べて、明後日の準備をするために即図書館へ。研究室にいると、なんやかんやとやらなくてはならないことが出てくるし、邪魔されると困るので、図書館で準備に集中したかったのです。必要なものを取りに研究室に寄ったら、修士論文をかかえた後輩が徹夜ごしで研究室にいたらしく、椅子を並べて寝てました。こいつもがんばってんね。
 今日は、読書勉強かつ研究室事務。佐藤先生退官記念事業の案内を印刷したり、郵送したり。読書は、小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読み切り。従来の続きで、第二部「日本の音-伝統音楽への入門」の「琵琶楽」「能・狂言」「尺八とその音楽」「箏曲と三曲合奏」「三味線音楽」「大衆の邦楽」「現代邦楽」と、第三部「日本音楽の基礎理論」の「音素材」「音組織」「リズムと楽式」を読みました。

 日本音楽の特徴は、音の高さや大きさを出すことには特には見いだせません。その特徴は、高さを加減したり、強さの表情をつけたり、拍に伸縮をつけたりすることに見られ、特に語りものの音楽の中に特に強く見られるといいます。三味線という楽器は、声や歌の文句を邪魔せず、メロディーを奏でると同時にかつリズムを刻む楽器で、歌や踊りの伴奏に非常に適した楽器です。三味線音楽は、日本人の生活のあらゆる面に密着していた音楽であり、最も庶民的なものが芸術的に結晶しているといいます。三味線音楽は、劇場(歌舞伎・義太夫)で、お座敷(長唄・浄瑠璃・端唄・小唄・都々逸)で、家庭(長唄・小唄など)で、農村(民謡・津軽三味線)で、さまざまな音楽的広がりを見せ、聴かれた場所やそれと結びついた芸事によって音楽の性格がいろいろに変わっています。盲人社会(京都に拠点があった)の音楽的表情を表した上方の地唄、華やかな江戸好みの長唄、といったように。
 地唄は箏曲と密接な結びつきをもって発展していきました。箏曲の日本における発展は、二つの流れがあります。一つは、それなりの家庭の女子の教養としての流れ。もう一つは、盲人社会の独占職能としての地唄・箏曲の流れ。また、十六世紀に三味線の名手でもあった『六段』の作曲家・八橋検校によって、三味線音楽とも合流しました。箏曲は、盲人社会において、純音楽的・理論的構成美を備えた独特な音楽に発達していきました。その純音楽的な興味は、明治以後においても洋楽の影響や社会的・文化的変化に直面しても、力強く生き残っていくカギになったといいます。
 箏・三絃・尺八(胡弓)による三曲は、西洋の音楽理論からすると一見無駄である奏法、すなわちほとんど同じような旋律を合奏します。その理由は、三曲が、女子の教養や盲人社会を背景として、家庭的・室内楽的性格と内的な音楽追求の性格を有しており、人に聴かせる音楽というよりも、演奏者自身が異なった楽器で同じような旋律を合わせる喜びを表すための音楽であるためとしています。
 箏曲は、明治以降、西洋の音楽理論を積極的に取り入れて西洋化が進みました。そのため、西洋的な要素の強い現代邦楽においても、箏という楽器は目立っています。一方、一番日本的な音楽を奏でる楽器であるとされる三味線(日本の楽器になったのは遅くて十六世紀なのですが)は、民衆に深く結びついていただけに、伝統的なものと強力に結びついている楽器で、西洋音楽的な感覚・美意識などを表すことは非常に困難であるといいます。しかし、だからこそ、伝統的な要素が性格に活かすことができ、日本音楽を現代的(西洋的ではなく現代的)に発展させた音楽が生まれる可能性がある、と評価されています。
 そこで、三味線音楽の美しさを純粋な形で保存しなければならない、と来ます。高度な芸術性を保つには、流派や家元制度といった芸術の維持制度が非常に適しています。しかし、これらの制度は、先日まで見てきた学問の制度化における大学と似たような機能をもっており、その音楽の担い手を固定化し、音楽の発展を阻害する機能も有します。ともかく、日本音楽の特徴を自分で体験し、より深く楽しみ、理解しようとする姿勢が一般的になってくると、これらの制度は向きません。そのような音楽姿勢に合致するのは、大衆邦楽(端唄・うた沢・小唄・明清楽など、もしかしたら今の演歌やJ-popもそうだったりして)が向いています。この閉鎖性が、ひいては現代邦楽(現代日本音楽)の問題点にもつながってきます。
 現代邦楽をめぐる問題は、上記の問題に加えて、明治以降の西洋音楽の流入がさらに問題を複雑にしています。小泉氏が述べる現代邦楽の問題点は、整理されて次の五点。 
 第一は、【学問研究の不足】。傑作は生まれても、日本のよさも、西洋のよさも、どちらも持ち合わせない作品が生み出されていく問題。つまり、日本音楽の特徴や美しさの根源はどこにあるのか、哲学・歴史・近代科学的な学問的追究が足りない。
 第二は、【作品の不足】。西洋音楽に造詣の深い作曲家が邦楽の作曲を手がけることが多くなったのはいいが、「洋楽畑」と「邦楽畑」という作曲家の二分化がおこってしまった。また、邦楽内部の細分化状態もそのままで、音楽の領域が細かすぎる。作曲家は、学問研究の基礎を作品に反映させる努力と、邦楽内部の分裂状態を乗り越えて幅広い表現技術を身に付ける努力をしないといけない。いわば、作曲家は学者であり、演奏家でなくてはならない、といったところか。
 第三は、【民衆の支持不足】。現代邦楽の作品発表の機会は、はたして社会的要求を受けたものだろうかという問題の投げかけ。ここは一番説明が足りないと思う箇所だが、団伊玖磨氏との対談集『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で言っていたような、演奏会チケットを売りさばくために身内で売り買いしている状態などをいうのだろうか? 
 第四は、【現代邦楽の閉鎖性】。現代邦楽は、聴衆も含めた閉ざされた集団の中で、巧緻な作品を賞翫する雰囲気に支えられた状態にある。浅く広く音楽知識・経験を得ることで、それぞれのジャンルが持っていた独自の美しさを失わないように、一般大衆から高度に洗練された芸術家の美意識まで応えうる、広い音楽を目指すべきだという。現代邦楽の大衆化(マス化)を目指せ、といったところだろうか。
 第五は、【過去と現代の根本的違い】。過去の日本音楽は、それぞれの分野でそれぞれの身分・階級が支えた。雅楽は貴族社会で、能楽は武士社会で、箏曲や琵琶は盲人社会で、三味線音楽は下層の町人社会が… しかし、現代に至って、それらを守り育てていく必要はない。現代では、一人の人間が個人としてありとあらゆる種類の音楽を同時に享受し、生み出していく社会的要求に音楽は支えられている。

