スウェーデンについて学んでいることを、まとめて書きたいと思いながら、なかなか時間が取れないので、重要なポイントについて、覚書風に書いていきたいと思います。
なぜ、スウェーデンはかなりみごとな「福祉国家」を形成し、さらに「緑の福祉国家」つまり「エコロジカルに持続可能な社会」を目指すことができるのか、というのが学び始めた最初から大きな疑問でした。
そして、そういうことを可能にするのはスウェーデンの国民性であり、その国民性を育んだのは、少し前まで国教だったプロテスタントキリスト教の精神に違いないという推測をしていました。
そして、『スウェーデン人』(新評論)で、自らスウェーデン人のイリス・ヘルリッツが次のように書いているのを読んで、まちがいなかった、と思いました。
「人は、だれかに何かを負うべきではありません。そのほかの多くの考え方におけるのと同様に、こうした視点は、ルターの教義のきわめて厳格な所産です。」
「ある社会では、こういうことが言われるかもしれません。/『生きるために働くのである』/スウェーデンにおいては、私の思うところ、次のように言うほうがより正確だと思われます。/『働くために生きているのである』……結論としては、たいていの場合、スウェーデンではほとんど清教徒的と言ってもよい職業意識が支配的であると強調しても差し支えはないでしょう。」
スウェーデンの福祉国家を支えているのは、自分で働いて自分を支える、しかし大きな問題には共同して支えあうという、自立と連帯の精神だと思われますが、その源泉はルター派キリスト教の精神であるようです。
そのさらなる源泉として、例えば新約聖書(聖書協会訳)「テサロニケ人への第一の手紙」第4章9節~12節に以下のような言葉があります。
「兄弟愛については、今さら書き送る必要はない。あなたがたは互いに愛し合うように神から直接教えられており、また、事実マケドニア全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ、あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。」
かつてのスウェーデン人(のそうとうな部分)が、こうした聖書の教えをきわめて真直ぐに受け止めてきたのだと思われます。
それが、国の主流の思想が社会民主主義という非宗教的なかたちになっても、国民性のベースとして生き続けていると見てまちがいないと思われます。
マックス・ウェーバーに『プロテスタンティズムと資本主義の精神』という名著がありますが、それになぞらえていえば、「プロテスタンティズムとスウェーデンの精神」ということになるでしょう。
スウェーデンでは、プロテスタンティズム→社会民主主義→中立→緑の福祉国家という道筋があり、日本では明治国家→神仏儒習合の崩壊の始まり→戦争と敗戦→神仏儒習合の崩壊の進行→戦後資本主義・過度の競争社会という筋道があるのではないか1)2)3)4)5)6)7)8)9)10)11)、と見えてきました。
さて、こんなにも違う筋道をたどってきた日本は、どうしたらスウェーデンに学ぶことができるのでしょうか? うーむ……*
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