教えているどの大学・学部でも唯識の話が終わりました。
レポートの提出が始まっていますが、今年も唯識をしっかりと理解した学生がたくさんいるようで、とても喜んでいます。
私は、授業でよく言うのですが、「山の高さはどこで測るんだろう? 麓か中腹か頂上か? 決まってるよね」と。
「山の高さは頂上で測るんだよね。で、その場合、山の頂上が広いかどうか、あるいは山の裾野が広いかどうかというふうなことは、山の高さを測る上で参考にされるんだろうか?」
「もちろん、されない」と。
「文化の高さもそれと同じなんじゃないかな? しかも広さはそれほど問題じゃない。要するに頂上が高いかどうか、が問題なんだ、と僕は思うんだけどね」
「ところが、明治以来、日本人は西洋近代の文化の高いところと、日本の近代化されていない一般の部分を比べて、日本は程度が低い、劣っている、遅れていると感じてきたというところがあるんじゃないだろうか?」
「歴史的にはやむをえない事情もあるんだけど、しかしそれは正当な比較の仕方じゃないよね」
「比べるなら、高いところと高いところ、頂上と頂上を比べるのがフェアな比べ方だと思うんです」
「そして、例えば唯識という高み・深みと、エックハルトでもフロイドでもユングでもアドラーでもいいけど、そういう西洋の心に関する洞察の高み・深みを比べたら、東洋-日本はまったく見劣りがしない、どころか、ある面でははるかに高い・深いと正当に主張することができる、と僕は思うんだよね」
「君たちは、日本の戦後教育の基本方針のために、そういう日本の高み・深みを教えられないままに育ってきて、欧米に劣等感をもってきたわけだけど、これでもう劣等感をもつ必要はなくなったわけだよね。もっとも、比較して優劣を競うというのは、しばしばあまりにも不毛だから、優越感をもつ必要もないんだけどね」
「そして、授業はこれで終わりじゃないんだよ。これから、日本の精神的伝統のもう1つの高み・高峰、聖徳太子の話をするからね」と前置きをして、昨日、火曜日から聖徳太子「十七条憲法」の話を始めています。
ご存知だと思いますが、明治憲法でも現行憲法でもなく、聖徳太子「十七条憲法」こそ、日本最初の憲法です。
そこには、日本という国が国のかたちを創り始めたその時に高々と掲げた国家理想、「和」の精神が謳い上げられています。
「和」とは、人間と人間の平和、人間と自然との調和、2つの意味が含まれています。
604年に公布されたものですから、なんと1400年以上前に、日本はいわば「緑の福祉国家」の理想を掲げていたわけです。
私たちは、一方ではその始まりの古さを誇りにしていいと思いますし、もう一方ではその実現の遅さを恥じるべきではないかとも思います。
いずれにせよ、私たちには帰るべき、帰るに値する原点があるということは、とても幸いなことだ、と私は思っています。
教育基本法も憲法も、この原点に立ち帰ったところからこそ本当に改正する――正しく改める――ことができるのだと思います。
大変失礼ながら、そして残念ながら、与党も野党も、原点を忘れたところで議論しているように見えてしかたありません。
これまた我田引水ですが、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を読んでくださっている国会議員は、私の知るかぎり1名。とても共鳴してくださっているらしいのは、うれしいような、悲しいような……。
なんとか、教えている数百人の学生だけでなく、国の責任あるリーダーのみなさん、そして国民のみなさん全員に原点に立ち帰っていただきたいものだと願わずにはおれません。
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