それから面白いのが、第九の「無雑穢業国土平坦の願」である。菩薩の建設する仏国土では汚れや危険なものがまったくなく、土地は平坦であるようにしたいという。いわば、お年寄りや体の不自由な人のためだけでなく、すべての人にとってバリアフリーな国を建設したいというのである。
……悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。……有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……
今の日本は、例えば核のゴミを筆頭に処理しきれないゴミが山積している。放射能汚染も決して全面除染できたとは思われない。日本の周りも含め世界中の海が廃棄物、特にプラスティックで汚染されている。清掃活動をしてもしても、海岸には毎日ゴミが打ち寄せる。地方は衰退し、耕作放棄地は荒れ放題だし、山林も荒れてきている。そして、その荒れた山林にゴミの不法投棄が行なわれ、建設残土等の不法投棄が行なわれている……等々、自然の理に反した経済の営みが、日本でも世界でも、国土を荒廃・汚染させいのちへの危険を増しつづけているのではないだろうか。
自然の理に反した経済の背後には、無明から生まれる過剰な欲望・貪欲が潜んでいる。貪欲が国土を荒廃・汚染させるのだから、国土を美しく再建するためには、過剰な欲望から離れ自由にならなければならない。
しかし、それは「清貧」を目指すというのとやや異なっていて、自然の理に沿った豊かさというのがあるのであり、自然の理に沿って美しく豊かな国土を創りたいというのが、菩薩の願である。
菩薩の願は、いわば「心に花を」といった個人的な精神論にとどまらず、「この世を花園に」という大きなスケールの具体的な目標も含んでいる。含んでいるというより、心の美しさと国土の美しさは表裏一体のことと捉えられていると理解していいだろう。
この「心も国土も花園のように」という願は、「人間なんてそんなものじゃない」とか「現実はそんなものじゃない」と思い込んでいる現実主義者には、きれいごとにすぎないと見えるだろうし、きれいごとと言えばある種きれいごとかもしれない。しかし、こんなにきれいなきれいごとはないのではないかと思う。
そして、確かにこれは現状の現実ではないが、未来に実現すべき「未来の現実」のヴィジョンなのである。それが実際に可能になるには、第九願にあったように、すべての人が覚れると定まり、第一から第六までに語られた六波羅蜜を実践し、分別知・無明から解放される必要がある。
その場合、「この世が花園だといいな。ユートピアだといいな(誰かにやってほしい)。」と思っているだけでは菩薩とは言えない。菩薩は、いわば先駆者として自ら無明からの解放すなわち覚り・菩提を追求しつつ同時に命がけで仏国土を実現しようとする。
目指すところは、下手をすれば軟弱なきれいごとに見えかねない。あるいは不可能な理想だとも取られかねない。しかしその理想の実現に向かって、命がけで渾身の努力・雄々しい努力をする。それが菩薩なのだ、と。
こうした大乗の菩薩論は、単なる個人の精神論ではなく、人々の先駆者・リーダーの心・志のあるべきかたちを語った精神論なのだ、と筆者は理解している。
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