フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

フレデリック・ヴァームス『誰かを思うこと』(2)

2015年07月22日 | Weblog

[注釈]
 *Nous penserions à nos amis, (...) comme nous pensons à des objets : 前者が条件法現在形になっていることに注意してください。
 
[試訳]
 通常、それが明白な誤りであっても、こう考えて差し障りなさそうである。つまり、「他者に思いを馳せる」ことは「思考すること」のじつに様々な可能性の中のひとつのあり方であると。私たちは、友のことを、両親のことを、子供のことを、身近にいる人々のことを、上司のことを、同僚のことを考えるのみならず、敵のことを、ライバルのことを、競争相手のことを考える。それは対象が何かの物であっても、風景であっても、何であっても同じであろうと。精密に、繊細な筆致で、フレデリック・ヴァームスは、それがまったくの誤りであることを説明する。誰ひとりとして全般的に「他者に」思いを馳せることはない。私たちが思うのはいつも特定の「誰か」である。そうすると、こうした思いは必然的に具体的な姿をとることになる。すなわち「君のことを考える」とは、そこにひとりの人間の姿を思い描き、かぼそい声を、笑みを、思わず漏れた咳を耳にすることである。思考は誰でもない他者ではなく、単独性に、あの人に捉えられている。つまり思考とは、言葉や眼差しや肌合いなども含んだ、あるスタイルにかかわるものなのである。

 私的な省察日記
 
 こうした具体的な状況を仔細に見てみると、思考することがただ知性に限った出来事ではないことがまず理解される。感情や、感覚、情動、欲望と無縁な思考などはない。官能も心理も記憶も身体性もが、思考には織り込まれている。現実に、愛や憎しみや、喜び、悲しみ、希望や恐れを伴って「誰かを思うこと」は、あらゆる思考のモデルであり、原型でさえあることが、ページを追うごとに明らかになる。他者とかかわることが、不可欠の要素であるのみならず、原初の状況であるという意味において、思考の発生条件であることが明かされる。他者はまた思考を活性化する。なぜなら、いつまでも生き生きとして予見不能の他者は、思考を超え、私たちが他者に対して抱く思考にけっして還元されることがないからだ。「いつだって君にはハッとさせられる」
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 misayoさん、Mozeさん、暑い中訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。
 前回ここで触れた小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み終えました。小熊のいつもながらの旺盛な仕事ぶりに違わず、岩波新書としては大部の、四百ページに届こうとする著作でした。でも端正な文章と、平成を挟んだ戦後のある部分は、このぼくも共にした同時代であり、飽きることなくページを進めることができました。
 その「あとがき」にもあるように、どんなに突出した人物であっても、どんなに平凡な市民であっても、それぞれに時代の構造に否応なく組み込まれつつ、そこからの偏差もひとり一人の特異な人生として生きている。そのことを、この決して小さくない新書を通して、まざまざと追体験するることができました。戦後70年にふさわしい良書でした。
 それでは、すこし変則的になりますが、テキストの残りすこしの部分の試訳を29日(水)にお目にかけて、夏休みとします。
 最後になりましたが、暑中お見舞い申し上げます。またCaniculeの毎日が続きすが、どうかみなさんお身体には気をつけてください。Shuhei



2 コメント

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Lecn318 (Mose)
2015-07-28 23:44:14
こんにちは。ほんとうに暑くてやりきれませんね。最初にあるreleve の意味があいまいです。
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このすばらしいエセーによって、フレデリック・ウォルムスは哲学的なエクリチュールを確立する。このエクリチュールは、書き進められるうちに、それが描く鋭敏な生によって生彩を放つ。この教授は高等師範学校で教鞭をとるかたわら、ベルクソンを刊行し、現代フランス哲学を研究しているのだが、もはや研究者や理論家としてのみ語るのではない。彼は私的な省察日記のような、繊細と同時に親しみやすく、策を弄したような逸話もない別の書き方で表現する。そこでは、もちろんスピノザやウィニコットを経てルソーからドゥルーズまであらゆる種類の著作家に出会う。しかし、もったいぶったところ、凝り固まったり傲慢なところは全くない。多くの意味で、実際に他者を思う崇め奉らない哲学である。
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誰かを思うこと 2 (misayo)
2015-07-24 10:56:32
 暑中お見舞い申し上げます。なじみのない哲学者の名前が出てきて、戸惑いましたが、夏休みに、少しは勉強しようかなと思っています。皆様も良い夏休みをお過ごし下さい。

 この素晴らしいエッセーで、フレデリック・ヴァームズは哲学的な文体を確かなものにした。その文体は彼の轍の上に、描き出す鋭敏な生気を立ち上らせる。高等師範学校で教え、ベルグソンを編纂し、現代フランス哲学を研究する教授は、単に研究者として、あるいは理論家として語っているのではない。彼は違った調子で、私的で同時に繊細で親しみやすく、技巧のような枝葉末節のないある種の内省的日記を書いている。その中で読者は当然スピノザやウィンコットを辛抱しながら、ルソーからドゥルーズまでのあらゆる著者に出会うが、堅苦しくて硬直し尊大なものは何もない。哲学者は、多くの意味でまさに他の人のことを考えているのだ。
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