フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Nicolas Grimaldi : Le bonheur

2015年01月22日 | Weblog

[注釈]
 misayoさん、ウィルさん、Akikoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。これくらいのテキストが大きな間違いなく読めたら、それは、フランス語の論理がしっかり辿れているということです。何も付け加えることはないのですが、ひとつだけ。
* Ne dit-on pas en effet… : ここれは否定疑問文ですから、意味としては、「幸福」と「幸運」を結びつけている具体例として上げられています。「…と言うことはありませんか?」そんな感じです。

[試訳]
 ひとり一人にとってそれ以上に大切なものはないのに、これほど謎に満ちたものもない。幸せになりたくない人など一人としていないのに、幸せとはどういうものなのか誰もよく知りもしない。だからこそ、このたったひとつの問題を考えることが、ながらく哲学の存在理由となったのです。たぶん幸福というこの概念の主要な難しさのひとつは、歓びの観念と、幸運(好機)の観念を、つまるところ、偶然の観念を結びつけとしまったところにあるのでしよう。実際、宝くじやカジノでひと儲けした人のことを、あの人は勝負運があった(ケームにおいて恵まれていた heureux)と言わないでしょうか。ついている人だと。それでも、当たり前のことですが、勝負運があっても恋において不幸なひとは、本当には幸せでない。そうすると、二種類のかなり異なった幸福があることになります。ひとつは運に依存し、まったく外的な何かを手に入れることであり、他方は、完全な、内的な充足と重なるため、何らかの外的な原因とはまったく独立して、それを求めることが出来るのです。前者は成功にかかわる幸福であり、後者は要するに完全に満ち足りた感情であるため、ただそれを味わうだけでそれ以上何も求めることはないのです。
………………………………………………………………………………………………….
 PCのトラブルなどもあり、結局一日遅れとなってしまいました。申し訳ありません。
 Mozeさんに指摘してもらった通り、すこしは新年らしいものをと思いこのテキストを選んだのでしたが、年が明けて一週間してフランスの地が惨劇に見舞われ、みなさんもご存知の通り、世界中の衆目を集めることとなりました。あれから二週間。フランスでの暮らしが長い飛幡さんの以下のレポートが、今回の事件の背景・経緯などに詳しく触れられています。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0119pari
 そして、この教室でもこの問題を次回扱うことにします。哲学者のEtienne Balibar がLiberation に寄稿した論考を読みましょう。今回の事件に強い衝撃を受け、フランスを案じる便りをすぐに送ってくれたという加藤晴久先生の手紙の引用から始まる文章です。
http://www.liberation.fr/debats/2015/01/09/trois-mots-pour-les-morts-et-pour-les-vivants_1177315#zen
 長い物なので、バリバールが論じた三つのキーワードのうち、最後の言葉 Jihadをめぐる段落のみを訳してみて下さい。
 その部分の試訳は2月4日(水)にお目にかけることにします。

 近畿・東海地方は比較的暖かな「大寒」でしたが、寒さはまだまだこれからですね。みなさんどうかお身体には気をつけて下さい。
    Bonne lecture ! Shuhei


3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Etienne Balibar (misayo)
2015-01-27 11:16:21

 こんにちは、みさよです。フランスでのテロに続いて、日本人がイスラム国に拘束、殺害されるというニュースに暗澹とした気持ちになりますね。今回の筆者の主張に賛同しますが、前途は長くつらいように思えて悲しくなります。

 ジハード。終わりにあったて、恐怖を呼び覚ますこの言葉を発するのはわざとなのです。なぜなら今やこの言葉のあらゆる含意を検討する時だからです。私はこの事についてある考えの最初の部分しか持っていません。しかし私はそれを述べてみます。どんなにイスラム教徒という名称が不明確なものだとしても、私たちの運命はイスラム教徒の手の内にあるのです。なぜかと言えば、もちろんこの混合体に注意を促したり、コーランや言い伝えの中に殺人への呼び掛けが読み取れると言い張るイスラム嫌いを阻止することも間違っていません。しかしそれだけでは不十分です。ジハード戦士たちによるイスラム教の悪用について、忘れてならないことがあります。世界中のあらゆる所で、またヨーロッパでも、イスラム教徒こそが主要な犠牲者なのです。イスラム教の悪用に対しては、神学上の、つまり最終的には宗教上の共通認識の改革しか答えることができないのではないでしょうか。そのことで信者の目に、ジハードは真実に反していると分からせるでしょう。もしそうでなければ、私たちは皆、危機的状況にあって、社会の中で屈辱や侮辱を受けたあらゆる人をひきつける可能性のあるテロリスムや、治安偏重で自由のない、ますます軍事化する国家に利用された政治の耐え難い万力に締め付けられるでしょう。ここにイスラム教徒の責任があるのです。。むしろ彼らに課せられた使命というべきでしょう。しかしそれはまた私たちのものでもあるのです。なぜなら私が言う「私たち」というのは、現在ここでは当然のこと,多くのイスラム教徒を含んでいるだけでなく、もしも私たちが孤立論に、なおも満足していたら、このような批判やすでに提案されている改革の機会は完全に無価値になってしまうでしょうから、私たちの責任であり使命でもあるのです。孤立論によって、彼らの宗教や文化とともにイスラム教徒たちが標的になっているのですから。
返信する
Unknown (ウィル)
2015-02-01 21:06:27
ウィルです。
みさよさんも仰ってますが、フランスのテロに続いて、今度は日本人が被害者になるという事態になっています。惨憺たる気持ちになります。

