[注釈]
*un travail exigeant, une lutte que je tente de cerner... : Moze さんも躓いたという箇所ですが、まず生きることをいわば「転写」する作業があり、その作業の困難さも、テキストにおいて明らかにし理解すること。そんなことを語っているのだと考えられます。
[試訳]
生きることそれ自体は何も語ってくれない。何も書き記してくれない。生は言葉を持たず、とらえどころもない。そのありのままの姿に寄り添いながら、尾鰭をつけず、歪曲もせず、生きることを書き記すとは、それをある形式に、文章に、言葉において書き留めること。それは、困難な作業に、戦いに、年を追うごとに身を投げること。そんな仕事に打ち込みながら、その作業をテキストそのものにおいて明確にしよう、理解しようとも務めている。以下の言葉は、若い時から私を支えてくれたプルーストの言葉だ。「悲しみとは、暗鬱な、嫌われものの僕(しもべ)で、人は彼らに辛くあたるが、それでもますますその支配にひれ伏してしまう。恐るべき、それでも交替の効かない輩で、地下に埋もれた道を使って、私たちを真実へ、死へと導いてゆく。」気がついてみると私は次第に、「悲しみ」のかわりに「書くこと」を使うようになっている。あるいは「悲しみ」とともに。
ここに収録した作品の並びは、書かれた順番でも、発表された順でもない。それは子供時代から成熟へと至る生の流れに沿っている。最初に『空っぽの戸棚』があり、最後に『歳月』が来るのは時の流れのままであり、二作品の間も年齢を刻む構成になっている。そうすると創作の変遷を乱し、ほんとうは様々な時期に書いたテキストを不自然にまとめあげることになるのだが、そうしてみるとかえって、形式が多様であること、それぞれの声や文体がまたそれぞれの視点に対応したものであることなどが、人生の様々な時期を何度も反芻するうちに、よりはっきりとしてくる。
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いかがだったでしょうか。先日ノーペル文学賞を受賞した Patrick Modiano について以下のような記事が出ていました。
http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20141029org00m040004000c.html
misayoさんはモディアーノの愛読者でもあったのですね。misayoさんのようにフランス語で書かれた小説を読む層は、上記の記事にもあるように、ほんとうに寂れてしまいました。これは道具としての英語学習に人々が駆り立てられていることと密接に関係がありそうです。globalisation という言葉に煽られる前に、外国語を学ぶことの広がりと深さを一人でも多くの人に思い出して欲しいものです。そう言う意味でも、『さよならオレンジ』おもしろそうですね。
それでは、次回はp.9 trente-quatre ans. までを読むこととしましょう。
Bonne lecture ! Shuhei