[注釈]
* L’essentiel (…) n’est pas entame’ par l’abandon ou la re’futation... : entamer には、第一義的には enlever en coupant une partie、そこから転じて、物事を損なうという意味で使われることがあります。 ex. Rien ne peut entamer sa re’putation. フロイトの業績は民俗誌学的には批判できるだろうけれども、…という流れをしっかりなぞって下さい。
* Freud … ne pouvait faire ce retournement ironique. : ce retournement とありますから、前文の内容を当然受けています。つまり、トーテミスムは、その真実性によって民俗誌学者によって受けいられたわけではなく、彼らのエディプス・コンプレックスに訴えるところがあったのではないか、といった「皮肉な」見方のことです。なお retourner には批評などを「投げ返す」という意味もあります。
* Mais est-il lui-me^me explicable ? : これも、Il se contente de constater le caracte`re universel de l’OEdipe... という文脈からすると、il は le caracte`re universel de l’OEdipeのことです。
[試訳]
いずれにしてもフロイトの仕事が、彼が依拠していた科学的な真実よりも遠くまで及ぶことは初めてではない。今日の民俗誌学は、フロイトが支えとした民俗誌学を批判することは出来るであろう。けれども、言ってみればそれは民俗誌学内部の問題である。ことの本質、つまりエディプスの禁止とそれにともなう幻想世界の問題は、トーテミスムを捨象しても、反駁しても、損なわれることはない。
トーテムと関連づけられる二つの禁止(トーテムを殺してはならない。同一のトーテムに属するパートナーと性的な関係を結んではならない)は、エディプスの禁止に対応している。おそらくは、民俗誌学者たち自身のエディプス・コンプレックスのゆえに、彼らに対してトーテミスムがこんなにも成功を収めたのであろう。フロイト自身は、このような皮肉な見方はしなかっただろうけれども。フロイトは、あらゆる習俗を説明できる、エディプスが持つ普遍的な性格を確認しただけであった。しかし、エディプスの普遍的性格それ自体は説明可能なのだろうか。
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Le Cle'zio については、ぼくも授業で彼への受賞後のインタヴューを学生に見せたり,邦訳を紹介したりしました。彼はまだ68歳だったのですね。八十をとうに超えた、老大家然とした姿を漠然と想像していたものですから、『調書』をひっさげて颯爽と文壇にデビューを果たした頃とさして変わらない、依然として若々しい姿に驚きました。
『フロイト』が一段落したら,彼にまつわる文章を読むことにしましょうか。
それでは、次回は、p.147 au lieu d'agir. までとしましょう。
* L’essentiel (…) n’est pas entame’ par l’abandon ou la re’futation... : entamer には、第一義的には enlever en coupant une partie、そこから転じて、物事を損なうという意味で使われることがあります。 ex. Rien ne peut entamer sa re’putation. フロイトの業績は民俗誌学的には批判できるだろうけれども、…という流れをしっかりなぞって下さい。
* Freud … ne pouvait faire ce retournement ironique. : ce retournement とありますから、前文の内容を当然受けています。つまり、トーテミスムは、その真実性によって民俗誌学者によって受けいられたわけではなく、彼らのエディプス・コンプレックスに訴えるところがあったのではないか、といった「皮肉な」見方のことです。なお retourner には批評などを「投げ返す」という意味もあります。
* Mais est-il lui-me^me explicable ? : これも、Il se contente de constater le caracte`re universel de l’OEdipe... という文脈からすると、il は le caracte`re universel de l’OEdipeのことです。
[試訳]
いずれにしてもフロイトの仕事が、彼が依拠していた科学的な真実よりも遠くまで及ぶことは初めてではない。今日の民俗誌学は、フロイトが支えとした民俗誌学を批判することは出来るであろう。けれども、言ってみればそれは民俗誌学内部の問題である。ことの本質、つまりエディプスの禁止とそれにともなう幻想世界の問題は、トーテミスムを捨象しても、反駁しても、損なわれることはない。
トーテムと関連づけられる二つの禁止(トーテムを殺してはならない。同一のトーテムに属するパートナーと性的な関係を結んではならない)は、エディプスの禁止に対応している。おそらくは、民俗誌学者たち自身のエディプス・コンプレックスのゆえに、彼らに対してトーテミスムがこんなにも成功を収めたのであろう。フロイト自身は、このような皮肉な見方はしなかっただろうけれども。フロイトは、あらゆる習俗を説明できる、エディプスが持つ普遍的な性格を確認しただけであった。しかし、エディプスの普遍的性格それ自体は説明可能なのだろうか。
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Le Cle'zio については、ぼくも授業で彼への受賞後のインタヴューを学生に見せたり,邦訳を紹介したりしました。彼はまだ68歳だったのですね。八十をとうに超えた、老大家然とした姿を漠然と想像していたものですから、『調書』をひっさげて颯爽と文壇にデビューを果たした頃とさして変わらない、依然として若々しい姿に驚きました。
『フロイト』が一段落したら,彼にまつわる文章を読むことにしましょうか。
それでは、次回は、p.147 au lieu d'agir. までとしましょう。