フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Annie Ernaux:Ecrire la vie (1)

2014年10月15日 | Weblog

[注釈]
 *une me^me couverture : 単数不定冠詞がついていますから、「同一の一冊」
 *regarder ses travaux derrie`re lui : 自分の背後に業績を見つめる、ということですから、今までの自分の仕事ぶりを振り返ることです。
 * traverse'e par les autres voix : 「わたし」というものが、ひとつの固定された同一性に収まるものではなく、多くの他者を含み持つものでもあることを表現しています。
 * il m'a e'te' donne' de connaitre : il は非人称主語です。ex. Il n'est pas donne' a` tout le monde d'avoir une maison de compagne. 「別荘を持つことは誰にでもできることではない」
 
 [試訳]
 アニー・エルノ『生きることを記す』

  書くという行為は、現在であり、未来であって、過去ではない。一冊の本にまとまった形で自分のいくつもの作品を眺めてみると、なんだか信じられない、現実のことではないような気がした。自分の主な仕事を振り返って見る者にかなり共通したこうした反応を越えて、私はこう問わずにはいられなかった。この千にも及ぶページは一体なにを意味しているのか。四十年にもわたる、この書くという企てをいかに定義したらいいのか。そしてこれは求められたことがだ、この企てを言い表すのにどんなタイトルが相応しいのか、と。突然、明白たる事実のように、私に降りてきたのは、『生きることを記す』だった。私の人生を、でも、誰か特定の人物のものでもなく、ある人生でもない。生きること。それは誰にとってもその内実は同じであっても、ひとり一人違った仕方で感受されるものだ。それは身体、教育、帰属や性的条件、社会的な来歴、他者の存在、病、喪の経験などによって、様々に経験されるものであろう。そうしたものを越えて、時間と大文字の歴史(物語)が、変化を絶えまなく促し、壊し、再び更新するままの生のあり方。私は自分のことを書こうとか、自分の人生を作品にしようなどとしたことは一度もない。ただこの人生を、人生を横切った、多くは人並みの出来事を、私にそれを知るべく与えられた様々な状況や感情を、用いただけだ。あたかもそれらを究明すべき物質のようにして利用し、感受されるべき次元の真実を捉え、明るみに出そうと務めてきた。自分についてと同時に、自分の外で、いつも私は書いてきた。書物から書物をめぐる「わたし」に、固定したアイデンティティーを宛てがうことはできない。その声には、他者たちの声が、私たちに棲みついている縁者の声、社会を通してつながっている者たちの声も、響き渡っているのだから。
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 misayoさん、Akokoさん、mozeさん、今回も訳文ありがとうございました。
 テキストに用いたのは、著名作家の主要作品を集めた Gallimard社の Quarto 叢書の一冊にAnnie Ernaux自身が寄せた序文でした。そのタイトルが Ecrire la vie です。Marcel Proust のものは A la recherche du temps perdu 一作品のみが収録されています。もちろん、Patrick Modiano の巻もあります。またいずれ彼の文章も読んでみましょう。
 それでは、次回はp.8 des moments de la vie. までを読むことにしましょう。10月29日(水)に試訳をお目にかけます。
 Bonne lecture, mes amis !   Shuhei



2 コメント

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Lecon303 (Moze)
2014-10-28 23:28:14
冬の足音が近くなりました。太宰治賞を受賞し、高い評価を受けている岩城けい著『さよなら、オレンジ』を読んでいます。いまだつたないフランス語しかできない自分を重ねてとても共感できる一冊でお薦めです。
une lutte の後のque がつかめませんでした。
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しかし人生は何も書き取らせはしない。人生は自然に綴らせたりはしない。人生は無言であり、とりとめもない。人生をでっちあげたり、美化したりせずに、なるべく現実に近いままに書くこと、それは一つの形式のうちに文章や言葉によって書き留めることである。人生を書くこと、それは―年が経つにつれていっそう―厳しい仕事、闘いの中に身を投じることであって、没頭するにつれて、テキストそのものの中で、書くという仕事を明確にしたり理解しようと試みるのだ。私は者心ついて以来連れ添うプルーストのこのフレーズよって、だんだん悲しみの代わりに、あるいは悲しみとともに書くという行為を位置付けている。「悲しみは闇の疎まれた僕、人はそれと闘い、徐々にその支配下に落ちる。悲しみは酷い僕、差し替えられることなく、地下の道によって、私たちを真実へと、そして死へと導く」
ここで選ばれたテキストの順序は、書かれた順でも出版された順でもなく、幼年期から壮年期にわたる人生の時間の順である。最初の作品『空の箪笥』と最近の作品『年月』に関して、二つの間で順序が重なるのは、テキストを構成する年齢が続いているからだ。この強い思いは、作品の進展をひっくり返したり、非常に離れた時期に書かれたテキストを近づけたりしながらも、形式の多様性、声の主の差、そして様々な視点に応じたスタイルを、人生の瞬間の繰り返しによって、十分に認識できるものにしている。
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Annie Ernaux 2 (misayo)
2014-10-21 10:59:44
 こんにちは、みさよです。私も一時モディアノ中毒にかかったことがあります。ただちょっと暗いので、ル・クレジオの風と海と光のあふれた後期作品の方が好みと言えます。今回の訳はとても難しかったです。プルーストの箇所はserviteurs をどう捉えたら良いのでしょう。

 しかし人生は何も口述しない。人生はそれ自身によって書かれることはない。人生は沈黙し形をなさない。せいぜい現実のそばにつながりながら、でっち上げもせず、美化することもなく人生を書くことが、人生を形式のうちに、また文章に、言葉に書き留める事なのだ。私がテキストそれ自身の中に、自分を打ち明けるにつれてはっきりとさせ、理解しようとすることは、歳月が経てば経つほど厳しくなる仕事、ひとつの戦いに関わることなのだ。若いときから私に付き添ってきたプルーストの言葉に「悲しみは、人々が戦いを挑む訳の分からない嫌われ者の奉仕者なのだ。人々はますます耐えがたく、取替え不能な奉仕者に出会い、地下道を通って、私たちを真実にまた死へと導く奉仕者の支配下にいる。」その言葉の中に、私は「悲しみ」の代わりに、「書く行為」を置いてきたとしだいに気づくようになってきた。もしくは共にあったと言うべきか。
 ここで選ばれたテキストの順番は、書かれた順番でも、刊行順でもない。子供時代と大人の間の人生の時間の順番なのだ。たとえその順番が偶然にも、最初が「空の箪笥」で、最後に「歳月」を取り上げたにしても、この二つの間でテキストを編成しているのは、年代の連なりなのだ。このかたよりが、文体の変化を狂わせ、とても隔たった時代に書かれたテキストを近づけながら、人生の度重なる繰り返しのうちに、形式の多様性や、話し手の違い、見方に対応した文体の違いをさらに認識しやすくしている。
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