一切の仏法は欲があること(有欲)を本性とする。
欲のある衆生を愛し包み、自己と同体とすることを完成させるからである。
一切の仏法は怒りがあることを本性とし、一切の仏法は愚かさのあることを本性とし、一切の仏法は凡夫のあり方を本性とする。
一切の仏法は汚染のないことを本性とする。
完成された真如は、どんな障害も汚染することができないからである。
(『摂大乗論現代語訳』第七章より)
唯識の話をすると、初期に必ずといっていいくらい頻繁に出てくる疑問・反論的質問があります。
「人間の欲はなくならないんじゃないですか?」「欲がなくなったら人生がおもしろくなくなるんじゃないですか?」というものです。
それは、仏教は人間の欲望を否定するものだという、やや不正確な一般常識から来る部分と、欲望をなくしておもしろくない人生になるような仏教は受け容れたくないという気持ちから来る部分があるのではないかと思われます。
筆者も大乗仏教‐唯識をちゃんと学ぶ前はそういう疑問をもっていましたが、ちゃんと学んだら疑問は氷解しました。
まず、右に引用した言葉のとおり、「一切の仏法は欲があることを本性とする」のです。
それどころか、凡夫の怒りも愚かさも共有するのが、仏法だといわれています。
これは常識からは非常に意外な言葉ですが、よくわかってくると、なるほどとうなづかせられました。
仏は「目覚めた人」ですから、人間なのです。
人間には自然な欲求は必ずあります。
例えば食欲がまったくなくなったら、栄養失調で死んでしまいます。
死んでしまったら、他の人を愛することはできなくなります。
ほどほどに食べて元気でなければ、人は愛せません。
したがって、目覚めた人も、他者を愛するためには、適度な食欲が不可欠です。
それから、たくさんの人を愛したいというのは、大変な欲です。
ましてすべての生きとし生けるものを救いたいなど、常識からいえば誇大妄想的に大きな欲です。
しかし、そういう大きな欲をもつのが菩薩つまり仏を目指す人ですし、また仏・目覚めた人ももちろんそうです。
つまり、仏・菩薩は大変な欲張りなのです。
そういうわけなので、唯識を学んだら、自然な欲求に加えて大きな欲求をもちましょう。
もちろん、歪んだ、いきすぎた、そのくせどこかみみっちい欲望はコントロールし、癒していきましょう。
とはいえ、歪んだ欲望も、自然な欲求も、仏・菩薩の欲求・願も、すべてコスモスの営みですから、究極的には汚染はないといわれています。
「完成された真如は、どんな障害も汚染することができない」のです。
しかし、すべてがコスモスの営みであり、だからすべてが肯定されていることに気づいた人は、そこで居直るのではなく、だからこそ、コスモスによりよいことを創発させるべく参加・努力していくのです。
もちろん、自発的に、おもしろがりながら、です。
今年も、一刻も休むことなくよりよいものを生み出しつつあるコスモスの進化の働きに楽しみながら能動的に参加していきましょう。
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