 日本人は、西洋音楽と比べて、日本音楽は特殊で未発達な音楽だと思いがちです。でも、西洋音楽すなわち近代ヨーロッパで発達した音楽理論に則った音楽もまた、ヨーロッパという特殊な地域で、近代という特殊な時代に構築されていった音楽です。小泉氏は、国際に通用する普遍的音楽であるとする西洋音楽の「信仰」とでもいうべきものを打ち壊し、伝統的な日本音楽を研究する意義を見いだした学者でした。今回読んだ『日本の音』のような著作も多いですが、『日本伝統音楽の研究1-民謡研究の方法と音階の基本構造』(音楽之友社、1964年・初版1958年)のような理論的研究や、世界中を飛び回って行った民族音楽の調査など、非常に優れた学問研究も進めました。『日本伝統音楽の研究』などは、全4巻を予定し、「日本のリズム」「旋律法」「楽器」の研究を進める予定だったようです。しかし、結局、『日本伝統音楽の研究2-リズム』(音楽之友社、1984年)が、1983年の著者死去後に親しく教えを受けたものたちによって出版されました。56歳という学者としては早すぎる死は惜しむべきでしょう。
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1970年代の音楽教育の問題点

2005年12月11日 21時15分41秒 | 純邦楽
 今日は、鼻づまりがひどく、昼過ぎまで寝た上に寝覚めの悪い日でした。無呼吸治療の機械は鼻から空気を送るので、鼻がつまると治療もうまくいかないのです。どうも寝ていると寝返りで布団がずれるようで、軽い風邪をひいてしまいます。さらに、息苦しいからさらに寝返りを打つのでタチが悪いし。
 寒い日がニクい(笑)
 昼過ぎに昼食を買って登校。今日は何となく自分の専門の勉強をするのが嫌で、自分の知識というか教養というか、そういったものを高めようと思いました。昨日の延長として、今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読みました。これは、当時、東京芸術大学で教育と研究に従事していた小泉文夫氏(1927~1983)が、「これからの社会に私たちの伝統音楽がどう活き続けていくか」を問題意識として、現代と過去、日本とアジア・ヨーロッパ、音楽と他の芸術・文化などの軸によって日本音楽を比較分析した論文集です。

