木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

誤認逮捕と冤罪のわなを教える「それでも僕はやってない」

2007年03月07日 | Weblog

今日も引き続き映画の話題を。
『それでも僕はやってない』この映画は、誰もがぜひ見たほうがいい。
映画館での上映を見逃した人も、テレビ放映やDVDで。
誤認逮捕、そして冤罪は誰のところにも突然襲ってくる。
その時、どうしたらいいか、学習しておいたほうがいい。
映画では就職の面接に出かけようとしていた青年金子徹平が、満員の電車で、ドアーにはさまった上着を引き抜こうともがいた行動を痴漢行為と誤解されて、警察に逮捕されてしまう。
警察官は、最初から徹平を犯人として、彼の言い分を聞こうとしない。
警察は、いったんつかまえた者は、もう犯人と決めてしまうのだ。
それが警察というところだと、私たちは覚悟したほうがいい。
いちいち、言い分を聞いて、裏づけをして、などということは面倒くさいからしたくないのだ。
特に軽犯罪とも言うべき痴漢事件などは「男なら誰でもやるだろう」という感覚なのだ。(それは刑事さん、あんたでしょ)というところだが。
警察官の作った調書を精査する立場の検察官も、たくさんの事案を抱えているので、これも早く仕事を片付けたい、調書に矛盾がないか、などと見る気はない。
そして、裁判官も検察官と一緒。
警察・検察・裁判所、この三者は仲良しグループだ。
誤認逮捕されたとき、どうしたらいいか。普通の人は顧問弁護士など持っていないから、当番弁護士を呼んでくれるよう要求しなければならない。
知らないでいると、そういうことも教えてくれない。
そして、警察の調書に簡単にサインしてはいけない。
しかし大多数の善良な市民は、ふだん警察には縁がない。
捕まえられ慣れしていれば別だが気が動転してしまう。
警察には近づかないようにするのが一番だが、こちらが近づかなくとも向こうが一網打尽に網をかけてくる。
犯罪者をつかまえるためにとにかく網をかけて、すべて引き揚げて、雑魚を捨てるというやり方だ。
つい最近も、鹿児島で、県議選の選挙違反を、警察によってでっち上げられた村民がようやく無罪を勝ち取った事件があったが。
「やっていないこと」を「やっていない」と言い続けることがいかに困難か。
警察は自白をさせるプロだ。自白に頼る捜査は邪道のはずだが、これが一番面倒でなくて楽。
とにかく面倒を嫌うのが警察という場所であり組織だ。
警察がこうなってしまうのにはシステムの問題があるのだろうが。
メンツと成績主義。事件をでっちあげてでも成績を競う。
ボウッとしたごく普通の若者である徹平だが、友人や担当弁護士とともに、無実の証明の実験をする。
しかし、裁判所の判決は・・・。
周防正行監督は、よくこの映画を作ってくれた。
法律は何のためにあるか、警察や検察や裁判所は何のために存在するか、
それは国民のためでないことだけは確かだ。少なくとも今の日本の状態は。



コメント
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