- ne peut repondre queの主語が見つかりませんでした?これは省略しているってことなのでしょうか?なんとなくわかる気もするのですが、全体的に構文的にも内容的にも理解しにくく思いました。
**********************
ジハード。終わりに、恐怖を引き起こすこの言葉を言うのは、故意にそうしているのだ。というのは、その言葉が指し示す全てのことをよく調べるべき時だからだ。私はこの主題についての考えについては、最初のほうしか分からないが、それに執着している。我々の運命は、イスラム教徒の手の内にある。この名称がどれほど不正確であろうと。何故か。もちろん、この同類扱いに注意し、コーランや口承の伝統の中に死を求めることが読み取れると主張する反イスラム主義者に反対することは正しいことだからだ。しかし、それでは十分ではないだろう。ジハードを行う人々のネットワークによってイスラムを利用し、わすれてはいけないことは、イスラム教徒は、世界中、そして、ヨーロッパでさえ、その主要な犠牲者であることであるが、神学的な批判しか答えることはできず、最終的にはその宗教の「常識」の改革、それは、ジハード主義を信者の目からすると真実とは反するものにするものであるが、それしか答えることができない。そうでなければ、我々は、みな、テロリズムの死をまねく万力の中にとらわれるであろう、そして、テロリズムには、危機に瀕している我々の社会と、ますます軍事化する国家によって実行された安全性の、自由を踏みにじる政治のあらゆる服従と侮辱を受けた人を引きつけるだろう。それゆえ、イスラム教徒の責任、いや、むしろ、彼らに課せられる責務がある。しかしそれは、我々のものでもある。というのは、私がいう「我々」は、今ここでは、多くのイスラム教徒を定義上、含むものであるからであるだけでない。こうした批判やこうした改革の機会は、既に掴まれているが、もし、我々が、依然として孤立した対話、彼らの宗教、彼らの文化とともに彼らが、一般的に目標とする孤立した対話を取り続けるなら、全く無に帰するだろうということにもよるのだ。
返信する
Lecon309 (Moze)
2015-02-03 23:54:58
こんいちは。私もウィルさんと同じところ、主語がどこかという点が気になりました。
************
ジハード。あえて怖ろしいこの言葉を最後に口にするのは、いまやあらゆる想定を検討するべきだからだ。このテーマについて、私は少ししか知らないのだけれど、やはり考えてみたい。というのも、この呼び名が漠然としたものであっても、私たちの行方はイスラム教徒がカギを握っているからだ。なぜだろうか?もちろん同類扱いにには気を付けること、そしてコーランや言い伝えの中に殺人の教唆があると主張するイスラム嫌いの人たちに対抗することは当然だからだ。だがしかしそれでは不十分だろう。ジハーディストの地下組織によるイスラム教の悪用に対しては―忘れてならないのは、世界にそしてまさにヨーロッパに偏在するイスラム教徒たちが彼らの主たる犠牲者であることだ―神学的な考証、そして最終的には、ジハーディズムをイスラム教徒の目に偽りとする宗教についての「常識」の改革しか対応できないだろう。さもなくば、私たちは危機的なこの社会のあらゆる屈辱や侮辱を受けている人々を引きつけるうるテロリズムによって羽交い絞めにされるだろう。そしてだんだん軍国化する国家よって行われる治安政策、自由侵害行為によって身動きできなくなるだろう。それ故、イスラム教徒には責任がある。あるいはむしろ彼らに課された努めである。しかしそれは私たちの責任でもある。なぜなら、いまここで私が言う「私たち」とは、当然多くのイスラム教徒を含むからであるだけでなく、すでに述べたこのような考証や改革の機会は、もし私たちがこのままずっと、彼らの宗教や文化のために往々にして的になっている彼らをぬきに話をすることに甘んじるんのであれば、まったく無意味になるであろうからだ。
返信する

コメントを投稿