 今日はその中の3論文、「世界のなかの日本音楽」「日本音楽の今日と明日」「日本文化のなかの伝統音楽」を読みました。「世界のなかの日本音楽」では、従来言われてきた日本音楽の特殊性をアジア音楽を含めた国際的比較によって批判し、むしろヨーロッパ音楽の方が特殊だとしています。「日本音楽の今日と明日」では、日本音楽の国際化(外国人の中から優秀な研究者や演奏家が出てきたこと)、若い世代の伝統音楽離れ、が論じられました。「日本文化のなかの伝統音楽」は、建築・文学・演劇と音楽の相違点と共通点を浮かび上がらせた論文です。
 小泉論文中の興味深かった部分を取り出してみます。「日本音楽の今日と明日」の中で、若い世代が伝統音楽から離れる理由が論じられています。その理由は、「新しい芸術の価値体系を求めて」離れたのではない、「自国の伝統からシャット・アウトされた状況の中で、外国の価値体系を求めざるを得なかったためである」としています。そのような状況に陥った理由として、小泉氏は特に日本音楽に対する無知を形成した従来の教育の問題だとしました。
 「日本文化のなかの伝統音楽」では、音楽も歴史的にそれ自体で自律的な体系を持つのではなく、日本人の芸術的表現のあらゆる側面と極めて密接に結びついたものであるとしました。伝統的な建築・文学・演劇は、いずれもある一定の「型」を組み合わせて作り上げられ、音楽もまたそうであったといいます。しかし、音楽は、建築とは違って実生活との結びつきが弱く、実用性に欠けているため、伝統的要素は簡単に破棄され、文学・演劇とは違って日本語という言語や学期・音階・リズムを放棄し、西洋音楽の「型」や「素材」に転換してしまったとしました。そのため、「ひとり音楽だけが伝統とまったく切り離された形で教育の場で取り扱われ、いきなり何の社会的・身体的・言語的裏づけもないまま、西洋音楽の成果としての体系が日本の子ども達に押しつけられた」として、やはり音楽教育の問題として問題提起がなされています。
 小泉氏の論文の中には、無自覚に日本人が西洋音楽(欧米)を追い求める姿勢を問い直すこと、という問題意識が深く根付いていると思います。たびたびあらわれる、日本の音楽教育における西洋音楽教育の偏重に対する批判は、その証左ではないでしょうか。小泉氏は、『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で、次のように言っています。ちょっと長いですが、小泉氏の問題意識がよくわかるので引用します。

 「ある民族の音楽文化は音楽だけでなりたっているものではなく、言葉だとか、身体的運動だとか、さらには自然環境、歴史的風土、社会的慣習など、要するに、その民族の文化全体と密接な関係のなかでそだってきているはずなのに、そういうことをほとんど考慮せずに、明治以来西洋音楽を基本とする音楽教育が、国家的な規模で行われてきました。
 音楽だけ純粋に取り出して、西洋音楽を基本とした教育体系を作り、国家的な規模で熱心に行っているというのは、どう考えてもわれわれの常識を越えていて、黙ってはいられない問題です。
 こういう大胆な実験を行っている民族は、私の知る範囲では、世界に日本人だけです。まともな音楽教育を受けた日本人は、インテリであればあるほど自分たちの国の音楽について無知であり、また無関心です。欧米の音楽については大きな関心と愛着をもっているのに、自分の国の文化になると、とたんに背を向ける。これがかりに、自分の国の文化がよくわかっていて、しかも、その文化のもついろいろな歴史的弊害を克服していこうというばあいには、外国の音楽を調べることは非常に大切かもしれません。ところが自国の文化に対する基礎的な知識すらもたないで、無関心でいたり、それを否定するというのは、特異な現象です。こういう状況を作りだした音楽教育について、われわれの発言を促す理由はたくさんあります。」(『日本音楽の再発見』、8~9頁より)

 小泉氏がこの論文を書いた1960年代~70年代における日本音楽の状況と、現代における状況とでは違います。現代では、学習指導要領への日本音楽の導入や、音楽科教員養成課程における邦楽実習の導入などが進んできています。しかし、それらは何か付け足しのようになってはいないでしょうか。小泉氏のいう日本の音楽教育の問題は、まだ十分に解決されていないような気がします。小泉氏も問題提起してますが、教員養成の見直し、教材の開発、カリキュラムの見直しなどによって、「日本の音楽教育」を再構築する必要性があると思います。そのためにも、戦前戦後を通した、音楽教育の歴史(カリキュラム、教員養成、実践など)を研究し、小泉氏の把握した問題の実証が必要な気がします。
 結局印象論ですみません…
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